第二バチカン公会議後の教会の危機
2026年2月28日 四旬節の四季の斎日の土曜日
トマス 小野田圭志神父説教 北海道(札幌)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
もう皆様もご存知の通り、来たる7月1日、エコンにおいて、聖ピオ十世会の二人の司教様たちにより、新しい司教様の聖別式が行われます。司教様が聖別されることは、私たちにとって非常に大きな喜びです。この司教聖別は、カトリック教会のため、霊魂の救いのため、教会を愛するため、教皇様への奉仕のために行われることですが、この意義を理解するために、私たちはどうしても「第二バチカン公会議後の教会の危機」について理解しなければなりません。
そこで今日は「第二バチカン公会議がどのようにして起こったのか」
次に「その後、どのような結果が起こったのか」
そして「その原因は何なのか」を一緒に黙想いたしましょう。
(1)第二バチカン公会議
教皇ヨハネ二十三世は、第二バチカン公会議の招集を発表しました。教皇は「アジョルナメント(現代化)」という言葉を何度も繰り返し、公会議を「教会に新鮮な空気を吹き込むため」の「現代世界における教会の刷新」としました。これまで公会議といえば、教義上の誤りを排斥することを目的としてきましたが、ヨハネ二十三世はこの慣習を拒否しました。教皇によれば、
「今日、キリストの花嫁(カトリック教会)は、厳しさという武器を振るうよりも、憐れみという薬に訴えることを選ぶ。[…]確かに、誤った教義や意見は数多く存在する。[…]しかし、それらは誠実さの原則に明らかに反し、苦い結果をもたらすため、今日では人々は自らそれらを非難し始めているようだ。」
このように、非常に楽観的に誤りを排斥することを拒みました。
公会議は1962年に開会しました。翌年、教皇ヨハネ二十三世が死去し、教皇パウロ六世が後継者としてこの路線を維持しました。パウロ六世にとって、公会議は「教会に新たな道を開くため」、「膨大な精神的・道徳的エネルギーの春の目覚めとなるため」に存在していました。つまり、公会議とは「現代世界への架け橋を築き」、「世界との対話を始める」ために「努力する」ものであり、すなわち「世界への開かれた窓」でした。
そうして1965年12月、第二バチカン公会議は、その精神を要約した教皇パウロ六世の重要な閉会の演説をもって幕を閉じます。
「"人間となった天主"の宗教は、"自らを天主とする人間"の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。[…]人間たちに対する限りない好感が公会議全体を侵略しました。[…]現代の人間中心主義者 humanistes である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝する le culte de l'homme ものなのです。」(『歴史に輝く教会』 p444)
これが、教皇パウロ六世の言葉でした。
(2)第二バチカン公会議直後
では、第二バチカン公会議の直後、何が起こったでしょうか?
公会議の実施により、閉会から4年後の1969年、新しいミサがパウロ六世によって公布されました。教皇と多くの司教たちは、カトリックの刷新への希望をそこに託しました。
現代世界憲章の最初の言葉「ガウディウム・エト・スペス(喜びと希望)」は、公会議の最後かつ最も重要な文書の一つを導く言葉であり、まるで輝かしい時代の到来を告げているかのようでした。しかし「ガウディウム・エト・スペス」の直後に続くのは「ルクトゥス・エト・アンゴル « luctus et angor »」、つまり「悲しみと苦しみ」です。これを実現するかのように、1968年末、教皇パウロ六世はすでにこう述べています。
「教会は自己批判、むしろ自己破壊という不安な時期にある。それは、公会議の後では誰も予想しなかった、鋭角的な転換のようなものである。教会は、いわば自らを破壊している。」
また、1972年、パウロ六世は次のように言いました。
「公会議の後、教会史に明るい日が訪れると信じられていた。しかし、実際には、雲と嵐と闇と探求と不確実性の時代が訪れた。[…]今日の教会の状況を見ると、どこかのひび割れからサタンの煙が天主の神殿の中に侵入したのではないかという感覚を覚える。」
(3) 深刻な危機という共通認識
第二バチカン公会議後の教皇パウロ六世のこの認識は、決して孤立したものではなく、多くの人々も同じことを指摘していました。その全てを列挙することはできませんが、いくつかをご紹介しましょう。
●『歴史に輝く教会』(1969年 南山大学発行) によれば、すでに「公会議後の諸問題」(pp.535-579)という題の論考は、教会における危機、エキュメニズムの危機、司祭職の危機、権威の危機、信仰の危機について語っています。
●その思想が公会議に影響を与えた哲学者ジャック・マリタンは、1965年に「深刻な危機をもたらす全般的な混乱」を嘆きました。さらに翌年には、
「非常に伝染性の高い新近代主義の熱狂 […] それに対して、ピオ十世の時代の近代主義は、ささやかな花粉症に過ぎなかった」と非難し、「真理の意味そのものが脅かされている。そして、神聖さ、天主の超越性、十字架の現実の意味も同様に脅かされている」と警告しました。
●その近代主義によって、教皇ピオ十二世から非難を受けたド・リュバック枢機卿は、1967年に「新しい教会、公会議後の教会という名のもとで、イエズス・キリストの教会とは異なる教会、つまり人間中心の社会、つまり背教の危機に瀕している社会を築こうと努力している」と述べました。この人間中心主義は、パウロ六世が宣言した「人間の礼拝」を奇妙に思い起こさせます。
●ローマの教皇代理であるポレッティ枢機卿は、公会議の改革を支持し称賛していた人物であるにもかかわらず、1984年に次のように述べています。
「公会議後の数年間、カトリック教会では教義上および司牧上の大きな混乱が生じ、カール・ラーナーのような疑いの余地のない学者が『隠れた異端』について言及するに至った」と。カール・ラーナーは、公会議の主要な神学者であり、進歩主義者で非常に影響力のある人物でした。
●後に教皇ベネディクト十六世となったラッツィンガー枢機卿は、1985年に深刻な状況について次のように述べています。
「この二十年間(1965~85年)がカトリック教会にとって決定的に不利であった、ということには議論の余地がない。公会議に続く結果は、教皇ヨハネ二十三世、そしてパウロ六世を始めとするみんなの期待を無惨にも裏切ったかに見える。キリスト教徒は、再び、古代末期以来かつてない少数派になってしまった。・・・ 公会議の教皇たちや教父達は、カトリック的な新たな一致を期待していたのに、――パウロ6世の言葉を借りて言えば――自己批判から自己破壊になりかねない不一致に直面した。・・・ 躍進をこそ期待したのに、結果的には衰退を見せつけられ、それは公会議の真の精神の権威を失墜させる自称 "公会議精神" の掛け声のもとで蔓延していった。」(メッソーリ著『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』(1985年 日本語訳1993年)40-41ページ)
II 危機の具体例
危機の特徴は、カトリックの宗教の実践の危機、聖職者の危機、信仰の危機です。
私たちが直面しているこれらの危機について、具体的に見ていきましょう。
(4)フランスにおける脱キリスト教化
フランスでは、公会議前の数年間は、宗教的な実践が全体的に安定して行われていましたが、1966年以降、その実践が劇的に減少しました。統計を全て列挙することはできませんが、いくつかをご紹介したいと思います。
●パリでは、1962年から1969年の間に、信徒の35~40%が失われました。これはパリの教区のほぼ半数に相当します。例えば、サクレ・クール・ド・コロンブ教区では、日曜日に6回のミサが行われ、1400人が参加していました。しかし、新しいミサができて4年後(1974年)、日曜日の3回のミサには300人(うち200人は高齢の女性)しか参加しなくなりました。これは80%の減少です。パリだけではありません。フランス全てで同じようなことが起こりました。
●ノルマンディーでは、バイユー、クタンセ、セーズの各教区で、1960年には日曜日のミサ出席率が40%でしたが、1987年にはわずか9.5%となり、40年足らずで75%の減少となりました。
●リールでは、1949年と1957年に実施された調査では実践が安定、あるいはわずかに増加していると結論づけられていたにもかかわらず、1960年代後半には実践が激減し、一部の教区では毎年信者の10%を失う事態となりました。
●トゥルクアンでは、ノートルダム・ド・ラ・コンソラション教会が1966年から1970年の4年間で信徒の3分の1を失ったため、司教は教会の取り壊しを決定しましたが、教区民の団体により土壇場で救われました。
また、洗礼に関しては、1965年には、国内の子供たちの93%が3ヶ月以内に洗礼を受けていましたが、2020年には7歳までに洗礼を受ける子供はわずか30%と、フランス全体で3分の2の減少となり、洗礼を受ける時期も大幅に遅くなりました。
そして、カトリック信仰を実践する信者の中にも熱意の低下が見られ、告解を受ける人はますます少なくなっています。1952年から1983年の間に、定期的に告解を受ける人の4分の3が失われました。一方、全く告解を受けない人々のグループは、ほぼ2倍に増加しました。
(5)世界中における脱キリスト教化
フランスだけではありません。世界中に脱キリスト教化の現象が見られます。
●イギリスでは1900年以降、カトリック信者が2倍以上に急増し、プロテスタントは減少傾向にありました。しかし、カトリック信者の数がアングリカンを追い越すと見えていたその時、第二バチカン公会議が起こり、1970年代の変わり目には、この上昇傾向が突然長い下降傾向へと転換しました。結婚やミサへの出席は、それまで着実に増加していただけに、その減少はさらに急激なものとなりました。さらに、洗礼も同様に急減しました。
●ドイツでは、第二バチカン公会議閉会直後に、洗礼と日曜日のミサへの出席が同様に減少しました。この間、世界人口は大幅に増加していたことを認識しておく必要があります。したがって、比率を安定させるには、人口の増加に合わせて数字も増加する必要がありました。
●ラテンアメリカも例外ではありません。
たとえば、何世紀にもわたりカトリック信者が大多数を占めていたブラジルでは、第二バチカン公会議後の1970年代から、プロテスタントの人口がカトリックの人口を徐々に奪い始めています。1960年には、人口の93%を占めていたカトリック信者は、2022年にはわずか56%にまで減少しました。つまり、2億人以上の人口を抱えるブラジルにおいて、ほぼ半数のカトリック信者が失われたことになります。そして、チリやグアテマラなど、ラテンアメリカの多くの国々でも同様の状況が見られました。
(6)司祭職の危機
司祭職の召命にも大きな危機が及んでいます。
●スペインでは、第二バチカン公会議の閉会と時期を同じくして、神学生の数が減少しました。ヨーロッパのカトリック諸国のほとんどで、司祭の叙階の数は1964年から1968年の間に減少しました。この減少は、その後も大きく続いています。
●イギリスでは、1966年以降、司祭の総数が急激に減少しました。これは、新たに叙階される司祭の数が減少しただけでなく、司祭たちが自らの誓約に反して司祭職を放棄したことも意味しており、教会の歴史上、これほど大規模なものはかつてありませんでした。
●フランスでは、司祭職を放棄する者の数が、数年で4倍に増加しました。
ロマーノ・アメリオ教授がバチカンの統計を紹介してこう言います。バチカンが発表した統計によると、1969年から1976年の間に、世界の司祭の数が41万3000人から34万3000人に減ったことを示しており、これは7年間で7万人の司祭が減ったことを意味します。つまり、司祭が聖職を辞めたということです。
一方、修道者は20万8000人から16万5000人に減り、4万3000人減少しました。この数字には死亡者も含まれていますが、その数はこの減少を説明するにはほど遠いものであり、主に離職や聖職への志願者の急激な減少によるものです。
ラッツィンガー枢機卿は女子修道会についてこう言いました。
「60年代の初め頃、ケベックはまだ600万人の人口に対して、世界でも最も修道女の数の多い地方であった。ところが1961年から81年にかけて、脱退、死亡、入会志願者減少などで、修道女の数は46933人から26294人に減った。なんと44パーセントの減りようで、とどまるところを知らぬありさまであった。同じ時期に、入会志願者の数は98.5パーセントも激減した。そのうえ、残りの1.5パーセントの大部分は若い女性ではなく、"熟年召命者" であることが確かめられた。[…] 今後短い期間に(すくなくとも人間的観点からはまったくありえない傾向の逆転でもないかぎり)私たちの知っている女子修道生活は、カナダではただ記憶としてしか残らないだろう。」(『信仰について』pp132-133)
これについてパウロ六世は「統計は私たちを圧倒している」と述べています。
また、ヨハネ・パウロ2世は、こうした離脱について「反証、不利な証言であり、公会議によって生み出された希望を後退させた理由の一つである」と述べています。
ローマは、かつてないほど、多くの元司祭たちに独身制の免除を与えました。
イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会など、多くの司祭・修道者を持っていた修道会は、第二バチカン公会議の閉会後、大幅な増加から大幅な減少へと転じました。それ以来、世界中で修道者の数は減少の一途をたどっています。修道生活は世界的に崩壊し、ダニエル枢機卿は、修道生活の「再生」ではなく「衰退」について語るべきだと述べました。
ベネディクト十六世は、2013年2月8日に次のように述べています。
「修道院が閉鎖され、神学校が閉鎖されているのに彼らはこう言います。"しかし ... 何でもありません。全ては順調です。"... いえ、全ては順調ではありません。」
(7)カトリック信者の信仰危機
カトリックの宗教の実践以上に、信仰そのものが損なわれています。
聖伝によると、信仰とは、天主によって啓示された真理に対する知性の同意です。
レオ十三世が指摘するように、一つの教義を拒否することは、天主の真理を裁く者であることを自任し、自らの理性を天主の権威の上に置くことであり、したがって信仰を失うことです。信仰とは、好きなものだけを選んで残りは置いていくスーパーマーケットのようなものではありません。
2004年に行われたフランスのCSA (Conseil sondages analyses) の世論調査によると、敬虔なカトリック信者のうち、地獄の存在(これは教義であるにもかかわらず)を信じているのはわずか23%でした。また、同じく敬虔なカトリック信者のうち34%が、マホメットが預言者であることを「完全に」信じていると回答しています。フランスのカトリック信者のうち、カトリック教会が唯一の真の宗教であると考える人はわずか7%でした。社会学者イヴ・ランベールは、「1952年にはカトリック信者の半数が唯一の真の宗教は一つだけだと考えていたことを知れば、この変化の大きさがわかる」と強調しています。
2008年にジョージタウン大学応用使徒研究センター(Center for Applied Research in the Apostolate, University of Georgetown)が実施した世論調査は、回答者の世代ごとに結果を区別しています。この調査からは、第二バチカン公会議以前の世代のカトリック信者は、「第二バチカン公会議」および「第二バチカン公会議後」の世代よりも、聖体における実在を信じる人がはるかに多いことが明らかになっています。新しい世代は、聖体礼拝に参加する頻度が低くなっています。また、第二バチカン公会議後の世代のカトリック信者は、その前世代よりも、「父なる天主は天と地の創造主である」ことや「三位一体の天主、父、子、聖霊は唯一である」という、カトリック教理の基本である教義を疑う傾向が強くあります。さらに、より最近のアメリカの世論調査によると、米国のカトリック信者のうち、聖体における主の現存の教義を実際に知っており、それに賛同しているのはわずか28%にすぎないとのことです。
(8) 教義上の権威の危機
この信仰の危機は信者にとどまらず、教会の権威者たち、すなわち聖職者たちにも大きな影響を及ぼしています。
公会議の後、カトリックのあらゆる機関に、言葉では表現しきれないほどの混乱が蔓延しています。その全体像を伝えることは難しいほどです。至る所で、司祭たちが、道徳や教会の教義、典礼に関して、恐ろしいほどの自由を乱用し始めています。偽りの宗教の功績を称賛する司祭もいます。信心の道具は迷信だと言って祝福を与えることを拒否する司祭もいます。立ったままの聖体拝領を強制するために、跪く信者たちに軽く蹴りを入れる司祭もいます。日曜日のミサの義務を否定する司祭もいます。そして、このような司祭たちは制裁を受けません。
同時期に、リールの司教は、ルーベのイスラム教徒のために修道院の礼拝堂をモスクとして提供することを誇らしげに発表しました。アミアン、モンペリエ、クレルモン・フェラン、ニース、ナント、ディジョン、オートン、ポントワーズ、ボルドーなど、フランス全土の司教たちも同様の対応を行いました。
【アメリカのアーリントン大学で行われた会議で、カトリック信者たちは、逸脱した聖職者を取り締まる立場にある聖職者省の長、オッディ枢機卿に対し、キリストが天主であること、天主の御母の童貞性、原罪、聖体における現実の現存、道徳的命令の絶対性、地獄、聖ペトロの首位性といった教義が、神学者や司教たちによって教会や大学の説教壇から公然と拒絶されていると訴えました。枢機卿は「なぜ避妊や同性愛に関する教会の教えに公然と反対するカラン神父のような、不和の種をまく者たちに対して何の反応もないのか」と尋ねられました。枢機卿は、「教会はもはや罰を与えるのではなく、道を踏み外した者たちを改心させることを望んでいる。[…]おそらく、さらに深刻な不服従のスキャンダルを引き起こすことを恐れているのだろう」と認めました。】
(8) オランダの事例
公会議後、聖伝に従う見解を持ち、信仰に関する責任を負う検邪聖省を率いていたオッタヴィアーニ枢機卿は、世界の司教たちに書簡を送りました。書簡の中で、オッタヴィアーニ枢機卿は、教会の生活を揺るがしている「蔓延する乱用」と「奇妙な見解」に対する深い懸念を表明し、司教たちにこれらの誤りを「抑制」または「予防」し、状況を報告するよう求めました。
最も印象的な反応は、公会議中に大きな影響力を持っていたアルフリンク枢機卿が議長を務めていたオランダ司教たちからのものでした。オッタヴィアーニ枢機卿への返答において、オランダ司教たちは、第二バチカン公会議に依拠し、自らの権威を主張し、検邪聖省長官の枢機卿に真っ向から反対しました。彼らは「誤りを非難することは不適切である」と反論しました。なぜなら、誤謬の排斥は「あらゆる誤りの中に隠された真理の霊魂を見失う」ことになるが、この真理の霊魂は「信者を魅了し」、彼らに「より真正な信仰」を与えるからだ、と。誤謬の排斥は第二バチカン公会議の精神を否定することだ、と。
彼らは、自らの主張を裏付けるために、公会議冒頭のヨハネ二十三世教皇の演説を引用し、「公会議によって支持された」この判断が、オッタヴィアーニ枢機卿の書簡(彼らはこれを旧派に属するものとして退けた)には「反映されていない」と嘆きました。
さらに深刻なことに、彼らは「教義上の定型表現(決まり文句・定式)は決定的なものではない」と主張し、今までカトリック教会が信じて来た多くの信仰箇条を否定し始めました。彼らはイエズスが童貞女に懐胎したことに疑問を呈し、聖体における「全実体変化」という考えを否定し、個人の告解の必要性を否定し、原罪の実在性を疑い、アダムとエワが実在していたというピオ十二世教皇の最近の注意喚起を無視して、自然法の「静的概念」(自然法が変わらないこと)を否定しました。【彼らは自然法と言われるものでさえも文化や時代や場所によって変化すると主張しました。】
彼らは早くも1966年10月、オッタヴィアーニ枢機卿の目の前で、そして彼の書簡の直後に、悪名高いオランダのカテキズムを出版しました。これは教義上の成功とは言わないまでも、世界的なベストセラーとなり、日本語にも翻訳されました。この教理問答は、すでに述べた誤りや不正確さをすべて凝縮し、教皇の役割を軽視し、天使の存在を完全に省略しました。
ついに1968年から1970年にかけて、オランダの司教たちは全国司牧評議会を招集しました。評議会は司祭の独身制を廃止し、女性を叙階し、信徒が教会の統治に参加することを認める決議を採択しました。これに対し、パウロ六世は状況を調査するために枢機卿委員会を招集しました。委員会の一員であったジュルネ枢機卿は、教皇に対し、その不可謬性の名の下に、これらの誤りを明確に非難するよう強く求めました。
しかし、教皇はジュルネ枢機卿に返答すらしなかったようです。彼は権威を行使することを控え、何も、誰も非難することなく、ただ信仰告白をしました。パウロ六世はついに1969年末、オランダの司教たちに手紙を送り、こう問いかけました。
「普遍教会の司牧者としての責任を自覚する私は、率直にあなた方に尋ねざるを得ません。あなた方を助け、あなた方の権威を強化するために、私は何ができると思いますか?」
これらの司教たちが攻撃しているのは教会の権威であるにもかかわらず、教皇は司教たちの権威を強化しようとしていました。これはいったいどういうことだったのでしょうか?
この事例はすさまじいものですが、決して稀なことではありません。
また、いくつかの司教会議全体が、避妊に関するパウロ六世の回勅「フマネ・ヴィテ」に公然と反対しました。他にも、フランスの司教たちによる悪名高い教理問答「Pierre Vivante(生ける石)」や、長年カトリックの教義に異議を唱え、1979年に遅ればせながら曖昧な制裁を受けるまで何の罰も受けなかった神学者ハンス・キュングの例を挙げることができます。
ローマ権威の危機
しかし、ローマ当局は混乱に直面しても常に受動的でいるわけではありません。例えば、欠陥のある翻訳を承認することで、進行中の革命に同調し、あるいはむしろそれを助長することさえあります。
教皇庁の最高レベルにおいてさえ、主要教会会議の枢機卿長官の中にはカトリックの教義を誤って扱っている者もいます。1968年、フィレンツェで開催された神学者会議において、カトリック教育省長官ガロンヌ枢機卿は次のように宣言しました。
「前世紀、神学者たちは人間の理性には天主の存在を証明する能力があると断言せざるを得ませんでした。[…] 私たちは、哲学が提供できないものを哲学に求めたため、その誤りを認めなければならない。」
問題は、ガロンヌ枢機卿が否定しているのは、単に少数の神学者の意見ではなく、1870年の第1バチカン公会議で明確かつ厳粛に宣言され、聖書(ローマ人への手紙1章20節、知恵の書13章)によって明確に肯定されている信仰の教義(客観的な現実を観察することから天主の存在を確実に推論することが出来るという教義)であるという点です。そして、1984年12月7日付のバチカンの機関紙「ロッセルバトーレ・ロマーノ」において、司教省長官ガンタン枢機卿は、「私たちはキリストの奇跡を行う力によって【客観的な奇跡を動機としてキリストが天主であるということを確実であると推論することによって到達する】信仰を求められるのではなく、キリストへの信仰によってこそ、キリストの奇跡をも信じることができるのだ」と宣言しています。つまり、客観的な事実によってキリストが天主であることの信憑性を確認するのではなく、主観的に盲目的にキリストを信じるのが先だとしているのです。
第二の問題は、ここでも長官ガンタン枢機卿が第一バチカン公会議で宣言された教義とは正反対のことを主張している点です。「ロッセルバトーレ・ロマーノ」には、他にも驚くべきことが数多く記載されています。
さて、教皇庁そのものの問題については、ここでは触れないことにいたしましょう。
III 危機の原因
(9) 診断:公会議を弁護すべきか、非難すべきか?
今日、私たちはほぼ同じ問題に直面しています。残念ながら、ほとんどの傾向は反転しておらず、むしろ悪化の一途を辿っています。終わりのない衰退を辿っています。
いったい、この危機の原因はどこにあるのでしょうか?
なぜ、第二バチカン公会議の前と後でこんなにも変わってしまったのでしょうか?
なぜ、第二バチカン公会議後、多くの聖職者や信徒たちの信仰が揺らいでしまったのでしょうか?
この衰退を反転させ、カトリック教会を助けたいならば、その原因を突き止めなければなりません。第二バチカン公会議は、このすべてにおいてどの程度の責任を負っているのでしょう?
【公会議を弁護する】
公会議を弁護しようと、今まで多くの仮説が提唱されてきました。
▲「すべてが失われたわけではなく、アジア、アフリカ、ポーランドといった例外もある(つまり、これらの地域では例外的にカトリック信徒の数が増えている)」と指摘する人もいます。
▲「危機が必ずしも公会議の日程と完全に一致するわけではない」ことも指摘されています。たとえば、フランスにおける司祭職の危機は、1950年代に始まりました。1968年5月の事件(五月危機/五月革命)、世俗化、またパウロ六世の産児制限に関する回勅「フマネ・ヴィテ」、あるいはラテンアメリカにおけるプロテスタントの台頭など、確かに影響を与えた出来事を挙げる人もいます。
▲「現実世界は単一の原因で成り立っているのではない。交差し、対立し、あるいは強め合う様々な要因が絡み合っているのだから、公会議だけが原因ではない」と。たしかにそうです。プロテスタントがラテンアメリカに浸透しやすくなったのは、第二バチカン公会議が門戸を大きく開いたからです。アフリカとポーランドは、少なくとも一時的には有利に働いたかもしれない特定の状況から恩恵を受けたのでしょう。教会はその歴史を通じて、多くの好ましい流れを経験してきただけでなく、多くの嵐も乗り越えてきました。
しかしながら、これらすべての過程において、いくつかの原因は大きな影響を与え、他の原因は取るに足らないものです。すべての原因が危機を説明する上で等しく信頼できるわけではありません。
▲レジェール枢機卿は「宗教活動が衰退しているからといって、信仰を失っている兆候ではない。なぜなら、私の意見では、私たちはそもそも信仰、つまり個人的な信仰を持っていなかったからだ」と驚くべき回答をしていますが、これは到底信憑性のある議論とは言えないでしょう。
▲また「第二バチカン公会議がなければこの危機はもっと深刻だっただろう」あるいは「もっと大胆に進歩主義を展開していれば事態は緩和できたはずだ」という進歩主義者たちの主張は、大変多く耳にしてきました。
▲オランダの司教たちは既に自分たちが作った異端の「オランダ・カテキズム」が問題視されれば多くの人が教会を去るだろうという懸念を表明していました。これは根拠のない主張であり、定義上起こらなかった仮定上の出来事に基づいているため、容易に主張できます。この主張は、人々の注意を逸らそうとする必死の試みのようです。当然のことながら、オランダでは危機がはるかに深刻であったことを指摘すれば、この主張は大きく揺るがされます。オランダのカトリック教会への出席率は、1966年の65%から1970年には46%へと急落しました。4年間で国全体の信者の3分の1が失われたのです。また、プロテスタントの中でも、最も進歩的な宗派が最も急速に崩壊したことはよく知られています。
【専門家の分析】
この問題の真相を究明するためには、偏見なくこの問題を研究してきた専門家の意見に目を向けるべきでしょう。
●最近、フランスでは、ソルボンヌ大学現代史教授のギヨーム・キュシェ氏(Guillaume Cuchet)が、フェルナン・ブラール神父(Chanoine Fernand Boulard)による宗教実践に関する非常に詳細な調査に基づき、この危機に関する非常に綿密な研究を発表しました。彼は正確な時系列を確立し、1960年代半ば、より具体的には1966年、つまり第二バチカン公会議閉会直後、1968年5月の出来事(五月危機/五月革命)と回勅『フマネ・ヴィテ』の発表以前を契機とする断絶を突き止めました。彼はこの研究に加え、第二バチカン公会議が説教と信者の認識に与えた影響に関する調査も行い、こう結論付けています。
「第二バチカン公会議は、18世紀後半のフランスにおける三部会のように、自らが阻止しようとした革命を引き起こした改革であったようだ」と。
●マドリードの宗教科学研究所でスペインの事例を研究しているラファエル・ルイス・アンドレス氏(Rafael Ruiz Andrés)は、この危機が「公会議後の時期に、教会が『より真正な』キリスト教、より世俗社会に適応したキリスト教を求めるという名目で、自らの宗教的構造と枠組みを深く問い直したことにも起因している」と指摘します。この観点から、公会議は従来のカトリックモデルからの脱却を象徴しています。
●世界有数の経済研究機関の一つであり、ハーバード大学傘下の全米経済研究所(National Bureau of Economic Research)の研究者3名が最近、大規模な統計調査を実施しました。同研究所の研究者には、43人のノーベル賞受賞者と14人の大統領経済諮問委員会委員長が含まれています。この研究は、世界で最も影響力のある経済学者の一人に数えられるロバート・バロ氏が主導しました。この研究は、ソ連崩壊や第二バチカン公会議といった特定の要因が、カトリック特有の宗教実践に及ぼした統計的影響を研究することを目的としています。 66カ国20万件の回答から統計が分析されました。これらの国の半数は「サブグローバル」地域に属し、ラテンアメリカ、アフリカ、および一部のアジア諸国です。
この研究によって出された結論は明確です。「第二バチカン公会議は、他の宗派と比較して、カトリックの宗教実践の世界的な衰退を招いた。」
また、注目すべき点がいくつかあります。
— この衰退は顕著であり、第二バチカン公会議直後から始まっている。
— これはプロテスタントには影響せず、カトリックに特有の現象であり、カトリック特有の出来事と関連していることを示唆している。
— この衰退はその後数十年間継続し、反転することはなかった。
つまり「公会議に問題がある」と言うのです。
(11) 【公会議は誤解された】
それでも、公会議支持者たちは依然として、公会議を擁護する最後の議論を持っています。彼らは、それが実際には「真の公会議」ではなく、メディアであまりにも広く認知され、真の公会議に取って代わった「準公会議」であると言うのです。
この考えは、パウロ六世の「サタンの煙」に関する有名な演説で既に概説されています。パウロ六世は危機を認めつつも、それを「公会議の成果を抑圧し、教会が喜びの賛美歌を歌い上げるのを阻止する」勢力のせいだとしています。つまり「公会議は理解もされておらず、真に実施もされていなかった。したがって、その成果はまだこれからである。今は、乗り越えるのは困難な時期だが、心配するな、それは過ぎ去る」と言います。
また、ラッツィンガー枢機卿は1984年にこのように述べました。
「私は、第二バチカン公会議の真の時はまだ来ておらず、私たちはまだそれを真に受け入れ始めていないとさえ信じています。」
そして、公会議から50年以上経ち、フランシスコ教皇は同じレトリックを繰り返しました。
「前回の公会議はまだ十分に理解され、生きられ、適用されていないと言えます。」
レオ十四世教皇も、同じことを言います。
「だから、毎週水曜日、公会議についてお話しをする」と。
公会議当時、教父たちは、公会議が誰にでも理解できる平易な言葉で表現されることを強く求めました。パウロ六世は、公会議は「すべての人々に聞かれ、理解されることを望んだ」と述べ「日常会話のような形式でも表現しようと努めた」と語りました。
そしてその結果、分かりやすい公会議の姿は幻影となり、誰にも分からない言葉、捉えどころのない存在となってしまいました。多くの全く異なる意見を持つ集団が互いに対立し、自分たちこそが公会議の真の解釈を持つと容易に主張することができるようになりました。そうして、信仰の解釈者であるはずの公会議は、単なる解釈の対象に成り下がってしまいました。
(12) 【メディアの公会議】
この準公会議という概念を最も力強く表現したのは、ベネディクト十六世の2013年2月14日の訓話です。当時退位を表明していた教皇は、二重の公会議の姿を描きました。これによれば、一方に「教父たちの公会議 - 本当の公会議」il Concilio dei Padri – il vero Concilio – があり、他方に「メディアの公会議」il Concilio dei media がある。そして、本当の公会議よりも「メディアの公会議」の方が支配的で効果があり、そのために多くの不幸な出来事や多くの問題、多くの苦しみが生み出された。神学校は廃校になり、修道院は廃院となり、陳腐な典礼が生じたと。そして、仮想の公会議の方が現実の公会議よりも強かった、と語られています。
「人々にとって即時に機能する公会議は、教父たちの公会議ではなく、メディアの公会議であった。[…] それは多くの災難、多くの問題、実に多くの悲惨をもたらした。神学校は閉鎖され、修道院は閉鎖され、典礼は軽視された… そして真の公会議は、形を整え、自らを実現するのに苦労した。」
Sappiamo come questo Concilio dei media fosse accessibile a tutti. Quindi, questo era quello dominante, più efficiente, ed ha creato tante calamità, tanti problemi, realmente tante miserie: seminari chiusi, conventi chiusi, liturgia banalizzata … e il vero Concilio ha avuto difficoltà a concretizzarsi, a realizzarsi; il Concilio virtuale era più forte del Concilio reale.
旧約聖書の大祭司が民の罪をすべてスケープゴートに負わせ、自らの罪を清めるため砂漠に追放したように、真の公会議を免れるために、危機の責任をすべてメディア主導の準公会議に負わせているようにも見受けられます。この議論をどう解釈すべきでしょうか?
私たちたちは、心に留めておくべきでしょう。
第二バチカン公会議を教区で実行したのは、メディアではなく司教たちでした。公会議に参加し、この革命の道へと導いた司教たちが実現させました。
小教区の至る所で革命を説いたのはメディアではなく「オランダのカテキズム」や「生ける岩」のカテキズムを書いたのもメディアではありませんでした。
カトリックの教義に反論したのはメディアだけでなく、神学者や枢機卿たち自身でした。
「今日の成熟した信仰は教義なしでやっていける」と書いたのはメディアではなく、フランスのイエズス会の学術雑誌でした。
偽りの宗教も含め、あらゆる宗教の創始者は皆「天主の使者」だと書いたのは、ただのメディアではなく、バチカンの公式新聞「ロッセルバトーレ・ロマーノ」でした。これは単なる誤用だと反論する人がいるかもしれません。公会議の文書にはそのような記述がないからです。もちろん、公会議がこれらすべてを逐語的に述べているわけではありませんが、この結論に至る原則の確立に無関係であるとは言い切れないでしょう。
そして、立ったままの聖体拝領や新しいミサを作り出したのは、マスメディアではなく司教と司祭であり、アシジの集会を開いたのもメディアではありませんでした。
ラッツィンガー枢機卿の言葉を借りれば、公会議は「何世紀にもわたって根付いた概念を覆す力を持っていました」。公会議が文書の中で過去の教えと矛盾する記述をしたとき、それは信仰の安定性の原則に触れてしまいました。つまり、信じられ、力強く肯定されてきた過去の真理が、突如覆される可能性があることを示唆したのです。扉を開けば、何が出てくるかに驚いてはなりません。したがって、カトリック教会がキリスト教会の中に「subsistit in おいて存立する」と書き立て、「カトリック教会こそがキリスト教会である」とこの二つの聖伝的な同一性を破ったのは、メディアではなく、第二バチカン公会議の「教会憲章」でした。
かつて非難された壊滅的な信教の自由やエキュメニズムを宣言したのは、メディアではなく、公会議の文書でした。
(13) 【公会議を告発する】
こうして、これらすべての要素に直面した時、別の立場が浮かび上がります。それは、公会議の革命とそれに続く退廃を目の当たりにし、事実の抽象的で主観主義的な解釈に逃げ込むのではなく、展開する客観的現実をありのままに受け入れることを選んだ高位聖職者の立場です。それは、マルセル・ルフェーブル大司教でした。すでに引用した、公会議後の1966年にオッタヴィアーニ枢機卿が送った手紙に対し、ルフェーブル大司教は次のように返答しています。
「公会議が革新を起こした時、教会の真正な教導権によって教えられ、聖伝の遺産に決定的に属するとされた真理の確実性が揺るがされた。[…] 私たちは、教会と自由主義的な思想の結婚を目撃した。公会議が、教皇によって非難された誤りや傾向を公言する者たちに、自分たちの教義が今や承認されたと正当に信じることを許したという事実を、勇気を持って肯定しないのは、明白な事実を否定し、目を閉じることである。[…]したがって、事実に追い詰められた私たちは、公会議が考えられないほどの方法で自由主義的な誤りの蔓延を助長したと結論せざるを得ない。」
« lorsque le Concile a innové, il a ébranlé la certitude de vérités enseignées par le Magistère authentique de l’Eglise comme appartenant définitivement au trésor de la Tradition. [...] Nous avons assisté au mariage de l’Église avec les idées libérales. Ce serait nier l’évidence, se fermer les yeux que de ne pas affirmer courageusement que le Concile a permis à ceux qui professent les erreurs et les tendances condamnées par les Papes, [...] de croire légitimement que leurs doctrines étaient désormais approuvées. [...] Il faut donc, acculé par les faits, conclure que le Concile a favorisé d’une manière inconcevable la diffusion des erreurs libérales. »
ルフェーブル大司教は「全ての責任は第二バチカン公会議にある」と、明白に、賢明に見通していました。
「公会議を弁護する」と言うべきか「公会議を非難する」と言うべきか――。
私たちの主イエズス・キリストは、私たちに判断基準を与えてくださっています。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」
つまり、木は実によって知られるということです。
私たちは、目を開いてしっかりと現実を直視し、真の現実に即した立場を取らなければなりません。現在のカトリック教会の危機を何とかするために「第二バチカン公会議に、そのすべての根がある」と言い続けなければなりません。
そして、第二バチカン公会議の自由主義に汚染されない、カトリック教会の聖伝の信仰を守る司教が7月1日に生まれることは、私たちにとってどれほど大きな喜びであり、慰めでしょうか!
このお恵みの素晴らしさを、私たちが心から理解し、ふさわしく準備することができますようにとお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。