主の御降誕の八日目の説教(2025年、大宮)

羊飼いたちの礼拝
主の御降誕の八日目の説教(2025年、大宮)
2025年1月1日 ブノワ・ワリエ神父
主の御降誕の八日目「御子という賜物」
「私たちに対する天主の愛は、ここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは、私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一書4章9節)
親愛なる兄弟の皆さま、
今日の祝日は、ご降誕の祝日の繰り返しです。聖トマス・アクィナスとともに、ご托身になった天主の御子という賜物について、少し述べましょう。
天主の愛が私たちに示されました。なぜなら、天主が私たちに、しもべではなく、御子を遣わされたからです。
聖グレゴリオは、こう言っています。「この慈しみの愛を言い表せようか。奴隷を贖うために、天主は、養子ではなく、本性によるご自分の御子を、ご自分と等しい御者である御子を犠牲にされたのである。天主は世を救うために、多くの子のうちの一人を遣わされたのではなく、御独り子を遣わされたのである」。
聖パウロは、こう要約しています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かし…てくださった。それは…未来の世々に、…その恩寵の絶大な富を現すためであった。あなたたちは、その恩寵により、信仰によって救われた。それは…天主の賜物である」(エフェゾ2章)。
(ご托身という)賜物を、私たちが喜んで受け入れることのできる理由は、四つあります。
与えるお方
第一に、賜物を与えるお方のゆえです。なぜなら、与えるお方は、最大の愛と愛情からお与えになるからです。ですから、時には、与えられる物が、賜物を与える人の愛に比べれば、それほど重要ではないこともあります。しかし、私たちに対する天主のこの賜物は、御父の最大の愛あるいは慈愛から与えられたことは確かです。「私たちに対する(父なる)天主の愛は、ここに現れた」。
賜物
第二の理由(ご托身という賜物を私たちが喜んで受け入れることができる理由)は、賜物そのものにあります。賜物が偉大で尊いものであればあるほど、その賜物はさらに歓迎され、受け入れられ、好ましいものであるはずです。そして確かに、ご托身になった子なる天主という私たちへのこの賜物は、最も偉大なものでした。ですから、こう記されています。「天主はその御独り子を遣わされた」。
受ける者
ご托身という賜物を喜んで受け入れることができる第三の理由は、賜物を受ける側にあります。特に、その賜物を与えられる者が、最悪の形でそれを必要としているときにはです。確かに、私たちに力を与える天主からの賜物を、私たちは最悪の形で必要としていました。なぜなら、私たちは罪のために死んでいたからです。そして、この事実は、次の言葉に記されています。「私たちを御子によって生かすためである」。
賜物をもたらすお方
第四の理由(私たちが、ご托身という天主から与えられた賜物に感謝すべき理由)は、その賜物をもたらすお方の側にあります。美しい婦人の場合のように、時には、賜物をもたらす人の美しさ、優しさ、好ましさによって、贈られた賜物が一層好まれるものであるからです。そして、その天主の賜物を生んでおられる童貞マリアの美しさと恩寵のゆえに、その賜物は、私たちが最も受け入れることのできるものなのです。このことは、次の聖パウロの言葉に暗示されています。「女から生まれさせた御子を、天主は遣わされた」(ガラツィア4章)。
親愛なる兄弟の皆さま、
ご降誕の神秘において、私たちはご托身になった天主の御子という賜物を受けました。この驚くべき賜物を尊重し、大切にしましょう。聖パウロがこう述べているように、これは、天国の前触れなのです。
「だから、あなたたちは、他国人でも客人でもなく、聖徒たちと同じ市民、天主の家族である」(エフェゾ2章19節)。
「したがって、愛する者よ、私たちは、父なる天主に対して、御子によって、聖霊において感謝を捧げよう。『天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって』、私たちをあわれんでくださった。また、私たちが、キリストにおいて新たな被造物、新たな細工品となるように、『罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった』。だから私たちは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てよう。そして、キリストの御子としての地位にあずかったのだから、肉の行いを捨てよう。キリスト信者よ、あなたの身分をわきまえよ。あなたは天主の本性にあずかる者となったからである。悪しき行いにより、昔の卑しい姿に戻ってはならない」(大聖レオ)。