主の御降誕の八日間内の主日の説教―聖伝とは忠実に受け継ぐこと(大宮)
モーゼの誕生
主の御降誕の八日間内の主日の説教―聖伝とは忠実に受け継ぐこと(大宮)
2025年12月28日 イヴォン・フィルベン神父
主の御降誕の八日間内の主日の説教―聖伝とは忠実に受け継ぐこと(大宮)
親愛なる信者の皆さま、
主の御降誕の八日間内の主日のミサの福音は、聖伝とは何かを深く思い巡らすよう私たちを招いています。私たちは、本当にしっかりと聖伝を守っています。しかし、聖伝とは何でしょうか。聖伝主義者とは、わずかな変化も拒み、些細なことにこだわる人々だと、私たちを批判する人々がいます。しかし、この批判は誤りです。なぜなら、聖伝とは、決して変わらないものではなく、忠実に受け継がれているものだからです。
今日の主日の福音に登場する人物は、聖伝の本当の意味をさらに深く理解するのに役立ちます。その人物とは、女預言者聖アンナです。この説教では、この人物について私たちが知っていることを説明し、聖伝の本質についていくつか結論を引き出したいと思います。
一)女預言者アンナ
アンナは、聖ルカ福音書に一度しか登場しませんが、この福音はアンナについて詳しいことを、たくさん教えてくれます。アンナが女預言者であること、ファヌエルの娘であること、アシェル族に属していることを、私たちは知っています。さらに、アンナの年齢についても、非常に正確な情報があります。アンナは七年間夫と暮らし、その後、やもめとなって、八十四歳を迎えていることが分かります。
このアンナの描写を読むと、驚くべき点が数多くあります。
1)アンナの年齢
聖書で述べられている事実には、いくつか象徴的な意味を持たせることもできます。ですから、八十四がアンナの年齢なのは確かですが、それ以外の意味もあるのです。八十四は七の十二倍です。十二は旧約のイスラエルであるヤコブの十二部族を表し、七は成就の数字です。したがって、八十四はイスラエルの時代が成就したことを意味します。イスラエルが待つのは、終わろうとしているのです。
さらに、アンナは、人生の大半をやもめとして過ごしました。旧約においてやもめであるということは、イスラエルと天主の間が分離することを意味しています。実際、イスラエルが本当に天主に近づいた時代は、ごくわずかでした。ダヴィドやソロモンの治世のような輝かしい時代もありましたが、それはごくまれなものでした。聖書には、民を偶像崇拝へと導いたイスラエルの王たちの罪が、数多く記されています。その罪の犠牲となったイスラエルは、ほとんど夫を失ったやもめのようなものでした。
この分析が明確に示しているのは、女預言者アンナは、良き時代だけでなく、イスラエルが不忠実で、やもめのようになっていたことにより、イスラエルの歴史を要約するような人物だということです。
2)アンナの部族
アンナに関連する、さらに謎めいた事実は、アンナが属する部族です。アンナはアシェル族の出身ですが、これは非常に珍しいことです。なぜなら、アシェル族のいた地域は北王国の中にあって、当時、北王国の他の部族はすべてアッシリアの侵略者によって散らされていたため、アシェル族も事実上存在しなくなっていたからです。
アシェルは、ヤコブの十二人の息子の一人でした。アシェルにはセラという娘がいました。非常に古い伝承によると、セラには非常に重要な使命が与えられていました。それは、エジプトで奴隷状態になったとき、天主から遣わされた救い主を識別することでした。実際、太祖ヨゼフは、セラに救い主を見分けるためのしるしを与えていました。モーゼを認定して、イスラエルの長老たちに、エジプトから自分たちを導くために遣わされた天主の使者として受け入れるようにさせたのはセラでした。セラはイスラエルの記憶であり、世代間のつながり、エジプトに入った世代とエジプトから去る世代をつなぐ人物でした。セラは、受けたしるしのおかげで、天主の約束を成就させる人を見分けることができたのです。
アンナも、幼子イエズスに対して全く同じことを行いました。「彼女もその時に来て、天主を賛美し、エルザレムの救いを待ち望んでいるすべての人々に、その幼子のことを話した」。アンナは救い主を見分けて、周りの人々に救い主について伝えました。アンナは、天主が約束されたことと、天主が成就させようとしておられることに密接なつながりがあることを証言したのです。
二)聖伝、そして、なぜ聖伝を守るべきか
このことは、聖伝の意味を明らかにします。
1)私たちの主は期待を成就される
アンナという人物は、主の来臨が、旧約におけるイスラエルの歴史全体を成就させることを示しています。その歴史は、アンナの結婚生活、そしてやもめとしての生活に要約されています。実際、イエズスは異邦人ではなく、どこから来たのか分からなかったり、全く矛盾した教理を説いたりされているのではありません。その反対に、約束の成就なのです。もちろん、イエズスは多くの点で伝統を正されますが、伝統を全く否定されるわけではありません。「私が律法や預言者を廃するために来たと思ってはならぬ」(マテオ5章17節)。主が告知された新しさは現実のものですが、それは期待され、望まれていた新しさでした。ですから、約束されたことと成就したことの間には、断絶があってはなりません。天主は忠実なお方だからです。
2)断絶はない
教会の生活にも、同様のことが当てはまります。教会の歴史において、過去と現在の間に断絶はあり得ません。カトリックの教理は不変であり、教会は過去に言われていたことと矛盾することを説くことはできません。伝統的であるということは、変化を拒否するという意味ではなく、断絶を拒否するという意味です。しかしながら、教会の指導者たちの現在の言説は、多くの点で教会の伝統的な教えとは完全に断絶していることを、私たちは認識せざるを得ません。このため、私たちは聖伝を守っているのです。教会人の権威を拒否するという問題ではなく、教会人がカトリックの聖伝と完全に断絶する教理や典礼を私たちに強制的に受け入れさせようとする場合には、その権威の濫用を拒否するという問題なのです。
3)アンナと聖ピオ十世会
教会の聖伝に忠実であり続けるためのこの闘いにおいて、私たちは女預言者アンナのような人物、すなわち、聖伝が忘れ去られないよう、過去と現在の間の隔たりを橋渡ししてくれる人物を必要としています。
ルフェーブル大司教が行ったことは、まさにそのようなことでした。大司教は、女預言者アンナの役割を果たしました。聖伝を伝え、それ以降、私たちが聖伝に従って生きることができるようにしてくれたのです。ルフェーブル大司教がいなければ、聖伝のミサはおそらく完全に忘れ去られ、今日の教会にはもはや存在しなかったことでしょう。私は聖ピオ十世会に入会したばかりですが、このことを個人として証言できます。聖ピオ十世会のおかげで、私は聖伝のカトリックの教えと典礼を受けることができました。私たち一人一人にも同じことが言えますし、アンナのように聖伝の伝達を確かなものにする人々を遣わしてくださった天主に、感謝しなければなりません。
親愛なる信者の皆さま、聖伝を守るという意味は、あらゆる変化を拒否することではなく、新奇なものや教理上の断絶を拒否することです。この戦いに加わることで、私たちは、主の御降誕の時に使命を果たした女預言者アンナの足跡をたどっているのです。女預言者アンナが、私たちが忠実であり続けるよう執り成してくださいますように。