主の割礼の祝日の説教―その意味(2026年、大阪)
主の割礼
主の割礼の祝日の説教―その意味(2026年、大阪)
2026年1月1日 ブノワ・ワリエ神父
主の割礼の祝日の説教―その意味(2026年、大阪)
親愛なる兄弟の皆さま、
この荘厳な主の割礼の祝日に、ユダヤの割礼の儀式の意味について、しばらくの間、考えてみましょう。
ミラノの聖アンブロシウスは、この神秘を美しく解き明かしています。
「こうして、幼子(イエズス)は割礼を受けた。この幼子は、『律法の下に生まれ、律法の下にある者を贖うために』(ガラツィア4章4-5節)、『われらのために一人のみどり子が生まれ、男の子が与えられた』(イザヤ9章6節)と言われているお方である。(…)幼子が割礼を受けたのは、われらに神秘を示すためである。なぜなら、幼子において心の割礼が成就し、悪徳が断ち切られるからである。(…)幼子は罪の汚れから解放されていたにもかかわらず、割礼を受けた。それは、幼子が本当に肉体を与えられたことを示し、またわれらに謙遜と従順を教えて、律法を成就させるためであった」。
聖アンブロシウスは、キリストは罪からの救いを必要としないにもかかわらず、自分の人性が現実のものであること、つまり、苦しみを受け、血を流すことのできる本当の肉体であることを確認するために、この儀式を受け入れた、と教えています。キリストは律法を完全に成就されますが、それはご自分のためではなく、律法に縛られていた私たちを贖うためです。私たちは、この流血に御受難を、この服従に謙遜の教訓を垣間見るのです。また、類型論的に言えば、肉体の割礼は霊的な割礼を指し示しています。つまり、悪徳を心から断ち切るものであり、キリストが私たちを主の霊にあずかる者としてくださる、洗礼の恵みのかたどりなのです。
聖トマス・アクィナスは、「神学大全」(第三部a、第37問題、第1項目)で、キリストが割礼を受けることが適切であった理由を詳しく説明しています。
「第一に、キリストの人性が現実のものであることを証明するため。
第二に、天主が古くから定められた割礼を、キリストが認めていることを示すため。
第三に、キリストが、キリストへの信仰のしるしとして割礼の儀式を受けた、アブラハムの家系に属することを明らかにするため。
第四に、キリストが割礼を受けていなかったならば、それをユダヤ人がキリストを受け入れない口実とするのを取り除くため。
第五に、キリストが、その模範によって、服従の遵守を促すため。
第六に、罪深い肉の姿で来られたキリストが、罪深い肉を癒やすべき救いを拒まないようにするため」。
そして、ある反論に対して、聖トマスは、こう付け加えています。「キリストは罪に服従しなかったにもかかわらず、律法の下にある者(ユダヤ人)を贖おうと、(モーゼの)律法に服従した(ガラツィア4章4-5節参照)。
それゆえ、キリストが割礼を受けるのはふさわしいことであった」。
しかし、聖パウロはガラツィア人へ書き送って、義化のために《肉体的な》割礼に頼ることに対して警告しています。「キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。さらに、こうも述べています。「割礼を受けることも受けないことも、ともにむなしいことである。ただ尊いのは新しい(霊的な)人だけである」(ガラツィア6章15節)。しかし、聖パウロは、その時代における古いしるしの価値を肯定してもいます。アブラハムは、「割礼のしるしを、無割礼のときに持っていた信仰の義の判として受けた」(ローマ4章11節)。肉体的な儀式は信仰の判でしたが、今、キリストにおいて、まことの割礼は「文字ではなく、霊による、心のもの」(ローマ2章29節)なのです。聖パウロはコロサイ人に対して、こう宣言しています。「あなたたちは肉の体を脱ぎ捨てることによって、キリストにおいて、人の手によらぬ割礼を受けた。それはキリストの割礼である」(コロサイ2章11節)。
ですから、キリストの割礼は旧約と新約をつなぐ架け橋です。キリストは影を尊重しながらも、現実のものを開始させます。キリストにおいて律法は成就し、恵みは満ち溢れます。八日目に流された御血は、十字架から流れ出る贖いの流血の始まりなのです。
親愛なる信者の皆さま、
聖ルカは、こう記しています。「そして、(御降誕後)八日目に、(イエズスは)割礼を受けた」(ルカ2章21節)。
これは、今日(こんにち)の私たちにとって、何を意味するのでしょうか。私たちは、もはや古い割礼に縛られていません。なぜなら、私たちは洗礼においてキリストの割礼を受け、古い人は脱ぎ捨てられ、新しい人としてよみがえるからです。
しかし、無垢で罪のない天主なる幼子は、天主がモーゼに与えられた律法に従って、ナイフに身を委ね、最初の御血を流されました。この行為は、キリストが本当に人間であり、アブラハムの子であったことを示しています。それは、カルワリオの丘で完全に御血を流されることの前表であり、私たちに対するキリストの愛の深さを明らかにしています。
聖霊に私たちの心の割礼をしていただき、高慢、官能、そしてあらゆる悪徳を断ち切りましょう。
そして、童貞聖マリアが私たちに与えてくださった、キリストの御体と御血を礼拝しましょう。アーメン。