主の愛について――多くの人があるいはたおれあるいは立ちあがるためのさからいのしるし――
2025年12月28日 御降誕の八日間内の主日
トマス 小野田圭志神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは、クリスマスに、愛である聖霊に倣って主をお慰めすることについて黙想いたしました。そして、主に愛の慰めをお捧げすること・主の愛の御計画に積極的に協力すること・愛による罪の償いをするという決心を立てました。
そこで今日は、私たちがもっと主をお慰めし、お愛しできるよう、主の愛についてさらに黙想を深めていくことを提案します。
何故かというと、この世では「愛」が正しく理解されていないからです。ですから、本当の愛とは何か、そして、私たちは主を愛するために何ができるかということを黙想し、最後に遷善の決心を立てましょう。
【愛はこの世で知られていない】
この世界において、愛とは何かがよく知られていないため、愛が持つ本当の性格や、その目的が誤解されています。そのため、この世では愛の正反対のことが「愛」であると考えられてしまっています。愛の正反対とは、つまり自己中心主義(エゴイズム)です。
この世の考え方によると、愛とは、卑しいエゴイスト的な「自分の利益のために快楽を楽しむ」ことだとされています。ですから、自分のことをすっかり忘れて相手に与えるという、純粋な喜びのことではありません。
この世によると、愛された対象は、自分に快楽を与える道具となりさがり、愛する自分の気まぐれな利益のために、その相手を使うことになります。したがって、愛するとは、愛された対象を喜ばせるというよりは、自分が喜ぶことにあると考えられています。ですから、そのような「愛」は、自分の中に閉じこもっているだけです。自分を忘れ、自分の外に出て相手のことを考えるということはありません。
残念ながら、私たちカトリック信者であっても、たとえ信心深い方々であっても、この世の精神にあまりにも染まってしまっていて、天主を愛するとは言いつつも、自分のことやその利益を中心に考えること、つまり自分を捨てきれずに、往々に自己愛が混ざり合った愛を捧げてしまっています。
ですから、私たちは時として、愛とは受け取ることであり、愛されることだと誤解してしまっているかもしれません。感覚的な甘い慰めを受けることが「愛」だと思ってしまっています。したがって、そのような甘い感情がなくなってしまうと、もう愛はなくなってしまった、全ては失われたと誤解して嘆く人々もいます。
【本当の愛】
では、本当の愛とはどのようなものでしょうか?
天主の愛――聖霊の愛をよく観察してみましょう。天主の愛は、受けるというよりもむしろ与えます。本当の愛とは、相互に与え合うことです。互いに与え合うので、受け取ることにもなります。愛するので与え、愛されるので受け取り、また愛するので与えます。愛する天主からのものであれば、それが何であろうと受け取ります。喜びも悲しみも、微笑みも涙も、命も死も、愛する天主の御手から受け取ります。
愛である天主は、際限なく愛を与えます。限りなく「与え尽くし」ます。しかし、天主は無限の御方ですから、愛が尽きることはありません。与え尽くすこともなく与え尽くします。そうして、全世界を、全宇宙を、見えるものと見えないものとを有らしめ、存在させ、生命を与え、完成を与え、美しさを与え、調和を与え、統一を与えておられます。
天主は、何度も何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に預言の言葉を与え続けてきました。そして、終わりの日々には、愛の極みとして私たちに御子をお与えになり、御子は、御自分の全てを私たちにお与えくださいました。
聖トマス・アクィナスは、イエズス様の御人生とその御生涯を、次のように歌っています。
「お生まれになっては、伴侶として
最後の晩餐では、糧として、
死をもっては、贖いの値として、
天国では、報いとして、ご自分を与え給う。」
Se nascens dedit socium,
Convéscens in edulium,
Se móriens in prétium,
Se regnans dat in præmium.
(Verbum Supernum Prodiens)
愛する者にとっては、自分の都合や利益、楽しみや名誉、将来や命といったものは何でもなくなってしまうでしょう。愛を注ぐ対象のことで頭がいっぱいで、それに夢中になってしまうからです。ですから、たとえ私が苦しんでも相手を喜ばせたい、たとえ私が貧しくなっても相手には豊かになってもらいたい、たとえ私が泣いても相手には微笑んでいてもらいたい、たとえ私の命は尽きても相手には生きてもらいたい、とさえ思うようになるのです。また、真に愛する者にとって、相手の悲しみや不幸が、自分の喜びや幸福になることはあり得ません。相手の喜びが自分の喜びとなり、相手の幸福が自分の幸福となります。つまり、私が真に愛する時、私自身は消えてなくなってしまうということです。そして、私たちはそのような愛を、愛すべき天主に対して向けなければなりません。
聖パウロは、このように言っています。
われにとりて、生くるはキリストなり。
「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。
Vivo autem, jam non ego : vivit vero in me Christus.」
(ガラチア2:20)
つまり「主こそ私の命」であるということです。
「私において主が生き、統治され、(天主への)愛によって自分が死に、相手が生きる(天主に栄光を帰す)」ということです。
また、旧約聖書の雅歌には「愛は死のように強い」(雅歌8:6)とあります。
要するに、天主を愛するとは「死」であり、同時に「至福の命」でもあるということです。
【天主に栄光を帰す】
では、天主を愛するために、私たちは天主にいったい何を差し上げることができるのでしょうか?
そもそも、天主は永遠に富んでおられ、全てをお持ちで、無限に至福の御方であり、尽きせぬ愛の泉です。しかも、私たちは全てを天主から受けたに過ぎないのです。
はい。たとえそうであったとしても、私たちは天主に栄光を帰すことができます。
何故かというと、私たち全被造物は、天主の栄光のために創造されたからです。理性を持たない被造物は、自然の法則と本能に従うことで天主に栄光を帰していますが、だからといって、すべての被造物が天主を愛しているのではありません。
天主が全く自由に、その寛大さから私たちに全てをお与えくださったように、私たちも自発的に、そして自由に、天主に属するものを天主に帰すこと、つまり「愛によって、天主に栄光を帰すこと」は、どれほど天主の御心に適うことでしょうか!
そのためにこそ天主は、天使たちと私たち人間に、自由という能力を与えてくださいました。天主のように自由に愛することができるためです。
これは、どうやって理解したら良いでしょうか?
たとえで言うと、お母さんが、自分の小さな子供から受け取った愛のプレゼントがあったとします。お母さんのために描いた似顔絵や、お母さんのために野原の花を摘んで「ママ」とにっこり笑いながら、その手にプレゼントすることもあるでしょう。それがどれほどちっぽけで、どれほどめちゃくちゃな絵だったとしても、お母さんにとっては、この世のどんな宝よりも貴重なものとなり得ます。何故ならば、それは富で買ったものでもなければ、権力で奪い取ったものでもなく、子供が自由に愛を込めてお母さんに与えたものだからです。お母さんは、自分の子供だけが与えることのできるもの――愛――を受け取ったからです。
それと同じように、私たち人間は、自由に愛をこめて天主に栄光を帰すことができます。私たちが天主に栄光を帰す時、天主の全ての創造の目的に最も適う、天主の御業を行うことになります。私たちの行いの目的が、天主の御業の目的にぴたりと合致するからです。天主に栄光を帰すことは、私たちが天主に差し上げることのできる最高の行いです。もしも、私たちの行いが天主の栄光を目的としていないならば、それは無価値で、失われてしまったものではないでしょうか?
まさに、イエズス・キリストこそがその印です。真の天主をお愛し申し上げ、光栄を帰すかそうでないか、そして、私たちの幸福と不幸の決定的な基準は、イエズス・キリストにあります。
今日の福音の中で、老シメオンはこう預言しています。
「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」
実際、天使たちの一部は、ルチフェルとともに「私は奉仕しない! Non serviam!」と叫び、天主に反乱して、堕天使(悪魔)になってしまったではないでしょうか?
ですから、私たちは愛をこめて天主に栄光を帰すようにいたしましょう。
イエズス様は、祈る時にはまず「天主の聖名が、聖とされ、栄光を受けるように求めよ」と教えてくださいました。「願わくは聖名の尊まれんことを!」と。
このことは、詩篇の中にも示されています。
「私たちにではなく主の聖名に栄光を帰せ! Non nobis, Domine, non nobis, sed Nomini Tuo da gloriam!」(詩篇115:1)
つまり「聖名が尊まれ、御国が来たらんことを!」と私たちは祈っています。これが主の教えです。すなわち、天主の愛である聖霊における喜びと平和の御国のおとずれこそ、私たちの真の幸福であるということです。
そして、最も御謙遜なマリア様はこのように歌いました。
「わが霊魂は主を崇め奉り、わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びに堪えず。 Magnificat anima mea Dominum!」
要するに「私は天主に栄光を帰し、私の拙く卑しい全てで天主をお喜びさせたい。主の喜びこそが、私の喜びです!」という意味です。
また、主がお生まれになったその夜、天使たちの大群は、自由に愛を込めて歌いました。「いと高き所には天主に栄光!地には善意の人々に平和あれ!」と。
天主に栄光を帰すことによって、私たちには喜びと平和が満ちます。ロヨラの聖イグナチオのモットーは正にこれでした。
Ad majorem Dei gloriam!
「天主のいと大いなる栄光のために全てを行う!」
コルベ神父様はもっと言いました。
Ad maximam Dei gloriam!
「天主の最大の栄光のために!」
これをモットーとしておられました。
【この涙の谷で】
もしかしたら、皆さんはこのように質問をなさるかもしれません。
「神父様、主を愛することはとても美しいですし、主に栄光を帰すると私たちが幸せになるとは、とてもきれいなお言葉ですけれども、私たちが生きているこの地上は、苦しみに満ちた涙の谷ではないでしょうか? 幸せや平和というのは可能なのでしょうか?」
天主は、愛によって人間となられました。ですから、私たちも愛によって天主のようになることができるのではないでしょうか?
私たちの主は、私たちにこの地上を天国の永遠の幸せへと変える特別な力をくださいました。それが、天主の愛です。天国とは、天主の愛の御国です。イエズス・キリストと主の愛のあるところ、それが天国です。そのため、この苦しみにあふれた地上を、いわば「天国」に変えることのできる力を、主は私たちにお与えくださいました。
ただし、永遠の天国と、この地上の時における「天国」とは、一つ決定的な違いがあります。それは、永遠の天国では誰も苦しみませんが、時において存在するこの地上の「天国」は苦しみに満ちています。でもここにこそ、時の「天国」の素晴らしさと美しさが隠れています。
もしも、天使たちや栄光を受けた諸聖人が、私たちに「嫉妬する」とか「うらやましい」と思うことがある・できるとしたら、それは「苦しみ」にあります。
天主の御一人子は、隠された価値を持つものとして、この世の苦しみを、まるで貴重な真珠のように愛されたのではなかったでしょうか?
そして、苦しみのうちに御生涯を生き、苦しみのうちに息を引き取られました。
天使たちは愛をこめて「天のいと高きところには天主に栄光!」と賛美し、また天主に栄光を帰すことができますが、こう言うことはできません。
「主よ、私は自分が苦しんでどうなっても、たとえ自分は死んでも、御身を愛します!」と。このような言葉を言い、実際にそうすることができる可能性を秘めているのは、この地上の世を生きる私たちだけなのです。
「主よ、たとえ私は苦しんでも、御身を愛します。私の苦しみを御身のために、御身を愛するためにお捧げいたします!」
苦しみの中の幸せ――これこそが慰めであり、愛の花です。
【遷善の決心】
では、愛する兄弟姉妹の皆さま、最後に遷善の決心を立てましょう。
今年最後の主日のミサの中で、主を、愛を込めてお慰め申し上げる決心を立てることにいたしましょう。
愛とは与えることです。私たちは主に自分自身を全て与え、主と一致して、主に栄光を帰すことができます。私たちの主を、愛をこめてお慰め申し上げる時、主の喜びは私たちの喜びとなります。
「天のいと高き所には天主に栄光!」と。
私たちのお母様であるマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様に合わせて、私たちも主を賛美し、主に栄光を帰すことができますように。
「Te Deum 天主にまします御身(おんみ)をわれらたたえ、主にまします御身を讃美し奉る!…
われら、日々、御身に謝(しゃ)し、
世世(よよ)にいたるまで聖名(みな)をたたえ奉る。
主よ、今日(こんにち)われらを護(まも)りて、罪を犯さざらしめ給え。
われらをあわれみ給え、主よ、われらをあわれみ給え。
主よ、御身に依(よ)り頼みしわれらに、御あわれみをたれ給え。
主よ、われ御身に依り頼みたり、わが望みはとこしえに空(むな)しからまじ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。