主イエズス・キリストは自然界を支配している全能の主である

ソース: FSSPX Japan

2024年11月3日  聖霊降臨後第二十四主日(御公現後第四主日)

トマス小野田圭志神父  説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音では、わたしたちの主イエズス・キリストは、ご自分が自然界を支配している全能の主であるということをわたしたちに教えて、そしてわたしたちが主の御摂理に絶対的に信頼するようにと、諭されようとされています。一緒に黙想いたしましょう。

【歴史的な出来事の霊的な意味】
一見すると、単に普通のことが起こったかのように思われます。しかし、福音の歴史的な出来事には、霊的な深い意味があります。

いったい福音ではどんな歴史的な事実が語られたかというと…主が宣教の旅に出て、そしてお疲れになったのでしょう。まず小さな小舟に乗って、それに弟子たちもついて来ます。すると主は疲れて眠られます。弟子たちは、「主は、イエズス様は、お疲れになったのだろう」とそのままにしていると…見てください。風が吹きはじめ、そして波が高くなって、嵐に舟は揉まれて、波が舟の中に入り、もうこのまま沈没しそうだ!絶体絶命だ!というところまできます。すると弟子たちは、まだ寝ておられる主を起して「主よ、助けてください」というと、主が起き上がって、風に海に命じて「黙れ!静まれ!」というと、あっという間に凪になった…いう話です。

【舟】
では、この深い意味は何なのでしょうか。「舟」は何なのでしょうか。主は「舟」に乗られます。
教父たちによると、これは将来、主が船つまり教会におられるということの象徴であると言います。あるいは十字架につけられるということの象徴であると言います。船も十字架も、イエズス様がいらっしゃるからこそ価値があります。わたしたちも小さな木に身を託して海を渡るように船に乗るように、わたしたちも教会に入って、新約の新しいノアの箱舟のなかに入って、永遠の港までたどり着こうとします。主はこの船に一緒に乗られて、わたしたちを連れてこの世の荒波を乗り切って、安全な港である天国にまでわたしたちを連れていかれようとします。
あるいは、この主の乗られた舟は、十字架の木も意味していると言います。イエズス様が寝ているのは死の眠りを意味すると言います。旧約聖書の中には、アダムの眠り、あるいはヨナの眠り、あるいはノエの眠りなど、イエズス様が十字架の上で死去されることを暗示する眠りについて語られますが、イエズス様がこの舟で眠られていたのもまさにこのことだと言います。
わたしたちも、主に従って、十字架の木に自分を託そうとします。聖パウロはこうも言っています。ガラチア人への手紙です。「キリストは、私にとって、世を十字架につけたものとし、そして世にとって、私を十字架につけたものとされた。」(ガラチア6:14)と。

【海と嵐】
では、海と嵐とはいったいどんな深い意味があるのでしょうか。「海」というのは移り変わるこの世の象徴です。黙示録には海から出る怪物と陸から出る怪物がありますが、海はこの世の象徴です。この世に生きている間は、いろんな出来事があり、肉の誘惑、悪魔からの攻撃、この世の迫害、など避けることができないものたちがあるからです。
この舟は波に呑まれそうとさえします。しかし、聖トマス・アクィナスは、御摂理によってこのことが起こっていると言います。なぜ、御摂理によってこのような嵐が起こることを許されたのかというと、トマス・アクィナスは二つの理由を指摘しています。
(1)その一つは、愛されて聖徳に招かれているわたしたち弟子たちが、すべてがうまくいっていると傲慢になってしまうから、それはわたしたちが謙遜に留まるためです。なぜかというと 良いものと賜物すべては、実は主が与えてくださったものだということを、わたしたちがいつも認識していなければならないからです。
聖パウロはこうも言っています。コリント人への手紙のなかです。
「私たちは、耐えがたいほどはなはだしく圧迫されて、生きる望みさえもなくなるほどで、自分の中で死の判決を受けていたのだったが、それは、自分を頼まず、死者をよみがえらせる天主に依り頼むためであった。」(コリント後1:8)と。
ですから第一の理由は、わたしたちが傲慢にならないため、主に依り頼むためだといいます。

(2)第二の理由は、危険の中をどうやって生活すればよいかをわたしたちが学んで、それを克服することができるようにするためだと言います。
聖パウロは、ローマ人の手紙の中でこうも言っています。
「全てこれらのことに遭っても、私たちを愛してくださっているお方によって、私たちは勝ってなお余りがある。」(ローマ8:37)
集祷文のなかでは、やはり同じようなことを言っています。【天主よ、御身はかくも多くの危険において成り立つ我らが人間的な脆さゆえに自存しえぬことを知り給う。我らに心と肉体の健康を与え給え。そは、我らの罪ゆえに我らが苦しむことを、御身が助け給うことによりて我らが打ち勝たんが為なり。】

主はわたしたちがこのような危険の中にあっても、人間の弱さによって、わたしたちがあることができないということをよく知っている、それなので主はわたしたちを助けてくださる、と。

また、危険な中をどのように生活すればよいかということを教えようとして、「キリストに倣いて」ではトマス・ア・ケンピスはこう言っています。彼の教えを要約するとこうです。
「あらゆる苦しみと不幸がわたしたちに起こることを、主がたとえ許したとしても、そのために憤ったり落胆したりする必要はない。主はすぐ私たちを助けて、すべての重荷を喜びに変えることができるからだ。わたしたちに対して主がそういうことをなさったのも、いつも主は正しいことをされている。どのような場合でも、わたしたちは、主に感謝しなければならない。そればかりか、わたしたちは、それを喜びとしなければならない。なぜかというと、「父が私を愛したように、私はあなたたちを愛する」(ヨハネ15:9)と、主は愛する弟子たちにおっしゃったけれども、それなのに主は弟子たちにこの世の楽しみを与えなかった。むしろ弟子たちを戦いの中に送った。なぜかというと、名誉ではなく侮辱を、安楽ではなく苦労を、休息ではなく忍耐を与えることによって、偉大な実を結ばせようとしたからだ。」と。

すべてわたしたちにある荒波は勝利のためだ、ということを教えるためです。

【主の眠り】
では、なぜ主は眠られたのでしょうか。なぜかというと、主は、人間であるということを見せると同時に、まことの天主であるということを見せようとされたからです。

【弟子たちの祈り】
最後に、なぜイエズス様は、弟子たちがこう祈ったことについてお叱りになったのでしょうか。「主よ、助けてください!」Domine, salva nos. (マテオ8:25) 。弟子たちは、主の力を信頼しているから、イエズスが救い主であると知っているので、助けを求めたのではないでしょうか。
今日の入祭唱にもあるじゃないでしょうか。「主は言い給う。私は、平和の考えを考えている、苦しみの[考え]ではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたち[の祈り]を聞き入れよう。」と。

では、なぜだったのでしょうか。「なぜ、恐れているのか。信仰の薄い者よ」Quid timidi estis, modicæ fidei ?(マテオ8:26)といわれたのでしょうか。

聖トマス・アクィナスによれば、イエズス様にとってはこれでは足りない、とおっしゃりたかったとのことです。何故かというと、イエズス様はさらにもっと深い信仰と信頼を求めていて、たとえイエズス様が起き上がって、目を覚まして立ち上がって奇跡的に嵐たちに命じなかったとしても、たとえ眠っていたとしても、信仰が篤ければ「すべては上手くいく」と心の中で祈っていれば、起さなくても主は奇跡を起こすことができたからです。

また聖トマス・アクィナスはこうも言います。もしも本当に信仰が篤かったならば、弟子たち自身が、イエズス・キリストの名前によって海に命じたかもしれない、と。

【遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。わたしたちは周りのニュースを聞くと、教会の危機、シノドスあるいはこの世のニュースあるいはあそこでの戦争、あそこでの戦争、あるいはわたしたちの日常生活で、おそらく荒波の中に揉まれているということを感じているのではないでしょうか。

教会は二千年間、木造の舟ではない本当の歴史上の船、教会という船で荒波の中を渡ってきました。しかし、イエズス様は、その中にいつもおられて、そして教会を守ってこられました。今でも同じです。私たちを愛する主は、全知と全能と憐みで、そしてまったくの愛をもって、わたしたちを終わりまで導いてくださっています。
わたしたちに、たとえ誘惑があっても苦しみの中にあったとしても、一瞬のうちに平和を、解決を与えてくださることができます。この世に対しても、この世界でも、この教会にも、たった一言で、大勝利を与えることができます。

ですから、わたしたちは、この主の全能の愛に信頼致しましょう。何も怖れることなく、主のこの教会の船に留まることにいたしましょう。十字架の上に留まることにいたしましょう。言いかえると、愛と信頼をもってわたしたちが聖伝の信仰を守り通すこと、主の十字架、十字架の生贄(いけにえ)である聖伝のミサを守り通すお恵みを請い求めましょう。

最後に、マリアさまに、わたしたちがこのお恵みを受けることができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。