主はまことに復活されました!イエズス・キリストと共にこの世の苦しみを捧げるなら、キリストと共に復活するという確実な希望を与えてくださったのです。

御復活の主日の説教 2021年4月4日
トマス小野田圭志神父
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年4月4日、私たちの主イエズス・キリストの御復活の主日です。主の御復活した新しい墓のある庭に、私たちも朝まだきに急いで行きましょう。主の復活の聖寵で私たちを満たしてくださるように願いましょう。主とともに私たちも復活する恵みをこい求めましょう。
1:歴史的できごと
聖金曜日に、主の傷だらけのお体は命無く、聖骸布にくるまって、いままで誰も使われたことのない新しい墓に葬られました。巨大な岩で入口がふさがれ、すべては終わってしまったかのようでした。
ところが今日、復活の主日の朝まだきに、突然、主の体は光に満ちて輝き、驚く変化が起こりました。あれほど痛々しかった深い傷跡は、一瞬のうちに勲章のように燦然と輝きました。茨の冠のあった傷跡も永遠の栄冠の輝きに変わったのです。私たちの主は命に満ちて、墓は栄光に満たされました。イエズス・キリストは、まことに復活しました。主は、復活し死と地獄とに打ち勝ちました。
古聖所の聖なる霊魂たちはそれを見て喜び、天使たちは凱旋の歌を歌いだします。
「死よ、おまえの勝利は何所にある。死よ、おまえの刺は何所にある?」(コリント前書15:55)
黙示録は復活したイエズス・キリストの栄光についてのこんな描写もあります。「泣くな、ユダ族の獅子、ダヴィドのひこばえは勝った」(黙示録5:5)。「あなたこそ光栄とほまれと力とを受けられるにふさわしい方です」(黙示録4:11)。「あなたは屠られて、その血によってすべての民族とことばと民と国とから、天主のために人々をあがなわれた」(黙示録5:9)。「屠られた小羊は、力と、富と、知恵と、勢力と、ほまれと、光栄と、賞賛とを受けるのにふさわしいお方である」(黙示録5章)。
イエズス・キリストはまことに復活し、御自分がまことの天主であることを証明しました。私たちはミサでこう歌います。
Tu solus sanctus, Tu solus Dominus, Tu solus altissimus, Jesu Christe!
「イエズス・キリストよ、御身のみが聖であり、御身のみが主であり、御身のみがいと高き天主なり」と。
聖パウロは言います。「キリストは、死者の中から復活して、死者の初穂となられた。一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生きかえる」(コリント前書15章)。
つまり主が復活したのは、私たちにも復活を与えるためでした。私たち全ては、キリストによってのみ復活することできます。言い換えれば、キリストによらなければ私たちには永遠の命を得ることができないということです。
初代教皇聖ペトロはこう教えました。「救いは、主以外の者によっては与えられません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
天主は永遠に変わることがありません。この世は過ぎ去りますが、主の御言葉は過ぎ去りません。イエズス・キリストは昨日も、今日も、代々とこしえに同じです。
2:イエズス・キリストの復活は、私たちの復活の保証
主が墓の中から栄光に満ちて復活されたように、私たちも将来、墓から復活します。もしも私たちが生きている間に、主の聖徳を真似て生活するなら、最後の日に私たちも主の栄光を分かち合います。主は、約束をかならず守ります。
今のこの世の生活はたしかに試練と苦しみに満ちています。しかし「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならない」(ローマ8:18)のです。私たちの主も栄光の冠を受ける前に、茨の冠をかぶせられました。この世での苦しみには終わりがありますが、栄光ある主の凱旋には終わりがありません。教会はこの世の生活を「逐謫(ちくたく)の身」だと形容しています。つまり追放の身、天国から追い出された生活ということです。しかし、主は、私たちが栄光の主のもとに戻ることができるようにしてくださり、その道を示してくださいました。それが十字架の道です。
イエズス・キリストと共にこの世の苦しみを捧げるなら、キリストと共に復活するという確実な希望を与えてくださいました。
3:イエズス・キリストの復活は、主に対する愛を強める
聖なる婦人たちは、イエズス・キリストへの愛に満ちて、まだ朝はやく墓のもとに行きました。彼女たちは主を求めて、急いで行きました。「墓の入口から、だれがあの石をころばしてくれるでしょうか?」と話し合っていたが、見ると、たいへん大きな石はかたわらにころばされていた。主の天使が墓の入口にあった巨大な岩を転ばしたのでした。墓を番していた兵士たちは恐れて逃げ、墓にはいませんでした。墓は空でした。墓にはいると、右の方に、光り輝く白い服を着た天使がすわっているのを見て、かの女たちはおどろきます。
主を求める愛は、巨大な岩という妨げがあっても、止めることを知りませんでした。イエズスは、そのような愛に報いてくださいます。天使さえも送って岩をころがし、兵士たちを恐れさせ、奇跡さえ起こさせることができます。
弟子たちに天使の出現を告げに行く婦人たちにイエズスは現れてこう言われます。「あなたたちに挨拶する!」「おそれることはない。私の兄弟たちに、ガリラヤに行けと知らせに行け。あそこで私にあえるだろう」と。主は「おそれることはない」という慰めの言葉を私たちにも言われます。
もしも真摯に天主を探し求めるのなら、イエズス・キリストを求めているのなら、光と助けと保護が与えられるからです。イエズスの至聖なる聖心を愛し求めるのを止めてはなりません。主は憐れみに満ちておられます。私たちに力と光と真理を与えて、罪の生活から引き上げて、聖徳の生活へと復活させてくださいます。
聖ペトロと聖ヨハネは、マグダラのマリアからの「主が墓からとりさられました。どこにおいたのか、私たちにはわかりません!」という報告を聞いて、すぐに墓に走り出しました。二人いっしょに走ったのです。二人の心の中は何を考えていたのでしょうか?「主よ、御身を探しにまいります!どこにおられるのですか?かならず御身を見つけ出します。何があっても、必ず御身のもとに参ります!心から御身を愛しております!」
聖女マリア・マグダレナの愛の言葉を聞いてください。彼女は墓の外で泣きながらこう言います。「私の主を、だれかが取り去りました。どこにもっていったのか、わからないのです」。「あなたがあの方を移したのなら、どこに置いたのかいってください。私が引き取りますから」。彼女は、イエズスの事でいっぱいで、自分の弱さを忘れているかのようです。「私が引き取ります!」
その言葉を聞くと、復活した主イエズスは「マリアム」とおおせられます。マリア・マグダレナはイエズスを認めて、振り返って「ラッブニ(ヘブライ語で先生の意味である)」と答えます。
そのときイエズスは、「私をそんなにとめてはいけない。私はまだ父のもとにのぼっていないからだ。私の兄弟たちのところに行って、『私の父、またあなたたちの父、私の天主、またあなたたちの天主のもとに私はのぼる』といいなさい」とおおせられます。
「私の兄弟たちのところに行きなさい」という言葉の「私の兄弟たち」とは、弟子たちのこと、私たちのことです。主の御父は、私たちの御父でもある、ということです。主の御受難と御復活の神秘によって、私たちは、主の兄弟になったからです。つまり、御父の永遠の遺産(天国)の共同相続人になったということです。
最後の晩餐の時、主は「私は、あなたたちをしもべとはいわない。しもべは、主人のしていることを知らないものである。私は…、あなたたちを友人と呼ぶ」といわれました。いまやさらに「兄弟」とお呼びになります。しかも、主を裏切って逃げた弟子たちを、御自分から「私の兄弟」と呼ばれます。何という優しさでしょうか。臆病な彼らに直接御出現する前に、まず使いを送って弟子たちの心を準備させます。主の優しさ、主の憐み、母のような親切な心、主の知恵と愛を礼拝いたしましょう。
最後に聖母に祈りましょう。主の御復活の神秘によって、私たちの信仰を強め、希望を固くし、愛をいや増してくださいますように。