「主は近い。喜べ。」:なぜ喜ぶのか?2020年前の馬小屋に生まれたイエズス・キリストとは誰なのか?

ソース: FSSPX Japan

「主は近い。喜べ。」:なぜ喜ぶのか?2020年前の馬小屋に生まれたイエズス・キリストとは誰なのか?

 2020年12月13日 小野田神父、説教、待降節第3主日、ガウデーテの主日

喜べ、真の主は近い、この最高の唯一の主がそばにおられるなら、私たちには何も心配することがありません。イエズス・キリストとは誰なのかを黙想して、クリスマスの準備をしましょう。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年12月13日、待降節第3主日、ガウデーテの主日です。

今週の水曜日、金曜日、土曜日は、四季の斎日で、聖伝によれば大小斎を守る日です。義務では無くなってしまいましたが、できる方は一緒に大小斎を守りましょう。

1:喜べ、真の主は近い

待降節第3主日は、ガウデーテの主日と言われています。ガウデーテとは「喜べ」という意味です。

聖パウロはこう言っています。

Gaudéte in Dómino semper : íterum dico, gaudéte. Modéstia vestra nota sit ómnibus homínibus : Dóminus prope est. Nihil sollíciti sitis.

「主において常によろこべ。くりかえし言う、よろこべ。すべての人にあなたたちの慎みが知られるように。主は近い。何事にも心配するな」。

何故喜ぶのでしょうか? 何故なら主は近いからです。主が近くにおられるからです。

イエズス・キリストとは、誰か

何故かというと、近くにおられる主は、まことの天主、愛の天主だからです。約束された救い主だからです。

今日の福音は、使徒聖ヨハネから取られていますから、同じ福音書が私たちの主を何であるかと教えているかをいくつか見てみます。使徒聖ヨハネはその最初に、イエズス・キリストは人間となった「天主の御言葉」である、生命であり、人の光であると言います。

「はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった」(ヨハネ1章)。

イエズスも御自分を「世の光」だと言います。「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう」(ヨハネ8章)。「私を信じる人が闇にとどまらないように、私はこの世に光として来た」(ヨハネ12章)。

2020年前のクリスマスの真夜中に、馬小屋で幼子としてお生まれになる方イエズス・キリストは「天主の御一人子、よろず世の先に御父から生まれた方、天主よりの天主、光よりの光、まことの天主よりのまことの天主、造られることなく生まれ、御父と同じ本性であり、すべては主によって創られたその方です。

(Filium Dei unigenitum, et ex Patre natum, ante omnia secula, Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero, Genitum, non factum, consubstantialem Patri: per quem omnia facta sunt)

この最高の唯一の主がそばにおられるなら、私たちには何も心配することがありません。

私たちの主は、私たちに命を与えるために来られました。主が生まれた場所ベトレヘムは、ヘブライ語で「パンの家」という意味です。キリストは御自分のことをこうも言います。「命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることがなく、私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう」。「命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天からくだるパン、それを食べる人は死なない。天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる」(ヨハネ6章)。

イエズス・キリストは、私たちに豊かな命を与えるために来た、と言われます。

「私は羊の門である。…私は門である。私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう。…私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私はよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。…私はよい牧者で、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。…私は、自分の羊のために命をすてる」(ヨハネ10章)。

「私は復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永久に死なない」(ヨハネ11章)。

「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない」(ヨハネ14章)。

イエズス・キリストは、私たちへの愛を語ります。

「私は本当のぶどうの木で、私の父は栽培者である。…私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。…父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ」(ヨハネ15章)。

主の御稜威の前に礼拝しましょう。私たちを愛するがあまり、謙遜に小さな弱々しい幼子となってお生まれになる主キリストを礼拝いたしましょう。私たちの永遠の命が、この幼子の手の中にあります。全ての天使と人間たちを裁く最高の審判者としてこの世の終わりに来り給う主、天の全ての天使たちもその御稜威の前で震えて礼拝するお方が、憐みの天主として、私たちをひたすらに赦すために、私たちの代わりに罪の償いを果たすために、来られます。

私たちの主には、傲慢の影もなく、虚栄のかけらもありません。そのお考えにも、お望みにも、感情にも、お言葉にも、まなざしにも、身振り素振りにも、行動にも、一切ありません。主のお考えは、ただただ私たちを愛することです。屠所に引かれる小羊のように、口も開かずに、従順に謙遜に、私たちを愛されます。だから、主において常によろこびましょう。愛の主は近いのですから。

洗者聖ヨハネとは、誰か

洗者聖ヨハネは、光を証明するために天主からつかわされました。つまり、イエズス・キリストが真のお救い主であると証明するために来ました。また、すべての人が聖ヨハネによってイエズス・キリストを信じるために、証人として来ました。洗者聖ヨハネは、光ではなく、光を証明するために来た人です。

ところで、彼の生まれの高貴さ、エルサレムの有名な司祭ザカリアの子供、その奇跡的な誕生の噂は皆に知られていたので、エルサレムの著名な知識人たち、司祭たちやレヴィ人たちが、洗者聖ヨハネのもとに送られてきます。聖ヨハネこそが来るべきメシアではないのか?と。彼らにとってはむしろ洗者聖ヨハネがそうであると想定していたことでしょう。

しかし、聖ヨハネはきっぱりと自分がキリストではないと告白します。自分がキリストでないということを否定しませんでした。告白しました。「私はキリストではない」。

「すると、だれですか?エリアですか?」「いや、私はそれではない」。

「預言者ですか?」「いや」。

聖ヨハネは自分のことをこう言います。「預言者イザヤがいっている『荒れ野に叫ぶものの声、主の道を正しくせよ』とは私のことである」と。ここに真理にもとづく謙遜があります。聖ヨハネは、御言葉ではなく、声にすぎません。荒れ野で失われ、ほとんど誰にも聞かれないような声だと。ヨハネがそうであるなら、私たちは一体なんでしょうか?天主の御稜威の前で、無に等しい存在です。

私たちの主は、洗者聖ヨハネについてこう最大の賛辞を送ります。「私はいう。預言者よりもすぐれた人である」。ところが、洗者は、さらにこう言います。「あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている。それは、私のあとに来る人で、私はそのはきものの、ひもをとく値打ちもない」。履物の紐を解くのは、最低の身分の奴隷の役割でした。聖ヨハネは、自分には、主の前に身をかがめて履物にさわることさえする価値がないと言います。では、私たちは、一体なんでしょうか?天主の御稜威から全てをいただいたにもかかわらず天主に逆らう罪人です。

聖なる洗者は、霊魂の花婿ではなく、その友人だとも言います。「私が、『私はキリストではない』『ただ彼に先立っておくられた者だ』といったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁をまつのは花婿で、花婿の友人は、そこに立っていて、花婿の声をきいて大いに喜ぶ。これこそ、私のみちあふれる喜びである。彼は栄え、私は姿を消さねばならない」(ヨハネ3章)。

私たちは、どうでしょうか?悲しいことに、私たちは「私のやりたいことは栄えて、天主の御旨や掟は姿を消さなければならない」とでも言っているかのようです。謙遜な天主の優しい愛を目の前に見ても、心は冷たく閉ざされています。

遷善の決心

クリスマスにベトレヘムでまぐさ桶にお生まれになるお方は、私たちの傲慢を癒すために、私たちを貪欲と虚栄から救うために、謙遜と離脱と単純さをもって小さくなって私たちに近づこうとされます。

私たちの救い主の贖いの業は、生まれた時から死に至るまで、しかも十字架の屈辱の死に至るまで続きます。天へと昇る道は、謙遜の道であると教えてくれます。母の胎内ですでに罪を赦されて生まれてきた洗者聖ヨハネは、私たちに謙遜の模範を見せてくれます。

では、私たちは、一体なんでしょうか?私たちは、天主の聖寵を失ったまま、天主の敵として、悪魔のものとして生まれてきました。私たちは、今でも、天主の聖寵の助けがなければ、恐ろしい罪も恥知らずに犯すことができる弱い罪人です。そして、数年後には、霊魂と肉体が分離し、肉体は悪臭を放ちつつ腐って土くれになり、霊魂は、もしも心から謙遜でなかったならば、イエズス・キリストに従順でなかったならば、永遠の火に焼かれるべき存在です。

来る御降誕祭に、貧しい馬小屋に眠る幼きイエズスを礼拝する時、この幼子が一体どなたかを深く確信いたしましょう。全能の天主、目に見えるものと見えないもの全ての創造主、天と地とを統率し給う永遠の主権者なる王、私たちを愛するために人間となった救い主です。その謙遜によって、私たちを天に挙げ、罪の赦しの業を行い、天国の門を開いてくださる贖い主です。

天主が人となってお生まれになるその場所は、見捨てられたような寒い馬小屋、貧しい衣服、誰知らずに、歓迎もされず、ひっそりとしたところでした。

愛の主、永遠の王、イエズス・キリスト、私に謙遜を教えてください。私の心の傲慢を癒してください。御身の聖寵と愛とをお与えください。

主を私たちの心によく迎え受けることができるように、告解の秘跡も受けましょう。謙遜に私たちの罪を告白いたしましょう。

洗者聖ヨハネが聖化されたのも、まさに聖母がイエズス・キリストをもたらしたおかげでした。聖母に、祈りましょう。良き降誕祭を迎えることができますように。

「兄弟たちよ、主において常によろこべ。くりかえし言う、よろこべ。主は近い。何事にも心配するな」。