枝の主日の説教―「インプロペリア」について(2026年、大阪)
十字架上のキリスト
枝の主日の説教―「インプロペリア」について(2026年、大阪)
2026年3月29日 ブノワ・ワリエ神父
枝の主日の説教―「インプロペリア」について(2026年、大阪)
親愛なる兄弟の皆さま、
聖週間が始まりましたので、聖金曜日の最も心に響く賛歌「インプロペリア」、つまり「とがめの交誦」について、少しお話を、簡単な解説をさせてください。
絶え間ない繰り返しの言葉は、十字架上のキリストの内的な悲しみを表しています。「わが民よ、私はなんじに何をしたか。何をもってなんじを悲しませたか。答えよ」。
主は、限りない優しさをもって、イスラエルに注がれたあわれみと、その引き換えに主が受けられた、冷たい恩知らずぶり、恐ろしい裏切りを思い起こされます。
「私はなんじをエジプトの地から導いたのに、なんじは救い主に十字架を用意した。
私はなんじのために、エジプトとその長子を打ったのに、なんじは私を鞭打って渡した。
私はなんじの前に海を開いたのに、なんじはやりで私の脇腹を開いた。
私は荒れ野でなんじにマンナを与えて養い、岩から湧き出た救いの水を飲ませたのに、なんじは私に苦胆(にがきも)と酢を飲ませた。
私がなんじのために、これ以上なすべきだったのに、しなかったことがあるか」。
親愛なる兄弟の皆さま、このとがめの交誦は、古代のイスラエルだけに向けられたものではありません。私たちもまた、臆病さにより、主を見捨てました。私たちもまた、人間の尊厳により、主を否定しました。私たちもまた、肉の快楽により、主を鞭打って十字架につけました。
「わが民よ、私はなんじに何をしたか。何をもってなんじを悲しませたか。答えよ」。
しかし、驚嘆すべき天主の愛を見てください。私たちが傷つけたまさにそのお方が、私たちに懇願し続けておられます。主は私たちをお見捨てにならず、釘で貫かれた両手を広げて、近づくよう私たちを招いておられるのです。
ですから、悔い改めの心と感謝の涙をもって十字架に近づき、御悲しみの聖母の傍らに忠実に立ちましょう。アーメン。