至福八端の第一「心の貧しさ」と、聖霊の七つの賜物「畏敬」との関係について

ソース: FSSPX Japan

2025年7月20日  聖霊降臨後第六主日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の福音では、おびただしい群衆(四千人!)が、着の身着のままイエズス様を慕って荒れ野に行き、集います。そして、この世のことをすっかり忘れてしまったかのように、イエズス様の教えをじっと聞いています。彼らは忍耐強く、主の御姿を見よう、そのお言葉を聞きたいと思い、主の教えに飢え渇いていたのです。主は、大群衆のけなげな姿をご覧になり、こう言われます。

「私は群衆をあわれむ。もう三日も私といっしょにいて、食物もない。空腹のまま家に帰らせたら、途中でたおれてしまうだろう。彼らの中のある者らは遠くから来た」と。この続きは、愛する兄弟姉妹の皆様がよく知っている通りの大奇跡です。

天主は、優しさと憐れみに充ち満ち、富んでおられる方で、主を愛する者、また、主を愛するがゆえに全てを放棄した者たちには、永遠の命を与える前に、すでにこの世で百倍の報いを与えることを約束されました。

今日の大群衆は、荒れ野で三日間、いったいイエズス様のどのような御言葉を聞いていたのでしょうか?

聖マテオには、「山上の垂訓」というイエズス様のお説教が記録されている章があり、第五章から始まっています。イエズス様が山に登り、荒れ野で口を開きこうお教えになったと、至福八端の教えで始まります。

至福八端は、聖霊の七つの賜物に対応しています。先日、堅振式もありましたので、今日はぜひイエズス様と一緒に荒れ野に行き、至福八端の第一「心の貧しさ」と、聖霊の七つの賜物「畏敬」との関係について一緒に黙想いたしましょう。

【至福八端】

「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。」(マテオ52

主は、このことばで至福八端を教え始められます。マテオによると、主は八つの至福を語られます。ですから至福八端と言われますが、究極は一つの完成、一つの幸福のことを言われます。ちょうどこれは単なる比較ですけれども、太陽の光を、プリズムを通して見ると七つの色に分けられることに似ていて、聖霊の七つの賜物と三つの対神徳と四つの枢要徳また全ての聖徳は、一つの天の光、永遠の天主の光への参与へとまとめられます。

至福八端のそれぞれは、私たちの聖寵と聖徳のいろいろな側面です。聖トマス・アクィナスによると、至福八端のそれぞれが、大山脈の高い山々の一つ一つの山頂のようだと言っています。(II-II, q.69 a.2 & q.70 a.2

至福八端は、私たちが聖徳の山に登る素晴らしい階段であるかのようです。

至福八端の教える至福とは、永遠の命の遠い前兆ではなく、すでにこの地上における永遠の命の最初の実りのことです。つまりたとえて言うと、秋になると実りをつけるために春にでてくる花のつぼみではなく、熟すのを待ってすでに枝に現れている青い果実のことです。すでに実がついている、そのことです。天主がこの地上に置かれた天上の幸せ、これが至福八端の至福です。

では、この天主へと登る山のふもとには、何があるのでしょうか?

畏敬

それは、この世のことからの「離脱」があります。山頂に登るため、天主に駆け上がるためには、ここから始めなければなりません。離脱の喜びから、涙の甘美さ、それから聖徳(正義)の追求、憐みの優しさへとすすみ、天国の近く、山の頂上近くでは、清い光、そして愛の平和と殉教の脱魂があります。

では、この最初の第一歩「離脱」の原理とはなんでしょうか?

それは主への恐れ(畏敬)です。天主を悲しませることを恐れる、愛すべき天主の御稜威(みいつ)を犯して悲しませることを恐れる、愛による恐れです。そしてこの畏敬の報いは、天の国です。

【外的な善からの離脱】

では、離脱についてもっと深く考察してみましょう。

poverty

聖トマス・アクィナスによると「心の貧しさ」とは、外的な善(善いもの)から、自発的に全面的に離脱する、心を離すということです。つまり、下にくだっていく道を放棄するということです。こころから、誠実に、完全に、この世が私たちに与えるようなよろこび、外的な善を放棄するということです。

では、外的な善、私たちの外にある善いものとは、いったいなんでしょうか?

たとえば、名誉とか財産とか快楽のことです。イエズスはこのことについて何度も言われています。イエズス様の言葉を引用します。

「富むものはわざわいである、あなたたちは、すでに慰めを受けてしまったのだから。

いま飽き足りているものはわざわいである、あなたたちは飢えるだろうから。

いま笑うものはわざわいである、あなたたちは泣き悲しむだろうから。

みなからほめそやされるとき、あなたたちはわざわいである。かれらの先祖は、偽預言者に対してそうしたのだった。」(ルカ624-26

残念ながら、私たちはこの世に魅惑されていて、主の御言葉をまじめに受け取っていません。ですから、この世は不幸な人でいっぱいです。彼らは富と名誉と快楽に囲まれていながら、不幸で悲しく虚ろです。本当に幸せであろうとする人々は、この世でほんの少数なのです。何故かというと、本当の幸せは、外的な善いものにあるのではないからです。主は言われます。

「天主の国は、実に、あなたたちの中にある。」(ルカ1721

また、聖パウロはこう言っています。

「実に天主の国は、飲食にあるのではなく、正義と平和と聖霊とによる喜びにある。」(ローマ1417

そして、イエズス様はこうも言います。

「あなたが、もし完全になりたいなら、もちものを売りにいき、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それから、私について来るがよい。」(マテオ1921

「あなたたちも、自分の一切の持ち物を放棄する人でなくては、私の弟子にはなれない。」(ルカ1433) 云々。

ある若者が「完全になりたいので、どうしたらよいのですか」と尋ねた時にこの言葉を聞いて、イエズス様のもとを悲しそうに去っていきました。残念ながら多くの人々は、この福音の若者のようです。被造物の魅力に、心ががんじがらめにされてしまっているからです。はかなくあっという間に終わってしまうこの世の物が、私たちを幸せにしてくれるという幻想を捨てることができずにいるからです。残念ながら、被造物を目的としイエズス様から離れてしまう時、幸せから切り離されてしまうということが理解できずにいます。

【天主へと登る手段か妨害物か】

被造物は私たちの目的ではありません。天主の愛へと至る手段にすぎません。先ほど、色々な聖徳が天主の愛へと収束されると申し上げましたように、すべての被造物もまた、ちょうど天主の愛がプリズムを通して表されたかのようです。花のかぐわしい良い香り、鳥のかなでる美しい歌、川の水のせせらぎ。実は、全ての被造物は、これら被造の美と完成を通して、創られない美である天主、無限の完成である天主へと至る道、手段として私たちに与えられています。ですから、私たちは被造物を踏みつけるように、これを足台にして足を乗せることはできますが、これら被造物に心を与えてしまうことはできません。

もしも私たちが被造物に心を奪われてしまうならば、それは鎖となって私たちを縛り付け、高く上がるための足台のはずが、私たちをそこに引きとどめてしまう邪魔物になってしまいます。ちょうど、ゴキブリが罠にかかってしまったかのようです。その時、被造物は私たちを奴隷にしてしまい、天主の子供としての私たちの自由を奪ってしまいます。実はそれだけでなく、もしも私たちが被造物によって自由を奪われると、被造物も自由が奪われると聖パウロは言っています。

「全被造物は、自分の望みによってではなく、自分を服従させたものによって、はかなさに服従させられたが、しかし、腐敗の奴隷から解放されて、天主の子らの光栄の自由にあずかれることを希望していた。全被造物が、今まで嘆きつつ陣痛の苦しみにあっていることを、私たちは知っている。」(ローマ821-22

本当に幸せであるために、私たちは、被造物への奴隷状態から解放されて自由でなければなりません。ですから、被造物からの離脱は、私たちの最初の叫びであり、最初の一歩です。

イエズス様は言われます、「心の貧しい人はしあわせである!」と。

【報い】

では、報いはなんでしょうか?

それは「天の国」です。「天の国」とは、天主を私のものとすること、所有することです。これは、この地上での生命が終わったあと、完全に終わることなく続きます。夕日を知らない永遠の一日は、すでにこの世で暁がはじまります。この至福へと至るドアが離脱です。私たちの心から、被造物への愛着がとれて空っぽになった時に、天主はご自分でその心を、私たちの心を満たしてくださいます。

この離脱は、私たちがいろいろな徳を実践した実りですが、それだけでは足りません。この離脱が行われるためには、聖霊の賜物が必要です。何故かというと、私たちが聖徳を積んだとしても、それは被造物を正しく使うことは教えてくれます。しかし、聖霊の賜物、特に畏敬の賜物は、富と名誉とを、私たちの心から完全に、完璧に、徹底的に追い出し、私たちの心がそれに動じないようにしてくれます。あたかも、私たちがすでに死の敷居をまたいだ人であるかのように、富と名誉とに関して、私たちをそのように感じるようにさせてくれるのです。

【畏敬の賜物】

聖トマス・アクィナスによると、至福八端の第一「心の貧しさ」は、畏敬の賜物と希望の徳に対応しています。

希望の徳とは、超自然の対神徳で、私たちの前に永遠の善である天主を提示してくれます。そしてこれを希望させ、望ませ、それによって被造物から引き離してくれます。

畏敬の賜物は、私たちを完全に天主に従う者とし、この幸せに反対する全てのものを遠ざけてくれます。畏敬とは、子供の持つ恐れであり、愛する天主から離れるということを考えることさえも恐れさせます。畏敬は愛に根付いています。

聖書によると、主を畏れることは智恵の始まりであり、智恵とは天主を愛することです。(智恵114

ですから、至福八端の心の貧しさとは、離脱と苦しみの業を始めさせる愛です。死よりも強い愛であります。この愛、特に聖霊の与える畏敬による愛は、貧しいと同時に富んでいます。何故かというと、愛は天主のために全てを捨てさせますが、それは全てを与えるからです。愛とは、赤裸ですが豪華です。何故かというと、愛とは、十字架につけられたイエズス・キリストであるからです。何故かというと、全てを与え尽くした、イエズス・キリストの裸の豊かさの極みだからです。愛を見出すために、私たちは全ての被造物から離脱して、イエズス・キリストの十字架の富を求めなければなりません。イエズス様は私たちにこうおっしゃいます。きっと、今日の福音の大群衆も、この御言葉を荒れ野で聞いたことでしょう。

「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。」

【遷善の決心】

最後に遷善の決心を立てましょう。

マリア様とともに、今日の集祷文を祈りましょう。

「いと力ある天主よ、最善なるもの全ては御身のものなり、願わくは、われらの胸に、御身の聖名への愛【つまり畏敬の賜物】を差し込み、且つわれらにおいて宗教心を増し給え。そは、善きものらを養い給い、敬虔の熱心により、養われたものを保ち給うためなり。」

私たちの母であるマリア様にお祈りいたしましょう。

聖霊の「畏敬の賜物」をますます受けて、聖母のように、地上の物事からますます離脱することができますように。十字架につけられたイエズス・キリストが私たちを導く、至福へと至ることができますように、お祈りいたしましょう。

「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

十字架