真の宗教の外に救いなし

ソース: FSSPX Japan

2026年5月10日  御復活後第五主日

イヴォン・フィルベン神父 説教  大阪と札幌

親愛なる信者の皆さま、

時折ですが、私たちは他の宗教を信じる非常に誠実な人々に出会うことがあります。皆さまのご家族や友人の中にもいらっしゃることでしょう。仏教や神道に熱心で、善良かつ誠実な人です。その時、私たちは戸惑います。私たちは当然、愛徳を持って行動したいと願い、相手を傷つけたり攻撃的になったりしたくないと思うからです。また、現代社会では「すべての人を尊重し、あらゆる信仰を受け入れなければならない」というスローガンが繰り返されています。さらに日本の文化では、出生のときには神道、葬儀には仏教というように、複数の宗教を実践することがよくあります。これは特に問題とはされていません。では、なぜ私たちはもっと「寛容」になれないのでしょうか。

時折、私たちは自問します。「なぜカトリックこそが唯一の真の宗教であると主張することがそれほど重要なのだろうか。すべての人を尊重し、仲良くやっていく方がいいのではないか。私たち伝統主義者は不寛容なのではないか」と。

不寛容なのは私たちではなく、カトリックの信仰(真理)それ自体なのです(真理は嘘や誤謬と同時に成立しないからです)。そして、このカトリックの信仰は、私たちの主ご自身の御言葉に基づいています。この説教では、今日の主日の福音の御言葉を用いて、二つのことを説明したいと思います。第一に、カトリックの宗教のみが真の宗教であること、第二に、このことは不寛容な態度とは無関係であるということです。

 

  1. 私の名によって

今日の主日の福音の中で、主は弟子たちにこう言われます。「あなたたちが私の名によって求めることは何でも、父は与えてくださる。今まであなたたちは何一つ私の名によって求めたことがない」(ヨハネ1623-24節)。

もし、主がこう言われた時に、私が弟子たちの一人だったとすれば、恭しく手を挙げてこう申し上げただろうと思います。「主よ、ガリラヤであなたと共に過ごした三年間、私たちは何度かあなたから宣教に遣わされました。そのたびに、私たちはあなたの名によって行動しました。あなたの名によって説教し、病を癒やし、死者を復活させることさえしました。では、なぜ『何一つ私の名によって求めたことがない』と言われるのですか」。

確かに、使徒たちはガリラヤでの宣教の間、主の名によって絶えず行動していました。しかし、ここで主は、さらに踏み込んだことを言っておられます。主が「ご自分の名」について言われるとき、それは単に「イエズス」という単語のことを指しているのではありません。聖書的な意味において、人の「名」――特に天主の「名」――とは、その方の本質についての完全な真理を意味します。ここで主が言われる「私の名」の意味は、主というお方についての完全な真理のことです。「イエズスの名によって」求めるとは、イエズスとは何者であるかという完全な真理を知った上で求めるということです。実際、主の御復活のあとになってやっと、弟子たちは主が何者であるか、すなわち天主の御子、聖三位一体の第二のペルソナであることを真に理解したのです。ガリラヤでの宣教中、弟子たちにとって、まだすべてが明確というわけではなく、そのため御受難は弟子たちに衝撃を与えました。主が死者の中から復活されたとき、弟子たちは主の本質を理解しました。つまり、自分自身の力で死者の中から復活できるのは天主だけであるがゆえに、主は天主である、ということを理解したのです。さらに、御復活ののち、御昇天まで、弟子たちは主から特別な教えを受け、それにより、すでに知っていたことが完全なものになったのです。御昇天以降、使徒たちは天主についての完全な啓示を受けました。その後、付け加えられるものは何もなくなります。カトリック信仰の本質的な要素のすべてが確立されたのです。使徒たちはカトリックの真理を所有しました。「その日になれば、あなたたちはもう私に何一つ問うことはない」(同23節)。真理を手に入れたため、もう問う必要がなくなったのです。

 

  1. 天主が望まれること

イエズスは続けて、この真理を知った上であるなら、御父は使徒たちの祈りを聞き入れてくださる、と言われます。「あなたたちが私の名によって求めることは何でも、父は与えてくださる」。この一文は極めて重要です。この意味は、天主は、単に「真摯な祈り」を望んでおられるのではなく、天主が何者であるかという「正しい知識」に基づいた祈りを望んでおられること、そして、祈りに応えてくださるのはその範囲においてだということです。天主は、私たちに対して、偽りの概念に従って天主を礼拝するのではなく、真理において天主を礼拝することを望んでおられます。天主は、真摯で自由な選択であればどんな宗教でも持つことができるという、現代の相対主義社会の宗教多様性とはかけ離れたお方なのです。違います、断じて違います。天主は偽りの宗教を愛されません。

これは、天主がカトリック以外の宗教の信者を愛しておられないという意味ではありません。決してそうではありません。天主はカトリック信者だけを愛しておられるわけではありません。天主は一部の仏教徒やイスラム教徒をも愛しておられます。しかし、それは、彼らがその偽りの宗教の信者であるからではなく、偽りの教えによって知らないうちに惑わされてしまった人々だからです。天主は時には彼らの祈りを聞き入れられることもありますが、その宗教自体を愛されることはありません。なぜなら、それらの宗教は人々を天主から遠ざけるものだからです。

 

  1. 判断基準

締めくくりに、寛容の問題に関する判断基準を提案したいと思います。私たちは寛容であるべきでしょうか。答えは、「はい」であり「いいえ」でもあります。

第一に、私たちは偽りの宗教の教えに対しては「不寛容」でなければなりません。カトリックの教えを妥協させようとしてはなりません。カトリック以外の宗教は、人々を真理から遠ざけ、そこから抜け出すのを困難にさせるため、天主の目には悪なのです。

しかし、それらの宗教の信者に対しては、時に寛容であることも必要です。信仰の行為は自由な行為であり、私たちは常に他人に対して愛徳を持って接しなければなりません。まだカトリック信仰に回心する準備ができていない人々もいます。彼らに強制することはできません。私たちは彼らを愛するように努めなければなりません。時には、その人が回心する準備ができるまで待ち、それまで愛徳を示すこと以上に、できることは何もないこともあります。

親愛なる信者の皆さま、カトリック信者は暴力を助長しません。反対に、すべての人を心から愛そうと努めます。しかし、そのことは、偽りの宗教を有効な教えとして受け入れなければならないという意味ではありません。実際、主の教えに従い、父なる天主はイエズスの名によって―すなわち、カトリック以外の教えの形式ではなく、天主の御子の真理によって―礼拝されることを望んでおられるからです。これまで以上に多くの霊魂がイエズス・キリストの真理に心を開くよう、共に祈りましょう。