召命にふさわしい家庭環境
2026年4月12日 白衣の主日
ベルナール・ド・ラコスト神父様 霊的講話(同時通訳 トマス 小野田圭志神父) 聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)
今日、皆さんにこうやってお話しできることを非常にうれしく思います。
私は、神学校の校長という経験を通して、皆さんに教育についてお話をしたいと思います。特に召命に応えることができるように、もしも、天主様が司祭や修道者としてお呼びになるのであれば、子供たちが召命に応えることができるようにするような教育についてお話ししたいと思っています。
子供が大人になったときに、自分の人生についてどのような身分になるかということを決定しなければならないときがあります。結婚するのか、それとも結婚を放棄するのか、あるいはどのような仕事に就くのかなどです。この世には様々な職業があります。「役立たずの仕事などない」と言われますが、すべては社会の共通善のために奉仕しており、どの仕事も美しいものです。そのうちで、何にもまして美しい仕事があります。それは「司祭」です。何故ならば、司祭は、天主への礼拝と霊魂を救うために一生を捧げるからです。天主に生涯を捧げることほど美しいものはありません。他にもあります。それは「修道者」です。自分の身を天主の奉仕のために捧げ、司祭と同様、清貧・貞潔・従順を通して完徳を目指します。聖職への召命はすべて同じではありません。
十戒を守る者は善い行いをしています。しかし、さらに福音的勧告である清貧・貞潔・従順に従う者は、それ以上に善い行いをしています。
司祭については、必ずしも修道者である必要はありませんが、祭壇の上でイエズス・キリストを現存させ、罪を赦す権能を授けられた「もう一人のキリスト」となります。これは、他のあらゆる人間の尊厳よりも優れた尊厳です。
聖パウロは家庭の父たちにこう語りました。「娘を嫁がせる者は善いことをするが、嫁がせない者はさらに善いことをする」と。
また、トリエント公会議は次のように断言しています。
「貞潔または独身の状態は、結婚の状態よりも上位に置かれなければなりません。結婚するよりも、貞潔または独身のままでいるほうが、より良く、より幸福である。」
つまり、童貞というものが、結婚よりもさらに完成されていて、より幸せなものであるということです。何故でしょうか? それは、天主とのより深い親密さによるものです。天主は、ある特定の人々を選んで童貞の生活(司祭や修道者)にお呼びになります。童貞の生活は、より多くのものが要求されるからこそ、それだけ美しいものです。何故ならば、司祭たちは、天主により多くのものをお捧げすることができるからです。天主に多くをお捧げすればするほど、それだけ多くの報いもあります。天主に身を捧げた童貞の生活は、ちょうどキリストと霊的な婚姻を結んだかのようです。キリストは、最も優れた配偶者でさえ成し得ないほどの幸せと喜びで、人間の心を満たしてくださいます。
キリスト教の両親にとって、我が子が司祭や修道者に召し出されることは大きな名誉です。息子を司祭や修道士に、または娘を修道女として選んで頂けるということは、その両親にとって大きな喜びでもあります。しかし、その召命が家庭から生み出されるためには、より多くのものが親御さんたちに求められます。そのためには、よりキリスト教的な雰囲気がその家庭になければなく、それを維持しなければならないからです。私たちの周りで、司祭や修道者への召命がいったいどこから輩出しているのかというと、ほとんどの場合、非常に深くキリスト教的な家庭から出ています。もちろんそうでない場合もありますが、生ぬるい家庭や適当にキリスト教的な家庭において、良い召命が出るチャンスはほとんどありません。本当に熱心な家庭からは良い召し出しが出されます。一人あるいは複数の召し出しが生まれます。
現代世界において、青年たちが召命に応えるためには、多くの困難や邪魔があります。何故かというと、この世界には多くの誘惑に遭遇する機会があり、また、現代の若者たちは、昔とは違って非常に傷つきやすく、そして壊れやすくなっているからです。そこで、このような青年たちが、召命への妨げとなる多くの障害に打ち勝つことができるようになるためにはどうしたらよいか、そのために親御さんたちはどのような教育をしたらよいか、ということについてお話ししたいと思っています。
また、子供たちに聖職への召し出しを望むなら、親はどのように生きるべきでしょうか? 召し出しは、深くキリスト教的な家庭においてはより容易に生まれます。そのような家庭では、夫婦は深い愛で結ばれ、毎晩共に祈りを捧げ、家長は優しく導くことを知る指導者であり、母は貞淑で信心深く献身的であり、天主に奉献された聖職者たちは尊重され、敬意をもって守られ、告解と聖体の秘跡は畏敬の念をもって受け入れられ、断食と節制が惜しみなく実践されています。
このお話では、家庭の枠組みの中で子供たちの召命を育み、強めるための実践的な助言をいくつか紹介していきます。まず、救霊ひいては奉献生活への障害となる三つの欲についてですが、聖ヨハネがその書簡の中でそれらについて話しています。
第一は目の欲です。この地上のものを所有したい、この世の財産への執着である貪欲です。地上のものに愛着を持っていることです。
第二は肉の欲です。これは肉体の感覚的な情欲と執着のことです。官能的なものを楽しみたいという不純な欲や貪食などです。
第三は傲慢(高慢)です。これは、自分の素晴らしさにあまりにも執着し過ぎることです。
これは罪の源となるものですけれども、この世に生きる私たちは、これらに対して戦わなければなりません。私たちの聖徳の敵であるこの三つの欲に対して、教会は三つの特効薬(対策)を提供します。まず、貪欲に対する治療薬として清貧です。清貧は、この地上のものから離脱するようにと招きます。そして、肉の欲に対する治療薬としては貞潔です。最後に、傲慢に対しては謙遜という治療薬が処方されます。謙遜は、従順を実践することによって、ますます育まれていきます。
この三つの薬による対策は、天主に対して修道者たちが立てる三つの約束――清貧・貞潔・従順の三つの誓願によって実行されています。したがって、お父さんやお母さんを始めとする教育者たちは、子供たちの教育において、これら三つの福音的勧めに従うよう子供たちを助けるべきです。清貧と貞潔の精神、従順の実践を子供たちに教えていかなければなりません。
a)清貧――貪欲への薬
まず、清貧についてお話ししましょう。
福音に登場する金持ちの青年は、キリストから従うよう招かれますが、多大な財産を持っていたため、その勇気を持てませんでした。人間は原罪をもって傷つけられているので、この世のものに愛着を持ちがちです。たとえば、もっとお金が欲しい、もっとこの地上のあらゆるものをたくさん持ちたいと思ってしまうのです。そして、あたかも自分がこの地上にまだずっと生き続けるかのように錯覚し、いらないものや表面的なものをかき集め、天国や永遠のことを忘れて生きるようになってしまいます。贅沢と安楽は、天主への献身を困難にします。何故なら、それらは私たちをこの世に縛りつけ、天主を第一の座に置くことを妨げるからです。しかし、私たちはいつの日かこの地上を去らなければなりません。天主の呼びかけに応える者は、真の富がこの世のものではなく、永遠に続くものであることを理解します。私たちは、寛大にこの世のものから離脱することを学ばなければならないのです。
そのために、少ないもので満足することを子供たちに教えてあげましょう。たとえば、何か遊ぶときには、高いおもちゃや高い値段のするリクリエーションをする必要はありません。そうではなくて、ほんのちょっとのことで喜び、楽しみ、満足することを、子供たちに学ばせてあげましょう。
子供たちは、この地上の富ではなく、霊的な富をより熱心に求めるようにならなければなりません。また、貧しい人々や愛徳の事業に喜んで金銭を捧げるなど、必要なものを必要な人に差し上げる寛大さを学び、実践できるようにならなければなりません。しかしながら、そのためにはまず、お父さんとお母さん自身がこの地上のものから離脱しており、寛大で、清貧に生きていなければなりません。自身にこの世の物への執着がないことを子供たちに示すことで、清貧の模範を示しましょう。
b) 貞潔、肉欲に対する薬
次に、貞潔についてです。この貞潔の徳は、現代ほぼ実践されていません。ですから、子供たちは簡単にこの貞潔に反するものによって汚染されがちです。ですから、お父さんとお母さんは、子供たちの貞潔に関して注意を払い、子供たちの貞潔を守るように心がけなければなりません。
特に、スクリーンです。子供たちは、スマートフォンやコンピューターなどによって、本当は目にしてはいけないようなものを目に入れてしまうかもしれません。あるいは、悪い友だちによって貞潔に反することを学んでしまうかもしれません。これらから子供たちを守ることがとても大切です。
スマートフォンを始めとする情報端末は今、貞潔に反する不潔なもののために多く使われています。たとえば、16歳の若者が、夜にスマートフォンを手に自分の部屋に入ることなど許されるべきではありません。ですから、お父さんとお母さんは、子供たちがこれらの機械をどのように使うか、非常に警戒しなければなりません。もしも本当に必要でないならば、このような機械を子供たちに与えてはなりません。もしもどうしても必要があり、子供たちがそれらを持たなければならないのでしたら、この機械をどのように使うか、子供たちがどのように使っているかを厳格に管理し、必要に応じて制限し、コントールしなければなりません。
私たちは、コロッと騙されてはいけません。すべてが上手くいくと甘い考えを持ってはいけません。何故かというと、様々な情報端末を悪のために使い、乱用する誘惑は、すべての人にいつもあるからです。
そこで、私たちから貞潔を奪わせるものを破壊するには、それに代わるものを用意しなければなりません。音楽、文化施設への訪問、散歩、スポーツ、工作、料理、裁縫などです。こうした豊かな活動を、個人だけでなく家族で一緒に計画することは、子供たちにとって良いことです。子供を映画やビデオゲームの前に座らせるよりも手間がかかり、計画も難しいですが、はるかに教育的です。
また、子供たちの養成・教育についても注意しましょう。これは非常にデリケートな領域ですけれども、命の神秘について子供たちに説明する必要があります。重要なのは子供たちに正しい知識を与えることです。お父さんは息子たちに、そしてお母さんは娘たちに、適切な言葉で説明してあげてください。天主は、人間の命の伝達をどのように望まれているかについて教えてあげてください。何故かというと、もしもお父さんとお母さんが説明しなければ、子供たちは悪い方法で悪い内容を学んでしまうかもしれないからです。そうではなく、正しい方法で正しい内容を、天主の御計画がどのようなものであるか、どれほど美しいかということを、子供たちは知らなければなりません。また、彼らが直面する危険や誘惑についても説明する必要があります。その時期は、遅すぎるよりも早すぎる方が良いでしょう。一日遅れるより、一年早すぎる方がましです。
そして、貞潔とは、天主への愛を動機とする自己犠牲であることを心に留めましょう。キリスト教の精神とは放棄にあります。イエズス様もこうおっしゃいました。「もしも、わたしの弟子になりたいならば、自分の十字架をとってわたしに従いなさい」と。
天主に「従う」この犠牲の精神は、現代社会の考え方にあまりにも反しているため、子供たちにそれを教えることを考えなければなりません。もし、私たちがいつも自分の願望や欲望をすべて満足させようとするならば、貞潔を守ることはできません。たとえば、何かを食べたいと思えばすぐ食べ、飲みたければすぐに飲む。したいと思えばすぐに行う、といったようなことです。そうではなく、私たちは、天主への愛のために進んで犠牲を捧げることを学ばなければなりませんし、子供たちにも「イエズス様をお喜ばせするために」という意向で行動することを教えなければなりません。これには犠牲の精神が求められます。
この愛を実践する方法は、日々のささやかな出来事の中で学ばれます。たとえば、お菓子を我慢すること、水を少しだけ飲みたいけれどもお捧げして控えることなどです。それ以外にも、毎日私たちが直面する苦しみや不快感を耐え忍ぶことによってもできます。たとえば、暑さや寒さ、身体の不調などです。天主の御摂理は、毎日、私たちが背負うべき小さな十字架を私たちに与えてくださいます。ですから、それらをキリスト教のいけにえの犠牲の精神に従って捧げ、忍耐することです。天主をお愛し申し上げるためにすべてを行い、お捧げするのです。私たちに日々送られる苦しみや犠牲を、不平不満を言って反抗せずに、心に愛をもって平和に受け入れ、静かに背負うとき、私たちは天主への愛に進歩し、そして同時に貞潔の徳についても進歩するでしょう。何故かというと、愛と貞潔は一体であるからです。つまり、天主への愛徳が貞潔の起源となっています。天主を愛するために払う犠牲こそが、貞潔を守るための徳に繋がるのです。
また、お母さんたちは、息子たちに対して過保護になりすぎないようにしましょう。軍人が歌うように「苦難に耐え抜く男が必要」なのです! つまり、子供たちに犠牲と努力の意味を教えなければなりません。そしてそのために、お父さんとお母さんたちは、犠牲を捧げる精神の良き手本となり、子供たちにその模範を示してあげてください。たとえば、官能的な映像を見ることを断固として拒むなど、自ら貞潔な生活を送ることから始めます。次に、天主の御摂理が日々もたらす犠牲を、不平不満を言わずに受け入れるという悔い改めの精神によって、模範を示すのです。
確かに、聖アウグスティヌスやフーコー神父の生涯は、祈りと悔い改めの生活を通じて、不純な生活を送った後でも司祭になることが可能であることを示していますが、これらは例外的なケースです。多くの場合、悪しき習慣は、奉献生活と相容れない奴隷状態に陥らせてしまいます。
イエズス・キリストは、私たちのために十字架上でお亡くなりになり、その犠牲は私たちの救霊にとって十分ですが、主は私たちがその犠牲と共にあることを望んでおられます。すべてのキリスト信者は、キリストと共に苦しみながら、キリストを模範とし、従わなければなりません。私たちの救い主のこの言葉を思い出しましょう。
「だれでも、わたしに従いたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」
c) 従順、それは高慢に対する薬である
キリスト教生活の第三の障害物は傲慢です。「私は、自分のしたいことを思い通りにやりたいし、手に入れたい」という独立・自立の精神であり、この傾向に対する特効薬は従順です。つまり「私のやりたいことは放棄して、天主の御旨を、天主の御望みを私は行いたい」ということです。
天主の御旨は、どのように私たちに知らされるかというと、普通は私たちの長上や目上から、子供たちにとってはお父さんとお母さんを通して知らされます。ですから、キリスト教的生活とは、長上や目上、子供たちは両親を通して天主に従順であるという生活です。
従順は幼い頃から、7歳になる前からさえも学ばれるものです。子供は、目上の者を通じて示される天主の御旨に対して、自らの意志を屈服させることを学ばなければなりません。両親が子供たちにすることができる大きな奉仕とは、子供たちのわがままや思い通りに譲らないことです。たとえば、子供たちが「これが欲しい、あれが欲しい」「こうして、ああして」と言った際、時には「今日はいけません」あるいは「これはいけません」と、子供たちのわがままを満足させないことこそが本当の愛です。もし、両親が子供たちのわがままに簡単に屈してしまうなら、子供たちは天主の御旨を自分の意志よりも優先させることができなくなってしまいます。子供たちは、自分のわがままを捨て、外見上だけでなく、心の奥底から、天主に服従するという意志をもって従うことを学ばなければなりません。もちろん、子供たちに対しては愛情と優しさが必要ですが、それと同時に堅固さも必要です。いくら子供たちがわがままを言っても、それを譲らないということができなければなりません。これこそが、お父さんとお母さんたちが子供たちにできる、従順を教えるための最高の奉仕です。
従順の精神は、従順さとも通じ、それは気性の独立に対する特効薬となります。
ある日、ある紳士が小さな女の子に、なぜそんな行動をとったのか尋ねました。「ママにそうするように言われたからよ」と彼女は答えました。「それで、どうしてママはあなたにそう言ったの?」と男は尋ねました。
「その質問ですよ、おじさん。それは、地上の楽園で悪魔がエワに投げかけた質問ですよ!」と、少女は続けました。この少女は母親からしっかりと教育を受けていたのです。
サタンはエワにこう尋ねました。
「なぜ天主は、楽園のどの木の実も食べてはならないと命じられたのか?」
命令の理由を探ることは、ルチフェルの真似をすることに他ならず、受けた命令が合理的かどうかを判断しようとする行為です。それは反抗の精神から生じます。「命令が上からのものだから従うのではなく、それが賢明だと私が思うから従う」という態度です。確かに、特に大人に対して命令を下す場合、上層部が説明なしに命令するのは非常に不器用なことです。しかし、下位の者は命令の正当性を要求することはできません。したがって、子供たちには、たとえ理解できなくても従うことを教えなければなりません。
ですから、お父さんとお母さんが子供たちに何らかの命令をしたときに、子供たちが「なんで?」と、その命令を正当化させる理由を求めたとしても、お父さんとお母さんは、なぜその命令をしなければならないか、子供たちにいつもすべてを説明する必要はありません。子供たちは、たとえその理由がわからなかったとしても、お父さんとお母さんが言ったから、これは命令だから従わなければならないということを知らなければなりません。「それは確かに合理的だから従う」のではなく「お父さんとお母さんは天主の代理者だから、天主の命令だから私は従う」ことを学ばなければなりません。
それから、他人を批判する習慣(悪口)は、謙遜を損ないますので避けましょう。その解決策は、愛徳と寛容さを持って人を判断することにあります。
d) 子供たちに祈りを教える
お父さんとお母さんが子供たちに教えるべきものはお祈りです。どのように祈るかを教えなければなりません。一番良い教え方は自分の模範を示すことです。お父さんとお母さんたちが何をしているかを、子供たちはよく見ているからです。お父さんとお母さんが、ただ機械的に祈りの定型を口に出しているのではなく、天と対話をするように捧げられる、本当の祈りの姿を子供たちが目の当たりにするとき、子供たちは祈りの仕方を学びます。
ぜひ、家族でロザリオを唱えることの素晴らしさを知ってください。毎日、家族が一つに集まってロザリオをお捧げすることは非常に大切です。教皇ピオ十二世はこう言いました。「祈る家族こそ、生きている家族である」と。
家族での祈りは不可欠です。毎晩祈る家族は、天主から豊かな恵みを受けます。たとえたくさんの仕事があったとしても、疲れていたとしても、面倒くさいと思ったとしても、十字架像やマリア様の御像の前に家族が集まって一緒に祈るとき、多くのお恵みがすべての家族のメンバーに与えられます。私たちは、ロザリオの祈りをお捧げするようにしなければなりません。
理想的なのは、毎日家族でロザリオをすべて祈ることですけれども、子供たちが小さいとき、それは難しいかもしれません。ロザリオの玄義を五連も唱えることはできないかもしれませんが、ロザリオを唱える習慣を子供たちが学ぶことができるのは、両親が子供たちに与えることのできる大きな奉仕です。幼い子供たちに落ち着きがなくても問題ではありません。重要なこと、そして天主に喜ばれるのは、家族全員が毎晩集まって祈ることです。
子供たちに、毎日ロザリオを唱える習慣を身につけさせ、特に試練や誘惑に直面した時には、主や聖母に祈りを捧げるよう導くのが良いでしょう。このように祈りを学んだ子供たちは、やがて成長して大人になっても、信仰生活における信仰の実践を、生涯の終わりまで耐え忍ぶことができるでしょう。
さらに、祈りには口頭(言葉に出すこと)で行う祈りの他に、言葉に出さずに行う念祷もあります。子供たちが大きくなれば、念祷の仕方も教えてあげましょう。静かな祈り、イエズス様との心の対話、決まった言葉を使わず、ただイエズス様をお喜ばせするためだけの御聖体の訪問を教えてあげる必要があります。御聖体の前や自分の部屋の中で、沈黙のうちに天主の現存の前に我が身を置き、主の御降誕や十字架上での御死去など、イエズス様の御生涯を黙想しつつ、心の底から主に話しかけ、主に愛の言葉で対話をし、黙想をするという、このような祈りの方法を教えてあげましょう。
それから、平日にミサに参加することが難しい場合が多いことは承知していますが、祈りを捧げ、ミサ書の祈りを読むことで、いつでもミサに心を合わせることができます。たとえば、その日のミサの福音書を毎日黙想することは、とても良いことです。また、毎日「霊的聖体拝領」を行うこと、すなわち、主と一つになりたいという熱烈な願いをもって聖体拝領を行うことも可能です。
また、霊的読書も大切です。毎日の霊的読書は、より深い内面生活を育むための効果的な手段です。特に聖人伝は読むのが簡単ですし、聖人たちの立派な模範は私たちの心を奮い立たせ、読めば読むほど私たちは真似をしたいと思うようになります。そして、信仰生活を寛大に送りたいという動機付けにもなり、天主の呼びかけに耳を傾け、惜しみなくそれに応えるための助けとなるでしょう。子供たちが大きくなり、青年になるならば、聖人伝を始めカトリックの良書を読ませてあげ、子供たちが、信仰生活をよりよく送ることができるよう動機付け、啓発してあげなければなりません。
e) 使徒職への入門
ぜひ、子供たちに、霊魂たちの救いのための熱心さを教えてあげてください。マリア様は、ファティマにおいてそれを子供たちに教えられました。マリア様は、子供たちの使徒的熱意を奮い立たせるために地獄のヴィジョンをお見せになり、多くの霊魂たちが地獄に落ちて失われている事実を示し、お嘆きになりました。そこで、子供たちは祈り、罪人の霊魂の回心のために多くの犠牲を捧げるようになりました。ですから、皆さんの子供さんたちにも、地獄が存在すること、そして、霊魂の救いのために私たちが祈りと犠牲をお捧げすることによって、多くの罪人が回心へと導かれ、あるいは地獄を逃れ、永遠の救いを得ることができることを、多くの霊魂の破滅を避けることができることを教え、また思い出させてあげてください。
子供たちのお祈りはとても価値があります。もし、子供たちのお祈りのおかげで霊魂が救われたとなったら、どれほど素晴らしいことでしょうか。そして、このような霊魂への愛や、霊魂の救いのための熱心さこそが、司祭や修道者の召命の多くの源となっています。何故ならば、聖職を志す心の根底に、霊魂の救いのために何か役立ちたい、何か奉仕をしたいとの思いがあるからです。
f) 霊的指導者と黙想会
自分をよく知る司祭の賛同を得ずに、神学校や修練院に入るのは軽率です。したがって、召命があると感じる人は、司祭に打ち明け、相談することが必要です。さらに、18歳前後には、黙想会に参加することがほぼ不可欠と言えます。黙想会は、青年たちが自分の召命を識別する(見分ける)ために、非常に効果的な手段です。特に聖イグナチオによる霊操による黙想会は有益です。日本でも、今年(2026年)の8月と9月に予定されていますが、5日間、沈黙のうちにおいて、司祭の講話を聞きながら霊操の黙想を行います。これこそが、私たちが霊的に進歩するために非常に効果的なやり方で、私たちの欠点を直す他、救霊のために多くの利益があります。特に、若い青少年や若い女性が、自分の将来について決定するときには理想的な環境をつくることができます。そのような環境においてこそ、天主の御声がはっきりと聞こえ、クリスチャンは天主の呼びかけに応える準備が最も整うのです。
g) 避けるべき不手際
「私の息子某はきっと神父になるわ。彼はとても信心深く、心優しい子だから!」最後に、息子に天主への召命があると思い込んでいる母親たちへ注意を喚起します。むしろ、天主が誰を選ばれるかは天主に委ね、子供たちにはそれに応える自由を与えるべきです。そうしなければ、息子は誤って自分が召命を持っていると思い込んでしまう恐れがあります。8歳の男の子が、妹と一緒にミサごっこをしたり、聖体の行列を企画したりするのが好きだとしても、それは司祭の召命の確かなしるしではありません! それどころか、親は子供たちにこう言うのが良いでしょう。「もしあなた方の誰かが、修道生活や司祭職を通じて天主に身を捧げるなら、それは家族全員にとって喜びであり、名誉なことでしょう」。
15歳の少年が、天主から司祭職への召命を受けていると感じていると両親に告げた場合、ただ単に、その子供には信心深くあり、自分の置かれた立場での義務に励むよう促せばよいのです。
結論
では、結論としてこう申し上げます。
21世紀のキリスト信者の親たちは、子供たちに良い教育を与えるために必要なすべてを手にしています。確かに、この世の中は敵対的であり、誘惑は数多くあります。子供たちの教育も多くの難しい部分がありますが、お父さんとお母さんたちが、子供たちの教育のためにできる限りのことをするならば、天主は、その努力に応じて必要なお恵みを必ずくださいます。天主は、ご自身の恵みを拒まれることはありません。エコンにおける素晴らしい召命は、この困難な時代においても、天主が寛大な霊魂たちに恵みを注いでおられることを示しています。主は、地獄の勢力よりも遥かに偉大な力をお持ちでいらっしゃいます。イエズス様は、そのために十字架上でお亡くなりになり、私たちのために功徳を積んでくださいました。
そして、イエズス様はこうおっしゃったではないでしょうか?
「信頼せよ。私はこの世に勝ったのだ」と。
ご清聴ありがとうございました。