御托身における天主の愛
2023年10月9日
トマス 小野田圭志神父 日本の聖なる殉教者巡回聖堂
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はファイファー神父様の代わりに、無原罪の聖母の騎士の一日、汚れなきマリア様の御心に捧げられた一日を過ごしたいと思っています。そのために今日は特別に汚れなき御心の随意ミサを行っています。
十月はロザリオの月です。ロザリオを唱えながら、私たちは「めでたし聖寵満ち満ちてるマリア」と大天使聖ガブリエルがマリア様におっしゃったその言葉を祈って、玄義を黙想します。今日はやはり、喜びの第一玄義、お告げの神秘を一緒に黙想しましょう。
大天使聖ガブリエルが「めでたし聖寵満ち満ちてるマリア」とマリア様におっしゃったその言葉は、三位一体が人類に言った言葉です。これは、人類が、いわば天主から愛のプロポーズを受けたその瞬間です。つまり、天主が人間と一致する、それを受け入れるかどうか、その瞬間でした。
【1:天主は御一人子をお与えになるほどこの世を愛された。】
「天主は愛である。Deus caritas est. ヨハネ4:16」聖ヨハネは私たちに宣言します。天主が人となったというご托身の玄義は、これは愛の業以外の何物でもありません。
聖ヨハネはこうも言います。「天主は御一人子をお与えになるほどこの世を愛された。」Sic enim Deus dilexit mundum, ut Filium suum unigenitum daret.」(ヨハネ3:16)
天主御父の私たちに対する愛は、私たちの想像も考えもはるかに超えています。永遠の昔から、永遠の未来に至るまで、御父の心に叶う御子は私たちの罪の贖いのために、犠牲として、容赦せずに、屈辱と死を受ける者として渡されようとされたのでした。
御子も、私たちを永遠の地獄の苦しみから救い出そうと喜んで御父のみ旨を受け入れました。つまり苦しみも死も喜んで私たちのために受けいれました。どのような犠牲があってもよろしいと思ったのです。
聖霊も、御子を愛していたその愛の聖霊も、この御托身の玄義をマリアさまにおいて完成させようとします。三位一体の愛の極みが御托身の玄義です。
三位一体は、きょうも、かつてと同じように私たちを常に愛し続けています。愛は昔から今に至るまで永遠にとこしえに変わることがありません。私たちの至福を、永遠の喜びを、欲しておられます。
信仰が私たちに教えるところによると、天主は、私たち一人ひとりのためにご托身の玄義を行われました。
もしも私たちがたった一人だけだったとしても、喜んで天主は私のために人間となられたことでしょう。
天主は、永遠の昔から至福の方、完成された方、御自分だけで全ての栄光に満たされた方です。王の王です。その方が、苦しみに満ちた死すべき人間となる神秘を受けようとされたのです。なぜでしょうか。それは ただひたすらに、天主が良い方であり、天主が愛であるからです。無限の憐れみの愛であるからです。それ以外には説明がありません。
これについていろいろ考えてみました。
ちょうど私たちがある悪魔の帝国に住む、自由も何もない非常にイデオロギーに固まった社会に住んでいた、と想定します。すると、ある自由の王国の王様がその王子を送って、婚姻をプロポーズしました。
「でも、王様わたしには莫大な借金があります、とてつもない借金があります、王様。すみません。」
「大丈夫だ、私がすべて借金は払う、だから私の愛を受けてほしい。私の王国を受けてほしい。一緒に幸せになろう。」
「王子様、でもわたしを、そうするためにはわたしの国にこなければなりません。」
「よし、喜んで行こう。」
「でも 王子様、いまは自由ですべてのことができてなんでも思い通りにできて幸せに健康にしてあるではないですか。もしもわたしの国に来るならば隔離されなければなりません。小さなホテルのお部屋の中に九か月間隔離されて出ることもできません。そんな惨めな思いをされるのですか。」
「喜んで隔離をしよう。九か月間なんて一体何でもない。どんなホテルだろうが行こう。」
「でも王子様、でもその九か月の隔離が終わった後は、出されたとしても、わたしと会うためには30年間強制労働が待っている、貧しいところで、食べ物もほとんどなく住むところもバラックでそして卑しい身分になって大工の仕事のようなものをして労働しなければなりません。厳しい律法もあります。その律法をいちいち果たさなければなりません。自由などありません。それでもよいのですか?貧しいものを食べて、労働をして、そして、賃金もなくてほとんどなくて、そして馬鹿にされて、従順にしたがわなくてはなりません、いいんですか?」
「強制労働など何でもない。30年間従ってそしてすべてを捧げるお前を愛している。だから、行く。」
「王子様、いまは健康でお元気ですけれども、何の苦しみもありませんが、でもこの帝国に来るためには毒を飲まなければなりません。その毒を受けると王子様は苦しまなければなりません。嘆き藻掻いて、そして苦しみのあまり全身は傷だらけになり、血をだらだらと流して、そして死ななければなりません。それでもいいのですか。今では死ななくても大丈夫ではないですか?健康で幸せではないですか?でも苦しまなければなりません。」
「私はお前を愛している。苦しみも死もなんでもない。お前のもとに行きたい。お前に私の命を与えたい。だからすべてを喜んで受ける。」
「王子様、でもそれをすると王子様は友から裏切られて馬鹿にされて屈辱されて虫けらのようにされます。それでもいいんですか?」
「どんな世間体もどんな屈辱も裏切りも、すべてお前を愛するためお前に幸せを与えるために、おまえを私の王国の王女とするために、喜んで受ける。」
この愛のプロポーズが、大天使聖ガブリエルが私たちに伝えた、マリア様を通して伝えた「めでたしの祈り(天使祝詞)」でした。
この第一玄義が、私たちに天主の愛を限りない愛を教えています。私たちが憐れな弱い罪人でありながら天主から限りなく愛されている存在だということを、とても大切にされているものだということを、教えています。
聖アウグスチヌスはこう叫びました。O pulchritudo, tam antiqua et tam nova, sero te amavi! これほど古く、そしてこれほど新しい美しさよ!晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは!晩(おそ)かった!
【御言葉のご謙遜】
この愛の玄義がどれほど深いかということは、主のご謙遜を見るとさらに理解が深まります。
アダムはつまり人間は、傲慢によって罪を犯しました。ですから、天主の御言葉は謙遜によって私たちの罪を、借金を、全部支払おうとします。ですから御子は、どのようにして人間になるか、どのようにしてお生まれになるかも、どのようにして御生活するかも、謙遜の極みを行おうとしています。
私たち人間は、高い地位や、輝かしい声明、人々の注目を浴びるようなことを好んでいます。しかし、天主御子は、忘れ去られたような目立たない御生活を選ばれました。この世の一時的な栄光や過ぎ去る称賛をまったく軽蔑しました。そうではなくて、天主御父の本当の栄光をもとめました。主は、肉に従うのではなく、正義に従って判断されました。Vos secundum carnem judicatis ; (…) si judico ego, judicium meum verum est. Joan. (ヨハネ8:15, 16.) それに引き換え、私たちはともすると見かけや自己愛によって判断してしまいます。
御托身の玄義は私たちに、天主は、御子イエズス様は、私たちを愛するために何を好まれたのか、何を選ばれたのか、どんなことがイエズス様の聖心に適うのかということを私たちに教えています。
イエズス・キリストはいったい何をなさったのでしょうか。何をお好みになったのでしょうか。それにひきかえいったい私の行動の動機はいったい何なのでしょうか。
もっと多くのものを得たい、もっと美味しいものを食べてもっと飲んでもっと楽しんで、もっとやりたい放題に好き勝手をしたいという自己愛な行動の動機によって、今まで私たちは生きてきたのでしょうか?
それとも、私たちは、他の人が私のことを何というかなぁということを気にして恐れて地位を失うのではないか、あるいは利益を失うのではないか、あるいは軽蔑されるのではないか、ということを怖れて、馬鹿にされるんじゃないかということを怖れて、体裁のことだけを怖れて、生きてきたのでしょうか。
それとも、私たちは、私たちを愛するために人となった永遠のみ言葉を、この智恵がお望みになることを果たしたい、イエズス様をお喜ばせしたい、イエズス様だけを愛したい、主の御旨を果たしたい、イエズス様の真似をしたい、イエズス様は私をこんなにも愛してくださったので私も愛をして返したい、愛したい、愛するイエズス様がこんなにも屈辱を受けているなら、どうして私が屈辱を怖れることができるだろうか、という愛による動機だったのでしょうか。
【御言葉は無のようになられる】
天主の御言葉は、人間としてマリア様の御胎内に宿ろうとします。たとえマリア様の御体が御心が、どれほど清かったとしても、どれほど準備されたとしても、永遠の昔からマリア様が準備されたとしても、聖寵に満ちていた方だとしても、マリア様は被造物です。天主・創造主が宿るその御稜威にとっては、卑しい場所にすぎません。しかし私たちを愛するがために、そこに喜んで宿ろうとされました。
主は言われます。「まことに、私はいう。あなたたちが、子どものように立ちかえらないなら、天の国には、はいれないだろう。だから、だれでも、この子どものようにへりくだる人が、天の国でいちばん偉い人である。」(マテオ18:3)「私は柔和で心の謙遜なものであるから私にならえ。Discite à me quia mitis sum et humilis corde. (マテオ11:29)
ではご托身の玄義・御告げの玄義を黙想しながら、イエズス様の無限の愛、そしてその無限の愛を表明するご謙遜、それを一緒に黙想しながらこのミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。