ユダと聖ペトロの裏切りを黙想し痛悔の恵みをこい求める

ソース: FSSPX Japan

2021年3月7日  四旬節第三主日

トマス小野田神父  説教

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2021年3月7日、四旬節第3主日です。一緒に今日の福音を黙想いたしましょう。

四旬節第1主日では、私たちの主が悪魔の誘惑を受けてそれに打ち勝ったことを黙想しました。今日は、その発展です。私たちの霊魂がまた罪に落ちてしまう危険について警告しています。

1:私たちに迫る危険

今日の福音では、悪魔につかれて唖(おし)になった男は、イエズス・キリストから悪魔を追い出してもらい、癒されます。言葉が戻りました。私たちも洗礼を受ける時、荘厳に悪魔を棄てること、悪魔の業とその栄華を棄てることを約束しました。私たちの主も言う通り悪魔は最初から嘘つきで人殺し(ヨハネ8:44)だからです。悪魔に対して打ち勝つ方法は、カトリック教会の聖伝の教えによれば、断食と祈りと施しです。

私たちの主は、今日、悪魔は霊魂から追い出されても、イエズス・キリストが贖った霊魂たちに害を与えようと戻ってくると警告します。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、『私が出てきた元の家に帰ろう』といい、帰ってくる」。

しかし悪魔は、自分だけで戻るのではなく「自分より悪いほかの七つの霊をつれて行き、帰ってきてそこに住む」のです。そこで、浄められた霊魂は警戒していなければなりません。天主の武器で防御されていなければなりません。悪魔に抵抗するために武装していないのを見ると、哀れな霊魂は悪魔のグループから攻撃を受けて、この霊魂の「後(のち)の状態は前よりも悪く」なってしまいます。

憐みの主であるイエズス・キリストは、私たちの罪を限度なく赦してくださいます。主の憐みの恵みを受けた何十万、何百万の霊魂たちは全て、堅忍して、警戒するのでしょうか?

それとも、枝の主日にイエズスを歓迎したにもかかわらず、数日後の聖金曜日にはイエズス・キリストを十字架につけよと叫んでしまうのでしょうか?

再び倒れてしまわないように警戒する恵みをこい求めましょう。堅忍の恵みを求めましょう。「私といっしょにいない人は私の敵である」と主は言われます。「警戒して祈れ」とも言われます。ですから教会は私たちにこう祈らせます。「私の両目は常に主に向けられている」。「主よ、御身にわが霊魂をあげ奉る」(入祭文)。「全能の天主よ、へりくだるわれらをまもるために、御稜威の右手を伸ばし給え」(集祷文)。

2:ユダ・イスカリオトの場合

ユダ・イスカリオトは、私たちの主から特別の愛と恵みを受けたにもかかわらず、警戒を怠ってしまった霊魂の一つです。ユダは主を裏切ってしまいました。彼は、武装した人々を連れて友情と愛の印である接吻をもって主にあいさつします。主は、あくまでも優しく、ユダのことを「友よ」(マテオ26:50)と呼びます。「ユダ、あなたはくちづけをして人の子をうらぎるのか?」(ルカ22:48)

心を打ち明けた友から裏切られるのは、イエズスの聖心にとってどれだけ辛い苦々しいことだったことでしょうか。

主は、どこまでも赦そうとします。もしもユダがその恵みを受け取ろうと望むのならいつでも回心の恵みを与えます!優しさと憐みに満ちた主に誰が信頼しないことがあり得るでしょうか?裏切り者の使徒が、イエズスの聖心の愛と憐みの深さ・広さ・高さを少しでも垣間見ることができたなら!

その後「裏切り者のユダは、イエズスへの判決をきいて後悔し、司祭長たちと長老たちに、あの30枚の銀貨をかえして、「私は無罪の血を売る罪を犯した!」と叫びます」(マテオ27:4)。

まさかこのようなことになるとはユダは思っていなかったのでしょう。自分の犯罪の大きさに気が付きます。

共犯者どもは冷たく「それがわれわれとなんのかかわりがある?お前自身の事ではないか!」と答えました。ユダはこれ以上の何を彼らから期待できたでしょうか?彼らはユダを慰めることも助けることもできません。この言葉は、ユダを絶望に追いやるだけでした。もしも可哀そうなユダが、私たちを愛するイエズスの聖心のことを知っていたなら、憐みの母である聖母のことを知っていたなら!彼らではなく、イエズスのもとに、マリア様のもとに駆け付けたならば、赦しを得るのは確実だったのに!唖の悪魔に憑かれたかのようです。

憐れな霊魂!ユダは絶望し、手に持っていた銀貨を神殿に投げすてて立ち去り、自分の霊魂の破滅を確実なものにしてしまいました。ユダは罪を犯す前には天主の正義を忘れ、不幸にして罪を犯してしまった後は天主の憐みを忘れてしまったからです。

ユダがイエズスの聖心の憐みに信頼しなかったことは、絶望してしまったことは、聖心を深く悲しませました。イエズスは、ユダの霊魂を愛していました。イエズスは全ての罪人を愛しておられますから。イエズスは、ユダを救うために、ユダを赦すために、御自分の尊き血潮を流し命を与えようとするところでした。

しかし、それを待たず、ユダは永遠の滅びへと行ってしまいました。それを見た私たちの主はどれほど悲しんだことでしょうか。イエズスが全てを苦しむ目的は、私たちの救霊だからです。もしも私たちがイエズスの聖心の友なら、霊魂が失われたと知る時、何を感じるでしょうか?あたかも自分のことのように思うでしょうか?イエズスの聖心をお慰めしようと思うでしょうか?

イエズスさま!御身の聖心の愛を私にしみとおらせてください。私の心の奥底に、痛悔の念と罪に泣く恵みを与えてください。

3:聖ペトロの場合

ペトロは、主を3回否みます。誓って主を知らないとさえ言いました。その誓いをしたまさにその時、虐待を受けながら主が、兵士やしもべたちに引き連れられて、ペトロのいた中庭を通り過ぎました。この虐待よりも主にとってさらに大きな悲しみは、ペトロの否みでした、主から特別に選ばれて愛を受けたペトロの否みでした。

主は、ペトロに視線を向けます。2人の目は合います。主の視線はペトロの霊魂を貫きます。ペトロはイエズスの言った言葉を思い起こし、悲しくなります。彼はイエズスの優しさ、憐みふかい愛を思い出しました。使徒の頭は、その場を離れ、熱い涙を流します。泣いて、泣いて、もう涙が出ない程でした。

ペトロは、イエズスの聖心を傷つけてしまいました。主を慰めなければならないその時、主を否んだのですから。その後、一生涯、彼は深い痛悔を持ち続けます。自分の罪を償おうという生涯を送ります。私は、ただペトロが泣いているのを見ているだけで、ペトロの真似をしなくてもよいのでしょうか?私はペトロのように主を悲しませたことがないのでしょうか?

聖ペトロよ、私にも罪の痛悔と熱い涙を流す恵みを主に祈ってください。

イエズスの聖心よ、御身の殴られて腫れた顔、つばきと汚物でまみれたお姿、縛られた両手で、ペトロを見つめたように、私にも憐みの眼を注いでください。私のこころも、ペトロのように砕かれ、痛悔の念と愛に満たされますように。心からの回心の恵みをお与えください。無限の憐みの眼で私をどうぞご覧ください。

4:遷善の決心

では、黙想の最後に、遷善の決心を立てましょう。

聖パウロは私たちにこう勧めています。

「天主から愛される子供として、私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩む」ことができるように祈りましょう。

「キリストの模範に従って、愛のうちに歩む」とは、つまり、警戒して祈り、常にイエズスとともにいることです。「淫行、いろいろな穢れ、情欲を口にさえもせず、また、汚行、愚かな話、下品な冗談もいわない」ことです。

悔悛の秘跡

悪魔につかれて唖(おし)となった男は、自分の罪を告白しないようにさせる悪魔、天主に祈り助けを求めないようにさせる汚れた霊に影響を受けた人のイメージに重なります。四旬節という恵みの時の間、多くの人びとが罪の告白をして悔悛の秘跡による赦しの恵みが与えられるように、祈りましょう。

聖母と聖ヨゼフ

聖母に祈りましょう。私たちが主の道を歩み続けることができますように。もしも不幸にして罪を犯してしまった場合には、すぐに主のもとに行くことができますように。

最後に聖ヨゼフに祈りましょう。全カトリック教会の守護者であり悪魔の畏れである聖ヨゼフが、私たちを守ってくださいますように。特に、カトリック教会の聖職者たちが、イエズスの聖心の憐み深い愛の神秘の中に深く入り、主が燃えるような救霊の熱望をお持ちであることをますます理解しますように。

「私といっしょにいない人は私の敵である」。