御受難の主日の説教―十字架の審判
十字架
御受難の主日の説教―十字架の審判
2025年4月6日 大阪 イヴォン・フィルベン神父
御受難の主日の説教―十字架の審判
親愛なる信者の皆さま、
今日の主日に、十字架はベールで覆われます。これは、御受難節の始まりのしるしです。四旬節とは全く異なる時期であり、この時期は復活の主日まで続きます。四旬節の間、私たちは自分の回心に集中しました。つまり、天主に近づけるように、自分を改め、回心し、自分の欠点を正すためにすべきことに集中したのです。遷善の決心を立て、いつもより活発な時期でした。もちろん、その決心は復活の主日まで守らなければなりません。しかし、強調すべきことは変わります。中心となるのは、私たちがすることではなく、私たちの主がされること、また私たちの主にしかできないこと、つまり御受難なのです。
この時期を、最も具体的に表しているのは、この日から使われる十字架のベールです。このベールには、いくつか意味があります。ごく簡単に言えば、十字架から荘厳にベールが外される聖金曜日の十字架顕示の準備をしているということです。御聖堂や家庭のいたるところで十字架を見慣れすぎていますから、私たちに必要なのは、十字架をベールで覆い、十字架から荘厳にベールが外されるときに、その意味をもっと認識することなのです。
しかし、十字架のベールには、さらに深い意味があります。その意味とは、十字架は審判であり、十字架のベールが外されるとき、私たちは審判に備えなければならない、ということを示すことです。聖ヨハネによる福音書の、御受難の冒頭で、イエズスが、「今、この世の審判が行われる」(12章31節)と宣言しておられるように、十字架は審判なのです。
なぜ十字架は審判なのでしょうか。
1)信じない者に対する滅びの宣告の審判
一方で、十字架は滅びの宣告の審判です。この滅びの宣告は恐ろしいものであり、この主日の福音で、私たちの主によって、エルザレムのユダヤ人たちに、こう明らかにされました。「だから、あなたたちは天主からの者ではないから、私の言葉を聞こうとしない」(8章47節)。これは、聖ヨハネによる福音書の中で、私たちの主が何度も繰り返しておられるメッセージです。滅びの宣告の審判は、私たちの主によって直接下されるのではなく、主の前で、決定を下し、自分を裁くのは、人間なのです。人間の心はさらけ出され、もはや隠れることはできません。ですから、この福音では、エルザレムのユダヤ人たちの邪悪さが白日の下にさらされています。たとえ彼らが、非の打ちどころのない、敬虔な律法の実践者であったとしてもです。彼らの心の闇が明らかにされ、私たちの主は、彼らにはっきりと、こう告げられます。「あなたたちは、天主からの者ではない」。選ばれた民のエリートであり、天主のお気に入りの子であると主張していた人々にとっては、恐ろしい宣告です。彼らは、私たちの主を拒み、主に石を投げようとし(59節)、十字架上の主をあざけるのですから、彼らは天主からの者ではなく、彼らの陣営、つまり悪魔の陣営を選んだ者なのです。
私たちの主は、世に滅びの宣告をするために来られたのではありません。「天主が御子を世に送られたのは、世を裁くためではなく、彼によって世を救うためである」(ヨハネ3章17節)。しかし、多くの人は、彼を拒むことで自らに滅びの宣告をするのです。確認しておきましょう。すべての人は、はっきりと知っていようがいまいが、イエズス・キリストの十字架によって裁かれるのです。
2)十字架は正しい人を守る
しかし、十字架は恐ろしい審判であるだけはありません。信者にとっては、最高の祝福なのです。聖金曜日に十字架のベールを外すとき、それは十字架を嘆くためではなく、栄光と勝利に満ちた十字架として称賛するためです。「見よ、世の救いがかかり給うた十字架の木を」と、司祭は三度歌いながら、十字架のベールを外します。この十字架は、ある人々にとっては滅びの宣告ですが、別の人々にとっては救いなのです。
教父たちによる注解のついたテキストにある一つの要素が、このことを表しています。ユダヤ人たちは、私たちの主をサマリア人であるとして、こう非難します。「『あなたはサマリア人で、悪魔につかれている』と、私たちが言ったのは、もっともなことだった」(8章48節)。サマリア人はユダヤ人の同族ですが、異質な信仰を持っていて、エルザレムの人々から嫌われています。私たちの主が、この民族の一員ではないのははっきりしていますが、主はこの非難を、わざわざ否定はなさいません。それは明らかに完全な偽りなのですが、主は、悪魔につかれているという、その非難の後半部分を否定されるだけなのです。「私は悪魔につかれてはいない。私は私の父を尊んでいる」(8章49節)。教父たちは、私たちの主が、このサマリア人という呼称を、自らがその一員ではない民族の名前として取り上げたのではなく、「サマリア人」という言葉の語源的な意味から取り上げたのだと言って、このことを説明しています。この言葉は、「守る」という意味の語源である「ショムロンまたはショメル」に由来します。私たちの主は、ご自分の十字架で私たちを守る守護者であるという意味で、実際に「サマリア人」なのです。
実際、十字架は私たちを守り、保護します。十字架は、純然たる滅びの宣告なのではなく、楽園と天の国への入り口なのです。「私の言葉を守るなら、永遠に死を見ることはない」(8章51節)。十字架は、私たちが決して死を見ることがないようにしてくれます。私たちの主が言われたのは、ご自分の十字架を受け入れる者が死なないという意味ではなく、永遠の死、つまり天主の至福直観を決定的に失うという死、すなわち地獄から逃れられるという意味です。イエズス・キリストの十字架を受け入れるなら、私たちは、永遠の死から守られます。私たちは実際に死を味わいますが、いったんこの試練が終われば、天主の至福直観に入り、永遠の死から逃れられるのです。
親愛なる信者の皆さま、福音の最後で、「イエズスは身を隠して、神殿から出て行かれ」(8章59節)ました。私たちは、ユダヤ人たちのように、もうイエズスを見ることはできません。この理由で、十字架はベールで隠されています。私たちは、十字架とイエズスの御像を、聖金曜日の十字架顕示で再び見ることになります。しかし、私たちは、そのために準備しなければなりません。私たちが、十字架の前で罪を認めるのを拒むなら、この十字架は私たちの滅びの宣告となるかもしれませんが、謙虚な心を持つなら、私たちの最大の安全の保証、永遠の命への保証となるかもしれないのです。それは、私たちがうまく準備をするかどうかにかかっているのです。