御受難の第一の主日の説教―書簡について(2025年、大宮)

ソース: FSSPX Japan

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御受難の第一の主日の説教―書簡について(2025年、大宮)

2025年4月6日 ブノワ・ワリエ神父

御受難の第一主日 書簡について

親愛なる兄弟の皆さま、

聖パウロが、キリストのいけにえを、旧約のいけにえと比較している、今日の書簡を見てみましょう。

贖いの日の大司祭と同じように、キリストは、幕屋を通って至聖所の中に入られました。キリストがただ一度だけ入られたこの聖所は、天の聖所であり、だからこそ、「さらに偉大でさらに完全なもの」であり、「人の手で作られなかったもの」なのです。キリストは、天を通って御父の御顔の前に出られてから、「御父の右に座しておられる」のです。

旧約では、ユダヤ人は、いけにえの動物の血によって、典礼にあずかれなくなる律法上の汚れを清められました。しかし、キリストの御血は、人間の罪を清めるのですから、もっと優れたものです。実際、キリストは御血を捧げることで、贖いを成し遂げられました。

しかし、司祭が至聖所に入るときに毎年流される動物の血とは異なり、イエズスは、「ただ一度だけで」永遠の贖いを獲得されたのです。

キリストは「新約の仲介者」であると述べられています。その契約は、永遠の命を与えることができるのですから、「より良い契約」です。そしてキリストは、贖いのいけにえであると同時に、いけにえを捧げる者であるという点で、「仲介者」なのです。キリストのいけにえにおいては、キリストは、司祭であるとともに、いけにえでもあるのです。

ギリシア語の「契約」は、「遺言」と訳すこともできます。文脈や、シナイ山の契約との比較により、契約あるいは盟約という考え方が示唆されます。イスラエルの民との契約は、天主と選ばれた民との同盟であったからです。しかし、これは「遺言」と理解することもできます。実際、聖パウロは、「仲介者」と「遺言者」という言葉を、同じように使っています。キリストの死によって、私たちは、「約束された永遠の遺産を受け継ぐ」ように召されているのです。私たちの贖いのわざは成し遂げられました。私たちは今や、天主の子なのです。なぜなら、イエズスが私たちのために死んでくださり、私たちは、イエズスの死という身代金で買い取られたからです。「あなたたちは、高値で買い取られたのである」(コリント前書6章20節)。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

聖トマスが説明しているように、「キリストは、聖霊の影響と促しにより、すなわち、天主への愛と隣人への愛から、御血を流されたのである」。

「あなたたちは、キリスト・イエズスの心を自分の心とせよ」(フィリッピ2章5節)。教皇ピオ十二世は、信者に対してこう呼びかけています。「人間的に可能な限り、天主なる贖い主がご自分をいけにえとして捧げたときに持っておられたのと同じ心構えを持つのです。すなわち、へりくだりの心で、天主の至高の御稜威に対して、礼拝、敬意、賛美、感謝を捧げなければなりません。さらに、このことは、信者が、ある程度いけにえの性格を引き受け、福音が命じているように自己を否定し、自由にかつ自分の意志で苦行を行い、各自が自分の罪を憎んで償うという意味なのです」(回勅「メディアトール・デイ」80、81番)。アーメン。