御身無くしては、私たちが御身に嘉されることはできない、何故なら全ては天主に由来するから。
2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者巡回聖堂
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年10月1日、聖霊降臨後第18主日です。
今日の集祷文にはこうあります。tibi sine te placere non possumus.
御身無くしては、私たちが御身に嘉されることはできない、と。
今日はこの意味を一緒に黙想しましょう。そして私たちは、全て天主に依存している、全てが天主に由来しているということを黙想しましょう。
【1:御身無くしては、私たちが御身に嘉されることはできない、何故なら全ては天主に由来するから。だから、私たちは天主に絶対的に依存している】
人間は天主によって創造された被造物です。私たちが今こうして存在しているのも、生きているのも、活動しているのも、すべては天主からのこの宇宙の創造主からの贈り物であって賜物です。
私たちの周りの全ての被造物は、太陽も空気も水も食べ物も、またいま電車が動いているのも、電気が通っているのも、これは天主の私たちへの愛の結果であって効果です。全ての被造物は天主の完全さとその良さ(善性)を反映しています。私たちにとって重要性がないように思われるような、たとえば、深海に潜む微生物も、野原に咲いている名前のないようなちっぽけなお花も、すべて私たちのために私たちを愛するために天主が造られました。
ですから私たちを取り巻いているものはみな、たとえ目に見えないものであっても、天使たちでさえも、天主の愛の印です。天主の愛を私たちに伝えているメッセンジャーです。ですから天主と私たちの間には、客観的で絶対的な依存関係があります。私たちに起こる出来事さえもそうです。たとえ私たち気難しい人にあったとしても、あるいは辛い十字架に出会ったとしても、それも私たちに与えられた天主の愛の結果です。
私たち人間は、天主の肖像と似姿によって造られました。肖像によって造られたというのは、天主のように真理を認識する知性があって、そして善を欲するという意志を持っているからです。自由に選択することができる意志を持っています。ですから私たちは、この与えられた能力を使って、天主からすべて受けたということを認めて祈り天主に礼拝を捧げなければなりません。
【2:二つの選択肢】
この現実を前にして、私たちには二つの選択肢があります。
(1)一つは、素直にありのままを認めて、全ては天主に由来しているということを感謝して受け止めることです。私たちは天主に依って愛されて造られた、天主からすべてを受けた、と認めることです。ですから、天主が全てであって、私たちは何でもありません。これが本当の謙遜です。本当の謙遜からこのような結果がわかります。私たちは天主のために天主の御旨に従って、つまり天主の聖なる意志に従って被造物を使うということです。言い換えると、すべての被造物は天主のためにのみ使うということです。被造物を道具として、天主を目的とすることです。そうすることによって、私たちは、天主に嘉されます。ますます聖なる者となります。祝福を受けていきます。これが、私たちが死の瞬間に理解することです。天国の天使たちや諸聖人たちがいま目の当たりにしている現実です。すべてが天主からきて、それを天主にお返しするということです。
(2)選択肢はもうひとつあります。それは全てが天主から由来しているということを認めないということです。あたかも自分に依る(帰属している)かのように思いあがって自分の思いの通りに行動する、つまり、自分をあるいは被造物を究極の目的として愛してしまうという態度です。つまり造られたものにあまりにも愛着してしまって、天主よりも被造物を愛してしまうというよこしまな愛のために、罪を犯してしまうことです。
もしかしたら、私が愛してしまっているこの被造物を失ってしまうのではないか、名誉を失ってしまうんではないか、あるいは財産を失ってしまうんじゃないか、地位を失ってしまうんではないかと恐れて、罪を犯すことです。あるいは、たとえ全ては天主から由来しているとわかっていたとしても、被造物を天主への愛の道具とはせずに、その被造物を使って天主に逆らってしまうことです。こうやって私たちは天主の敵になってしまいます。被造物の奴隷に成り下がってしまいます。
ところで 被造物は私たちに本当の幸せを与えることができません。天主だけが、私たちを造ってくださった無限の善だけが、本当の幸福に私たちを導きます。しかし被造物は天主に由来する何らかの良いもの(善や美しさや快さ)を持っているので、私たちはそれに目を奪われてしまうのです。つまり言い換えると、慰めを与える天主よりも、天主の慰めに愛着してしまうのです。
悪魔の頭ルチフェルがそうでした。もともとは天主から造られた最高の光の天使でした。しかし自分の素晴らしさを天主よりも愛してしまったのです。「傲慢」です。天主から全ての良いものを受けていながら、その優れた能力を使って天主に奉仕することを拒否したのです。自分の優秀さをあまりにも愛してそれに愛着して、天主に仕えるのを拒んだのです。私は従わない、non serviam ! と叫びました。
その時、ある一位の大天使が雄たけびをあげました。‟ミ・カ・エル!誰が・天主に・しくものあるぞ!” 大天使聖ミカエルです。私たちは全てを天主から受けた被造物の分際であるから、天主から受けたものを使って主に仕えるべきだ!と意志を表明しました。誰がいったい天主に似ているのか!大天使聖ミカエルは、天主を悲しませることだけを畏れました。
聖アウグスチヌスはこの二つの選択についてこのように言っています。
「彼らは二つの愛で二つの国を作った。すなわち天主を軽蔑するまでの自己愛は地上の国を作り、自分を軽蔑するまでの天主の愛は天上の国を作った。」と。【Fecerunt itaque civitates duas amores duo, terrenam scilicet amor sui usque ad contemptum Dei, caelestem vero amor Dei usque ad contemptum sui.】
【3:御身無くしては、私たちが御身に嘉されることはできない、何故ならイエズス・キリストによって贖われたから。だから、私たちはイエズス・キリストに絶対的に依存している】
私たち人間は天主の肖像と似姿によって造られた、と先ほど申しましたが、では天主の似姿(similitudo Dei)によって造られたとはどういうことでしょうか。天主の似姿というのは、天主の超自然の愛の状態で造られたということです。成聖の聖寵の状態において造られたということです。つまり、天主の超自然の命に与って、天主の子どもとして友人として天主に嘉されることができる状態で、私たちは造られた、原初に創造された、ということです。
霊魂が成聖の聖寵の状態にあるということは、被造物が受けることの(天主も含めて人間もそうです)最高で最大の贈り物です。そしてこの成聖の状態にあれば、私たちが天主を愛することができ、愛すれば愛するほど、天主の愛により強烈に参与し、成聖の聖寵は強化され増大します。私たちがこの世で生きている間はこの成聖の聖寵をますます強めていくことができます。この成聖の聖寵がいや増せばいや増すほど天主への愛が強まることですから、私たちの天国での栄光も幸福も増大します。しかし、たった一つでも一回でも大罪を犯してしまうなら、これはすべて失われてしまいます。私たちはもはや天主に嘉されることはできなくなってしまいます。
しかし、イエズス・キリストは十字架を通して、十字架を通してのみ、この成聖の状態を回復することができるようにしてくださりました。また、もう一度天主に嘉されることができるようにしてくださいました。なぜかというと、天主御子が人間となって、十字架の死に至るまで天主御父の御旨に従順だったからです。私たちもイエズス・キリストと一致した十字架を通してのみ、本当の成聖の聖寵を回復させることができ、本当の平和を受けることができます。
聖ペトロは宣言しました。「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。
ですから、イエズス・キリスト無くしては、私たちは天主に嘉されることはできないのです。この深い神秘については、わたしたちはロザリオの十五の玄義を黙想することによって、ますます深く理解することができます。
【4:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。
今年は幼きイエズスの聖テレジアの生誕150周年(1873 - 1897)です。聖女は、全ては天主からのお恵みだと深く理解していました。彼女はよく言っていました、Tout est grâce.「すべては聖寵である。」
私たちが善をすることができるのも、信仰も、希望を持っているのも、愛徳を持っているのも、すべては天主から受けたお恵みである。だから、全てを天主にお捧げしました。聖女はこう祈りました。
「主は、その御ひとり子を、わが救い主、わが天配として与え給いしほど、われを愛し給いたれば、御子のご功徳の限りなき宝はことごとくわがものなり。されば、われは喜びてこれを主に捧げ奉る。」
聖女は自分の役割・使命は「愛」だと確信して、教会の中で愛となろう、と思いました。そして完全な愛のうちに生きるために、主のあわれみ深き愛に、自分の身をまったく捧げ尽くしました。ぜひ幼きイエズスの聖テレジアに取り次ぎを願いましょう。
主の御憐れみの御業が私たちのこころを導いてくださいますように。私たちが主の助けなくしては、天主に嘉されることができないことを深く理解することができますように。
【Dirigat corda nostra, quaesumus, Domine, Tuae miserationis operatio : quia Tibi sine Te placere non possumus.】
最後に、主の助け無くして天主に嘉されることはないということを、一番深く理解してこれを実践していたのは、マリア様です。特にマリア様はロザリオの玄義を通して私たちにそのことを教えてくれます。十月はロザリオの月ですから、ぜひ聖母のロザリオを通してこの玄義を深めていきましょう。聖母の御取り次ぎを祈りましょう。
主の憐れみの御業が私たちのこころを導き給わんことを、なぜならば、御身無くしては、御身に嘉されることができぬからなり。
【Dirigat corda nostra, quaesumus, Domine, Tuae miserationis operatio : quia Tibi sine Te placere non possumus.】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。