御聖体の秘跡の前兆

ソース: FSSPX Japan

2025年3月30日 四旬節第四主日(レターレの主日)

トマス小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は福音の中で、イエズス様がパンの増加の奇跡を行いました。これは、来たるべき聖木曜日になさる、御聖体の秘蹟の準備です。

しかしイエズス様は、ただ単に、この奇跡を起こすことによって御聖体の準備をしたばかりではありません。既に旧約の時代から、御聖体のための予告がなされていました。

今日は、そのことを一緒に黙想いたしましょう。

 

【前兆】

「前兆」について考えてみます。今日の書簡で聖パウロは、アブラハムに二人の子(イスマエルとイサアク)がいたことは前兆だったと言います。

前兆とは、「旧約のある物事・ある出来事が、新約の何か別のことを予告している」ということです。聖書に書かれていることは、もちろん文字通りの意味がありますが、それと同時に霊的な意味があります。

旧約の出来事や律法、あるいは人物や物事それは、文字通りの意味があると同時に、新約の出来事や新約の新しい掟(法)、あるいはイエズス・キリスト、救い主などを意味する前兆、言い換えると、「新約の実体を写し出す影(影法師)」でもありました。

こうすることによって、旧約の歴史や過去の逸話をよく知っていたユダヤ人たちが、予告された神秘を深く理解することができるように、天主が計らってくださったのです。

 

【パンのしるし:モーゼ】

ではいったい、イエズス様は、天主は、どうやって御聖体を予告して、私たちが本当に御聖体のことを理解することができるように準備されたのでしょうか?

それが「パンのしるし」です。モーゼは、砂漠で40日間断食して、シナイ山で十戒を受けました。このモーゼが、砂漠でパンのしるしを行いました。皆さんもよく知っている通り、40年の間、イスラエルの民を天からのパン(マンナ)で養い、荒れ野で岩から水を出してイスラエルの民に飲ませました。

このマンナは、教父たちが断言するように、また教会が宣言するように「御聖体の秘蹟の前兆」でした。イエズス様ご自身も、そのことについて語っています。

どんなことが起こったかというと、モーゼの指導の下に、イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放され、エジプトから脱出します。

その時、いくらかの食料のたくわえはありました。しかし、約束の地に到達するまでは、40年の長い旅をしなければなりませんでしたから、たくわえはあっという間に底をついてしまいました。ですから、イスラエルの民は飢え渇きを感じます。そこで彼らは、天主の約束を前にして不平さえ漏らしてしまいました。

「腹が減った、のどが渇いた!」

そしてついに彼らは後悔して、エジプトで奴隷だった方が良かった、何故かというと、腹いっぱい食べることができたと、ぶつぶつ文句を言い反抗しました。

この反乱を前にして、モーゼは主に祈りました。すると、主はなんと寛大なことに、天からパンを降らしてあげようと言うのです。

その日の夕方には、お前たちは肉を食べるだろう、そして朝、食べ物を私は与えると。実際その通りになりました。

その日の夕暮れ、たくさんのウズラが飛んできて、彼らは思う存分ウズラの肉を食べます。その翌日には、やはり預言の通り、荒れ野に不思議な食べ物が現れました。霜のような、小さい粒上の細かいものが見えたのです。それを見て«Manhu»「あれは何だろう」と言い合いました。あまりにも不思議で神秘的で、それが何か分からなかったのです。すると、モーゼは彼らに説明します。

「これは主がおまえたちの食べ物としてお与えくださるパンである。各自が食べられ得る分だけ、一人一ゴメルずつ集めよ。」

一ゴメルとは、約四リットルぐらいの量です。かなり多い量なのですけれども、実際、人々がどれだけ多く拾い集めても、あるいは少なく拾い集めても、ゴメルで計ってみると、余らずしかも不足することなく、各自が食べられる分だけ拾い集めることができるようになっていました。非常に不思議な食べ物でした。

モーゼは、マンナを翌日まで取っておいてはいけないと言いました。でも中には、モーゼの命令に逆らって、明日楽をしようとか、もっとたくさん食べようとか思って保存する人たちもいました。

すると、翌日になるとマンナは腐り、ウジ虫が湧いて悪臭を放ち、とても食べられず捨ててしまうことになってしまいました。

でも、とても不思議なことに、安息日の前日には、安息日の分も含めて二日分が蓄えられ、保存もできました。安息日になっても、マンナは腐りませんでした。そして、安息日にマンナを探しにいったとしても、どこにもマンナは見つかりません。後にイエズス様は、このことを説明するかのように「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」と祈れと教えてくださることでしょう。

こうして40年の間、毎日、マンナの奇跡が起こりました。毎日、イスラエルの民は「これは何だろう」というものを、「神秘」を食べていたのです。

しかし、このマンナは、約束の地に入ると途端に消えて、もうそれが不必要になりました。モーゼは、その前にアロンに命じ、金の器にマンナを入れて、それを契約の櫃に保存するようにさせました。

マンナは、イエズス様のおん体、御聖体の前兆でしたけれども、契約の櫃はマリア様の前兆でもありました。また、新約の祭壇の前兆でもあります。

 

【パンのしるし:エリア】

パンのしるしは、実は他にもあります。預言者エリアのしるしです。

どんなことが起こったかというと、イスラエル王アカブは非常に悪い王でした。残酷だったというよりも、もっと悪かったのです。何故かというと、偶像崇拝者のエザベルという女性を妻にして、異教のバアルの神にひれ伏していたからです。そして、アカブはヤーウェを捨ててしまいました。

そこで、預言者エリアは、王アカブに言って、偶像バアルの司祭・預言者たち450人を集めて挑戦をします。エリアの提案はこうです。

「私たちは、若い雄の牛を一頭、それぞれ火のついていない薪の上に載せて、自分たちの主の名前を呼ぼう、お前たちはバアル、私は真のヤーウェに祈る。そして火を送って答えてくれる方が本当の天主だ」と。

そして「お前たちは数が多いから、バアルの司祭たち、お前たちが先にやれ」と言うと、バアルの司祭・預言者たちは、朝から昼まで騒ぎ踊り、たわごとを叫びたて続けます。しかし、何も起こりませんでした。

エリアは「ちょっとやり方が足りないんじゃないか、さぁさぁさぁさぁ!」

一生懸命やるのですけれども、何も起こりません。

何時間もやった後に、今度はエリアの番です。エリアは、倒されていた主の祭壇を建て直して、祭壇の周りに溝を掘って、薪を積んで、雄牛を薪の上に起きます。

それから、「水差し四杯の水を、いけにえと薪の上にかけよ」と人々に命じて、三回降り注ぎます。祭壇は、水でびしょびしょになります。そして、掘った溝にも水がいっぱい溜まります。

それからエリアは祈ります、「アブラハム、イサアク、イスラエルの天主なる主よ」そして「このいけにえを受け給え」と言うと、いきなり天から火が降り注いで、いけにえはあっという間に燃え尽くされ、燔祭となって、そして、置いてあったびしょびしょの薪も、燃え尽きて灰になってしまうのです。また、水が溜まっていた溝は、からからに乾いてしまうのです。

そこでエリアは、王にバアルの預言者たちを捕らえさせて死刑にします。

アカブが妻のエザベルに事の次第を告げると、エザベルは非常に怒り、エリアの殺害を計画し、誓います。

すると、エリアは荒れ野の方に逃げていって、弱気になりもう駄目だと、さすがのエリアも、これでもう万事休すだと弱音を吐きます。そして、ついに疲れて眠ってしまいます。すると、一位の天使が現れてエリアを起こし、石の上で焼かれたパン、そして水を授けて「食べよ」と。それを食べるとまた眠り、天使はもう一回起こしてパンと水を与え、その後、エリアは40日間何も食べずに、ホレブの山まで歩き続けます。

 

【パンの増加の奇跡】

ではこれは、主の今日の御聖体の秘蹟の準備と、どのように関係があるのでしょうか?

イエズス様は、公生活の最初に、40日間断食をされたことがありました。

モーゼとエリアがやったように、似たようなことをされます。

その時には悪魔から試みを受けて、石をパンに変えるようにいざなわれましたが、主はパンの奇跡をすることを拒みます。

「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る全てのみことばによって生きる、と書かれてある。」(マテオ44

しかし、今日の福音にあったように、イエズス様は「大麦のパン五つと魚二匹」で、およそ五千人を養います。主はパンの奇跡を行います。

これは、御聖体によって私たちを養う、一日だけではなく世の終わりまで養うことができる力を現すためでもあります。

でも、旧約のパンのしるしを、最終的に最高のやり方で成就させるべき時がきます。それが「聖木曜日」です。この聖木曜日を準備するため、今日の奇跡がなされた後に、人々にイエズス様はこう説教します。

「まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天からくだるパン、それを食べる人は死なない。天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である。」

ユダヤ人たちはこれを聞いて、«Manhu»「これは何のことだろうか」と言い合います。「どうやって、自分の肉を私たちに食べさせるのだろうか。」

弟子たちのほとんどが、「むずかしい話だ、そんな話に耳がかせようか」と不平を言います。「何のことだろう」と。でも、イエズス様は更に言います。

「まことにまことに、私はいう。人の子の肉を食べず、その血をのまなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終りの日にはその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる。」

これを、聖木曜日に本当に行い、私たちが天国に来る日まで、毎日毎日、カトリック教会の祭壇の上で、私たちを養ってくださる「御聖体」です。

御聖体は、どんな小さなホスチアにも、どんな大きなホスチアにも、どんな小さなかけらにも、全ての人々にとって、全く同じイエズス・キリストがましますのです。ですから誰もが、そのホスチアの大きさにかかわらず、同じイエズス様を拝領します。ちょうどその昔、一人一ゴメル頂いたマンナのようです。

また、マンナが降り始めるその最初に一度だけ、ウズラの奇跡がありました。オリゲネスという教父によると、こう説明しています。

ウズラの肉というのはとても繊細で、ちょうど天主の御言葉が天からおりて、人間の肉体をとってこられたような、それほどの繊細なおん体の前兆であると。

ちょうど、ウズラという鳥が、遠く未知の国から、国を越え、海を越えて渡ってきたように、主も、この世の創造の夕暮れに、つまり、罪にかたくなに凝り固まり、疲れ切って古くなり、力尽きて理想もなく、情欲に燃え尽きつつあるこの世にお越しになりました。

オリゲネスの解説を続けると、主はちょうどウズラのように、なんの抵抗もせず捕まり、御自分の肉を食べ物として私たちに与え、私たちに力をつけさせます。

ウズラがそうだったように、主は、されるがまま十字架の上に死すのです。

御死去によって、主はいわば、世の夕暮れを朝に変えます。これは、人類が今まで知らなかった太陽、正義の太陽として御復活するからです。そしてイエズス様は、新しい光で全地を照らし出します。

朝です!御復活によって、キリストは新しい一日を始めます。夕暮れのない一日、主の日、永遠の偉大な一日が始まりました。

そして、この主の光に照らされて、この日の光の下だけで、私たちは本当のマンナ、新約のマンナの神秘を味わうことができます。そして、この光の下で、御聖体が思いのまま私たちに与えられるようになります。

もしも主が復活されなかったら、墓の中に閉じ込められ、主の肉体が死にとらわれたままだったとしたら、この世の終わりまで、私たちを養うことができる糧(日ごとの糧)になることはできませんでした。

ですから、主の御復活の朝のこの日、輝きにおいて、私たちは新約のマンナ、天使のパン、天からくだる命のパン、御聖体の持つ霊的な豊かさを味わい、そして理解することができるようになりました。ちょうどエリアの時代にそうだったように、ミサ聖祭、そして御聖体こそが、唯一天主に嘉されることができる、本当のいけにえです。これ以外に、いけにえはありません。私たちはその証人(あかしびと)です。それゆえ、私たちはキリストの名のために迫害を受けることでしょう。

しかし、エリアがそうだったように、本当のホレブの山である天国に私たちがたどり着くために、天使のパンである御聖体を受けて力をつけ、歩み続けなければなりません。イエズス様はこうおっしゃいます。

「私のために、あなたたちをののしり、あるいは責め、人々が、あるいは数数のざん言をいうとき、あなたたちはしあわせである。よろこびによろこべ。あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう。先人の預言者たちも、同じように迫害された。」

 

【遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

あともう聖木曜日まで、四旬節は半分になりました。

御聖体、ミサ聖祭——これは「旧約の前兆の完成」です。私たちが持っている「最高の宝」です。教会がこの世で持っている、最も素晴らしい宝のうち、最も貴重で、この世の一切の富、宝、一切の喜び、享楽、名誉や権力にもまして更に貴重な貴いものです。何故かというと、この世のものは、いつかは消えてなくなってしまいます。しかし、この貴重な宝(御聖体)は、その中に永遠の天主、永遠の御言葉イエズス・キリストがましまし、そして、私たちに永遠の命を与えてくださるからです。イエズス様は約束します。

「天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。」

私たちは、旧約のマンナという影の成就を今生きて、天国に向かって歩き続けているのです。カトリック教会の歴史はまさに、この天上のパンが、地上で増加することの連続でした。養われて生きています。この奇跡は、現代でも行われ続けています。でも、何と多くのカトリック信者が、この貴重な宝を知らずにいることでしょうか。

最後に遷善の決心として、御聖体のその偉大さ、ミサ聖祭のその神秘を深く理解する信仰をこい求めましょう。

また、マリア様にお祈りして、日本の各地で、また世界中で、この御聖体を聖なるものとして取り扱う司祭たちが、聖伝のミサ聖祭を捧げ、イエズス・キリストの御体を大切にする司祭たちが、たくさん与えられますように祈りましょう。

残る四旬節を、聖なる召命のために、そして、御聖体に対する、ますますの信心を持って過ごすことができる御恵みをこい求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。