御昇天後の主日の説教―私たちの先導者、取次者であるキリスト(2026年、大阪と名古屋)
聖三位一体
御昇天後の主日の説教―私たちの先導者、取次者であるキリスト(2026年、大阪と名古屋)
2026年5月17日 ブノワ・ワリエ神父
御昇天後の主日の説教―私たちの先導者、取次者であるキリスト(2026年、大阪と名古屋)
親愛なる兄弟の皆さま、
私たちの主イエズス・キリストが故郷に帰られた今、私たちは故郷を懐かしんで、主を切望しています。「わが心は御身に語る、私は御顔(みかお)を求めた。主よ、私は御顔を探し求める」(入祭唱)。
しかし、たとえキリストが少し目に見えなくなったとしても、私たちの手の届かない場所におられるわけではありません。主はすでにゴールラインを越えられました。それも、全人類の先駆者であり、先導者であり、「かしら」として越えられたのです。キリストは天に帰られました。これこそが、今からの私たちの目標なのです。
偉大なる天使的博士、聖トマス・アクィナスは、基本的でありながらも非常に深い意味を持つ真理を教えています。彼は、目的――目標、目的地――とは、最初は意向を持つことにあるが、最後は実行することにある、と言っています。この意味について考えてみてください。人が家を建てる前、完成した家はすでにその人の心の中に存在しています。矢を射る人が弓を引く前、標的はすでにその視界に広がっています。
私たちの人生も同じです。天国が私たちの目標です。ですから、私たちは常に天国のことを目の前に置いておかなければなりません。そして今日、主の御昇天のおかげで、私たちの目標には顔があり、名前があります。それは「父なる天主の栄光のうちに」(栄光誦)ある私たちの主イエズス・キリストです。
主は、天国で何をなさっているのでしょうか?
第一に、主は天主の右におられます。聖パウロは、ローマ人への書簡の中で、こう宣言しています。「死んで、いや、むしろ死者の中からよみがえって、天主の右におられるキリスト・イエズス」(ローマ8章34節)。
王の右とは、最高の栄誉の場所です。それは、勝者に与えられる報酬であり、征服者の場所です。そして、よく聞いてください。キリストの勝利は、私たちの勝利と関係のないものではありません。主は私たちの「かしら」として勝利し、私たちの代表として征服されたのです。そして、主が天におられるのは「私たちのために場所を準備するため」(ヨハネ14章3節)です。
第二に、主は天主の右に《座して》おられます。信経はそう述べています。ダヴィド王も、こう預言しました。「主はわが主に言われた、わが右に座せ』」(詩篇109篇1節)。今日のミサのアレルヤ唱も、こう響いています。「主はその聖なる座に就き給う」。
座している王とは、裁き、支配し、絶対的な権威をもって統治する王のことです。間違いありません。キリストはすでに今、生ける人と死せる人を、信じる人と信じない人を、裁いておられるのです。
第三に、キリストは天主の右に《立って》おられます。聖ステファノは、殉教のときに、降り注ぐ石の中で見上げて、こう叫びました。「私は天が開け、人の子が天主の右に立っておられるのを見る」(使徒行録7章56節)。
立っておられるのです。王として審判者として玉座に就いておられるお方が、私たちのために立っておられるのです。王は友を歓迎するために立っています。弁護士は弁論するために立っています。そして、キリストは取り次ぐために立っておられます。ヘブライ人への書簡に耳を傾けてください。「キリストは永遠の司祭職を保っておられるため、…彼らのために取り次ごうとして常に生きておられる」(ヘブライ7章24-25節)。常に、です。いかなる時も、です。私たちがこの教会で祈っている間にも、外の世界が狂乱的な快楽や切望する野心を追い求めている間にも、永遠の大司祭であるイエズス・キリストは、御父の玉座の前に立っておられます。主は私たちのために取り次いでくださっているのです。ミサに行くということは、私たちの救いのための嘆願として御傷跡を示して取り次いでくださるキリストの、広げられた腕の下に自らを置くことなのです。
親愛なる兄弟の皆さま、信仰が今日私たちを導く、壮大で喜びに満ちた結論はこうです。それは可能だということです。私たちがキリストの後を追って故郷へ帰ることは、真に、確かに、現実に可能なのです。主は道を歩まれ、道を切り開かれ、天から私たちのために熱心に取り次いでくださっています。目標を見失ってはなりません。その反対に、聖パウロは、私たちをこう招いています。「希望をもって競走を競い…イエズスに目を注ぐようにしよう」(ヘブライ12章1-2節)。
御昇天になった主に向かって歩む際、私たちには母が共にいます。私たちの救いのためにカルワリオの丘に登られた聖母は、すでに霊肉ともに天に到達されています。そしてその栄光の場所から、天主の御顔を求めつつ今も道にあって苦闘している子ら一人一人に向かって、手を差し伸べておられます。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、…天主がご自分を愛する人々のために準備された」(コリント前書2章9節)幸福な故郷へと、聖母が一歩ずつ私たちを導いてくださいますように。アーメン。