御潔めと奉献(2025年、大宮)

イエズスの奉献
御潔めと奉献(2025年、大宮)
2025年2月2日 ブノワ・ワリエ神父
御潔めと奉献
親愛なる兄弟の皆さま、今日の祝日には二つの名前があります。イエズス・キリストに関する祝日であるため、キリストの奉献の日と呼ばれます。童貞マリアに関する祝日であるため、マリアの御潔めの日と呼ばれます。
マリアの御潔め
まず、今日の祝日が童貞マリアに関する限り、マリアの御潔めの日と呼ばれます。
マリアは、心で悪いことを考えて罪を犯すことも、うぬぼれたことを言って口で罪を犯すことも、体で悪を行って罪を犯すことも、決してありませんでした。
マリアの清さについて、雅歌は、「愛する者よ、あなたは本当に美しい。本当に美しい」(雅歌4章1節)、また「愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何の汚れもない」(同7節) と歌っています。
では、なぜ私たちは、マリアの御潔めについて語るのでしょうか。聖ルカは、今日の福音で、この疑問を提起しています。「マリアの御潔めの日」という表現を使った後、彼はすぐに「モーゼの律法に従い」と付け加えており、「マリア自身の必要により」とは言っていません。なぜなら、マリアにはそれが必要なかったからです。
モーゼの律法は、こう述べています。「女が種を受けて男の子を生めば、七日間は不浄になる。…また、潔めの期間が終わる日までは、聖所に入ることもならぬ」(レビ12章2、4節)。ですから、この戒律は童貞マリアには関係ありません。なぜなら、マリアは、「種を受けて」お生みになったのではなかったからです。
聖トマスは、「天主の御母が御潔めを受けるために神殿に行くべきだというのはふさわしいことであったか」と問うています(神学大全第三部、第37質問、第4項目)。そして彼は、「そうである」と答えています。「恩寵の充満がキリストから御母に流れ込んだのであるから、御母は謙遜において御子に似た者となるべきである、ということがふさわしい。なぜなら、『天主は謙遜な者に恩寵を与える』と、ヤコボの書簡4章6節に書かれているからである。したがって、キリストが、律法の下に置かれてはいなかったにもかかわらず、謙遜と従順の模範を示すために、また、ユダヤ人たちからイエズスを中傷する口実を取り去るためにも、割礼および他の律法上の義務に従うことを望んだのと同じである。同じ理由でイエズスは、御母も律法の規定を守るように望んだが、それにもかかわらず、御母は律法の下に置かれてはいなかったのである」。
イエズス・キリストの奉献
今日の祝日は、イエズス・キリストの奉献の日とも呼ばれます。
キリストは実際、奉献の律法を守るように望まれました。キリストは「律法の下に置かれた。それは律法の下にある者を贖うためであった」(ガラツィア4章4-5節)。
律法には、生まれた子どもに関する二つの戒律がありました。
一つは、すべての新生児に適用される一般的な戒律で、レビ記12章6節に定められているように、「母親の清めの日数が満ちたならば」、「息子または娘のために」いけにえを捧げるというものでした。そして、このいけにえは、子どもが受胎して生まれた際の法的な不浄を償うためのものでした。
もう一つは、律法における「人と獣の両方」の初子だけに関する特別な戒律でした。主は、イスラエルのすべての初子を、ご自分のものとされたからです。なぜなら、イスラエル人を解放するために、主は「エジプトの地の、人と獣のすべての初子を打ち倒」(出エジプト12章12-29節)され、イスラエルの初子は救われたからです。
男子の初子のための儀式は、一種の聖別でした。なぜなら、その子は初めて神殿に奉献されたからです。
福音史家ルカは、これら二つの戒律がキリストに関して成就したことを示しています。
以下の二つの美しい考察を、付け加えることができます。
1)キリストは、童貞母の清さを侵害しておられず、通常の受胎と出産で起こるような「胎を開く」こともされませんでした。ですから、キリストは神殿で聖別される必要はなく、むしろ神殿がキリストによって聖別されるべきです。なぜなら、キリストは聖人の中の聖人でしたし、今もそうであるからです。
第一の朗読で聞いた預言者マラキは、メシアが「神殿においでになり」、「精錬の火のように」、「レビの子らを清め、金銀のように彼らを清める」、それは彼らが「正義において主にいけにえを捧げる」ためであると預言しました。
2)レビ記の律法は、小羊を捧げることのできない者は、2羽の山鳩か2羽の若い鳩を捧げるよう命じていました。尊者聖ベーダはこう述べています。「コリント後書第8章9節に書かれているように、『主は、富む者であったのに、われらのために貧しい者となられた。それは、主の貧しさによって、われらを富ませるためである』。お生まれになったとき、『布に包まれて、飼い葉桶に横たえ』られたように、主は『貧しい者のいけにえが、主のために捧げられるように望まれた』」。
結論
親愛なる兄弟の皆さま、
「多くの兄弟の長子」(ローマ8章29節)となるように定められていたキリストは、ユダヤの奉献の律法の下に置かれるように望まれました。キリストは主に奉献されましたが、それは、私たちが自分を天主に奉献することを学ぶことができるようになるためです。
「兄弟たちよ、天主のあわれみによって、私はあなたたちに勧める。あなたたちの体を、天主に嘉せられる生きた聖なるいけにえとして捧げよ。それは道理にかなった奉仕である」(ローマ12章1節)。
汚れなき天主の御母は、御子の謙遜と従順に倣って、ユダヤの律法に従い、神殿で儀式的に清められるように望まれました。
私たちが、キリストとマリアの謙遜、従順、清さの模範に倣うことができますように。そして、私たちの霊魂という神殿に、沈黙のうちに住まわれる三位一体の天主と、常に、さらに密接に一致して生きることができますように。アーメン。