御公現後第五主日の説教

ソース: FSSPX Japan

麦と毒麦のたとえ話

御公現後第五主日の説教

2025年2月9日 大阪 ピーター・フォルティン神父

このたとえ話で、私たちの主が説明しようとしておられることは、天主は、教会の生活と歴史中に敵が根付くのをお許しになりますが、いずれ裁いて、麦と毒麦、善人と悪人をより分けるのも天主だということです。人の一生の終わりにあるのは、天国か地獄かです。善人は麦で表され、悪人は毒麦や雑草で表されます。

聖アウグスティヌスは、毒麦や雑草は教理や道徳に関するもので、悪い生き方をするカトリック信者を表していると取ることができると述べています。悪い生き方をするカトリック信者。これはどういうことでしょうか。それは、カトリック的な生き方を完全には受け入れておらず、身分に応じた日々の義務で秘跡を頻繁に用いて自分自身を聖化しようは望んでおらず、天主の恩寵や天主の友情のない罪の状態で生きることに満足している人々のことです。まだ今年の初めと言ってもいい時期であり、聖にして母なる教会が、この警告と考察を提示していますから、こう問いましょう。私たち自身の霊的生活の中に毒麦がいるでしょうか。私たちは、自分の霊的生活に対する危険に気づかなければなりません。

私たちの生活の中に、取り除くべき雑草があるでしょうか。この意味は、私たちが変わるために、あるいは回心するために、何をしなければならないかということです。私たちが自分自身をよく調べて、変わる必要があることが分からないとすれば、深刻な問題があります。自分の霊魂という庭から引き抜くべき雑草が見当たらないなら、私たちは自分の生ぬるさに満足しているのか、あるいは盲目であるかです。どちらにしても、審判の時がやって来るとき、そのような霊魂は良い結果にはならないでしょう。

中心となる戦い、すなわち常に引き抜かなければならない雑草は、いわゆるよくある過ちでしょう。それが意味するのは、私たちが実践するのが最も困難な徳のこと、あるいは否定的な面で言えば、私たちが定期的に陥っている罪のことです。どうすればそれが分かるでしょうか。定期的に告解をしているのなら、それが定期的に陥っている罪です。これは、人によって異なるでしょう。怒り、嫉妬、怠惰などに陥りやすい人もいれば、自分の舌を抑えられない人、自分の意志に固執しすぎる頑固な人もいます。しかし、これらの悪徳のどれかを持っているかもしれない人々は、容易に他の徳を実践することができるでしょう。その理由は、天主が私たちに与えてくださった徳、親から学んだ徳、あるいはただ実践しようと努力した徳だからです。私たちが行うすべての善は、天主の恩寵のおかげです。私たちが行うすべての悪は、私たちが天主の恩寵をうまく用いることができないためです。たとえ他人につまずかされて、その後に罪の生活になってしまったとしても、それはその人自身の過ちであることに変わりはありません。

自分に過ちがあることを認識するのは簡単ではありません。多くの人は、自分の特別な過ちに多くの理由や言い訳を求めます。通常、このような会話は、事情や人、状況、誘惑がこれほどまでに圧迫するものでなかったら、私はもっと良くなっていただろう、というところから始まります。天主はいつも、私たちの徳を試し、天主の恩寵への忠実を試すために、このようなことをお許しになります。私たちが失敗すれば、どう理由をつけようとも、それでも過ちであり罪なのです。高慢が行き過ぎると、過敏、内気、盲目、頑固として現れるかもしれません。これらはすべて、私たちの霊的生活の現実を見る上での障害となるのです。

先に述べたように、よくある過ちを発見する一つの方法は、告解で最も多く告白する罪が何であるかを思い起こすことです。もう一つの方法は、内的であるか外的であるかを問わず、自分自身の批判精神を考えてみることです。聖アウグスティヌスによれば、それは人が他人を嫌うという精神でしょう。例えば、ある人が、他人のことを語る際に、この人やあの人についていつも不平を言うのか、あるいは、他人に関するそれらのことを気にせず、彼らも同じ戦いを抱えているのだろうと思うかです。

よくある自分の過ちを発見する別の方法は、いつもの聴罪司祭や自分をよく知る人の助言に従うことです。誰かが、悪い行動や精神を指摘してくれるでしょう。腹を立てるのではなく、「私は本当にそんな人間なのか」と考え、自問するのです。通常、人が指摘してくれた場合、それがすべて偽りであることはあり得ません。自分をもっと良くするために、うまく受け止めるべきです。時々、他の人から指示を受け入れるのは良いことです。

よくある過ちが見つかれば、それだけで戦いの半分は済んだようなものであり、そのあとは、節制の徳を実践して対処することが必要です。飲みすぎ、食べすぎ、しゃべりすぎの人は、節制の徳を実践しなければなりません。それは簡単なことではなく、おそらく一生の戦いになるでしょう。最も重要なのは、自分の霊魂が必要とすることに目を光らせておくことです。それは庭の手入れのようなものであり、さまざまな植物や畝は徳の発展のようなものです。肥料と水は与えられる恩寵です。私たちは、自分自身の霊的生活に責任があります。常に目を光らせ、細心の注意を払う必要があるのであり、このことは日々、思い起こすべきことなのです。