御公現後第三主日の説教―自慢と不従順(2025年、大宮)

御公現後第三主日のミサ典書
御公現後第三主日の説教―自慢と不従順(2025年、大宮)
2025年1月26日 ブノワ・ワリエ神父
自慢と不従順
親愛なる兄弟の皆さま、
らい病人を癒やされた後、私たちの主は、すぐに彼にこう言われました。
「誰にも言わぬように気をつけよ」。
しかし、聖マルコが、こう付け加えます。
「その人は出て行って、この出来事を話し、言い広めた。
だからその後、イエズスは公然と町に入れなくなり、外の寂しい所にとどまられた」(マルコ1章42節)。
自慢と不従順について簡単に述べましょう。
1.自慢
まず、いま癒やされたらい病人が感じた、信じられないような喜びと興奮は、理解することができます。そのため、彼はこの知らせをあらゆるところに広め、おそらく子どものようにみずみずしい肌を見せたことでしょう。「素晴らしい、奇跡だ。天主に賛美」。
しかし、天主がこの男にお求めになった賛美はそうではなく、感謝の心で静かに、秘密のうちに祈るという賛美でした。
キリストはご自身の栄光ではなく、天の御父の栄光をお求めになったため、らい病人に対して、奇跡的に癒やされたことを公表することを禁じられました。
このことは、私たちがどのような善を行うとしても、また行ったとしても、それを秘密にしておき、決して虚栄心や野心によって明らかにすることのないようにという、教訓となるべきものです。天主から特別な恩寵を受けたり、善い行いをしたりしても、それを自慢しないようにしましょう。
天主の栄光を求めずに、自分の栄光を求める者は、今後は何の報酬も受けることはありません。
聖イグナチオ・ロヨラとともに、「すべてをより大いなる天主の栄光のために」と、しばしば口にしましょう。
2.不従順
私たちの主は、らい病人に対して、自分の奇跡的な癒やしについて話すことを禁じられました。
このように沈黙を命じられたのには、多くの理由があります。
1)癒やされた人があまりにも感情的だったり、信頼できない証人だったりするかもしれませんし、その結果、論争をあおり、誰かの側に味方しなければならなくなったかもしれません。
2)場所と時間が、不適切だったのかもしれません。
3)群衆が、キリストを自分たちの望むメシアにしたがる危険性が、常にありました(ヨハネ6章15節)。
確かに、らい病人は、キリストの栄光を至るところに宣べ伝えているという理由で弁解し、自分の癒やしの物語を語るところではどこでも、敬虔な「天主に賛美」を付け加えることでしょう。
私たち司祭も、今の困難な時代には、時折そのような態度に出くわすことがあります。教会の状況や現教皇の正当性などについて、啓示とされる疑わしいものや、危険な立場を広める信者もいます。
ある程度は、人々は善い意向で、これらの記事を他人と共有するのかもしれません。ちょうど、自分の癒やしをイエズスのおかげだとしたらい病人のようにです。しかし、昔のらい病人に対するのと同じように、私たちに対しても、イエズスはこう言われます。「黙っていろと言わなかったか」。
私たちの宗教を形作るべきものは、私たちの感覚、あるいは私たちの宗教的感情ではありません。私たちは、疑うことなく、天主と天主の教会の命令に従わなければなりません。
旧約聖書には、サウル王の物語があります。
サウルは、自分たちを指導する君主を求める民の要求にお応えになった天主によって、イスラエルの初代の王に選ばれました。サウルの初期の治世の特徴は、イスラエルを敵から救い出したことから、軍事的な成功と幸先の良いスタートでした。しかし、彼は天主の命令に不従順だったため、結局は天主に拒絶されることになりました。
最初の重大な不従順の行為は、サウルがペリシテ人の脅威に直面したときに起こりました。彼はサムエルに、イスラエルを守るために、速やかにいけにえを捧げるよう求めました。称賛に値する意向です。しかし、この預言者がいなかったため、王は先に進み、自ら司祭の務めを果たしたのです。戻ってきたサムエルはサウルを非難してこう言いました。「主の声に従うことよりも、主が燔祭といけにえを望まれようか。従順はいけにえにまさる」(サムエル上15章22節)。
親愛なる信者の皆さま、
聖イグナチオ・ロヨラのような数人の霊的な著述家が言及している、ある特定の誘惑があります。それは、「sub specie boni」誘惑と呼ばれるもの、つまり、「善を装う」誘惑です。
私たちは常に、自慢するための「善い理由」を見つけることができますから、人の賛美を求めます。
キリストとキリストの教会に不従順となり、自分自身の小さな宗教を行うための「正当な理由」を見つけることは、いつでもできます。しかし、これらはすべて罪深いことなのです。
むしろ、自らを「主のはしため」と考えて行動された聖母の美しい模範を見てみましょう。聖母は、聖霊に促されたときだけ、私的な場で、エリザベトにこう告白されました。「全能者が私に偉大なことをされました」。
聖母の従順については、天使への返事で見事に述べられました。「あなたのみ言葉のとおりになりますように」。
高慢で不従順な蛇に従うのではなく、蛇のかしらを踏み砕いた婦人に従いましょう。アーメン。