御公現後第三主日の説教―私たちの信仰を守る(大阪)
キリストと百夫長
御公現後第三主日の説教―私たちの信仰を守る(大阪)
2026年1月25日 イヴォン・フィルベン神父
御公現後第三主日の説教―私たちの信仰を守る(大阪)
Adorate Deum(主を礼拝せよ)、これがこのミサの最初の言葉です。私たちは、今でも御公現の期節の延長線上にあり、この時期にお祝いしてきた礼拝の神秘は続いています。だからこそ、私たちはこの時期を「御公現後の期節」と呼ぶのです。御公現の神秘は続いているのです。
ですから、私たちは主を礼拝しなければなりません。しかし、どのように礼拝するのでしょうか。このミサの福音は、すべての礼拝の第一の前提条件である信仰を示しています。信仰は、天主に対する私たちの第一の義務であり、すべての礼拝のための条件です。信仰はまた、洗礼の際に教会に最初に求めるものでもあります。
この説教では、今日のミサの福音に関連する、信仰に関する二つの要素を強調したいと思います。その要素とは、信仰は私たちを、主イエズス・キリストに出会わせること、そして、信仰を守らなければならないことです。
1)信仰は私たちを主に出会わせる
今日の主日の福音に戻りましょう。この福音では、山上の説教に続く最初の奇跡が語られています。説教の後、私たちの主は、居住地としておられたカファルナウムの町に戻られました。その途中で、主はらい病人に出会われ、カファルナウムに着くと、ローマの百夫長が主を出迎えました。どちらの場合も、決して一緒にいてはならない人々です。前者は病気のために汚れており、後者は異教徒であるために汚れていたからです。通常、ユダヤ人は彼らに近づこうとはしません。しかし、イエズスはどうされたでしょうか。イエズスはらい病人に触れられ、百夫長の家に行かれました。イエズスは、それまで乗り越えられなかった障壁を打ち破られたのです。イエズスの行動の背後にある理由は何でしょうか。それは、イエズスの優しさだけでなく、その人々の信仰をご覧になるからです。「まことに、あなたたちに言う。イスラエルの誰にも、私はこれほどの信仰を見たことがない」(マテオ8章10節)。癒やしの奇跡そのものよりも重要なのは、この二人の信仰なのです。
らい病人の場合を吟味してみましょう。彼はイエズスにこう言います。「主よ、御旨ならば、私を清くすることがおできになります」(マテオ8章2節)。彼は、「あなたは私に何かおできになりますか」とは尋ねません。「御旨ならば、おできになります」と断言します。らい病人は、イエズスに御旨さえあれば、それが可能になることを認めています。しかし、自分の望むことを何でもする力を持つのは誰でしょうか。全能の御旨を持つのは誰でしょうか。それは天主であり、また天主しかいません。天主が仰せになれば、その通りになるのです。
ですから、らい病人は、イエズスが天主であることを認めているのです。
この信仰の行いに応えて、イエズスはらい病人に触れられます。なぜでしょうか。イエズスならば、遠くからでも簡単に癒やすことがおできになったことでしょう。結局のところ、イエズスは天主であり、ご自分が適切だと思うように癒やすことがおできになります。イエズスはこの行為を、信仰が私たちを天主に出会わせるという、非常に重要なことを伝えるために行うことを選ばれました。私たちは、もはやイスラエルの民に属することが契約の条件だった旧約の時代にはいません。そうではなく、人を主に出会わせるのは、イエズス・キリストへの信仰なのです。
2)信仰は不可欠である
聖書は非常に明確です。「信仰がなければ、天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)と聖パウロは語っています。そして主はこう宣言されます。「信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。カトリックの信仰を裏切ったために信仰の徳を失った者は、希望と愛という他の対神徳も自動的に失い、その状態で死ぬと地獄に行きます。同様に、例えば人間の尊厳を理由に、機会があったにもかかわらず信じて洗礼を受けることを拒否した者も地獄に行きます。天国には信じる者の場所だけしかありません。ですから、もし良き信仰を持つ異教徒が救われる可能性があるとすれば、それは常に、彼らの内に暗黙のカトリックの信仰があるという条件付きなのです。
信仰は他の何よりも優先されるものであり、聖ピオ十世会の闘いの動機となっています。ルフェーブル大司教は、1974年11月21日の宣言で、次のように述べています。「位階階級の最高位にいる者であっても、教会の教導権によって19世紀にわたって表明され宣言されてきたカトリックの信仰を、放棄したり弱めたりするように、私たちに強制することはできません」。
3)私たちの信仰を守る
信仰を守るための聖ピオ十世会の闘いは、私たちの個人のレベルにおける闘いでもなければなりません。私たちには、自分の信仰を守る責任があります。この責務は、二つのレベルで行われます。
まず第一に、私たち自身が、自分の信仰を知らなければなりません。私たちの聖堂にいるカトリック信者が、カテキズムのさまざまな面を知らないでいることは、受け入れられないことです。私たちは、ミサに行って説教を聞くだけでは満足できません。私たちは実際、教会の危機の時代にいるのであり、すべての忠実なカトリック信者は十分な教育を受けなければなりません。次の小テストを試してみてください。ミサで唱える信経の各部分を取り上げ、それぞれの一節について、「私はこの意味を理解しているか」と自問してください。もし理解できないか、あるいは漠然としか理解していないなら、もっと深く学ぶ必要があります。どうすれば良いでしょうか。インターネットで疑問の答えを探すことから始めないでください。インターネット上には、信頼できる日本語のカトリック関連情報源はほとんどありません。小野田神父様の指導のもとで翻訳・出版された文書やビデオは、日本の聖ピオ十世会のウェブサイトとチャンネルでご覧になれますが、それ以外には、信頼できる情報はあまりないと思います。疑問への答えを見つけるには、もっと簡単な方法があります。この聖堂の入り口には、百パーセント信頼できる内容の問答形式のカテキズム資料があります。これらの本を購入して、読んで学んでください。そしてもちろん、これは家庭生活にも当てはまります。カテキズムを家庭生活の一部としてください。
第二に、皆さまの信仰を守ってください。カトリックの信仰に反するコンテンツには触れないでください。先ほども述べたように、カトリックの信仰に関する信頼できる日本語の情報はほとんどありません。グーグルで検索しないでください! 自分が読むもの、そして皆さまの子供たちが読むものを管理してください。不適切なコンテンツからだけでなく、不必要な論争からも自分を守る必要があります。私たちは注意深くなければなりません。非常に寛大な信者の中には、ソーシャルメディアで信仰を擁護しようとする人もいますが、必ずしもそうする手段を持っているとは限らず、結局は善よりも害を及ぼしてしまう人もいます。私たちには、そのようなことをするのに必要な権限や知識が常にあるわけではありません。
かつて教会には、信者が信仰にとって危険な内容に触れることを明確に禁じる賢明さがありましたが、今はもうそうではありません。ですから、私たち一人一人が、個人の生活や家庭生活において、カトリックの信仰に有害だったり、不必要な論争を引き起こしたりするコンテンツを、明確に排除するフィルターを設置する必要があります。ですから、インターネット上で私たちが目にするコンテンツが、カトリックの信仰とどのように関係しているのか、自問してみましょう。
親愛なる信者の皆さま、
カトリックの信仰は貴重なものです。なぜなら、私たちを主イエズス・キリストに結びつける唯一のものだからです。この信仰を守り続けることは、カトリック信者としての私たちの第一の義務です。ですから、次の二つの問いを自問してみましょう。私たちは、カトリックの信仰を十分に理解しているでしょうか。私たちは、自分自身と自分が世話をしている人々を、カトリックの信仰に敵対するコンテンツから守っているでしょうか。