御公現後第三主日の説教―聖心

ソース: FSSPX Japan

イエズスの聖心

御公現後第三主日の説教―聖心

2025年1月26日 大阪 ピーター・フォルティン神父

今日の福音で、私たちの主は、御あわれみを受けそうもない二人の人物に、二つの奇跡を起こされました。一人は、恐ろしい病気のために社会全体から避けられているらい病患者であり、もう一人は、外国人であって、さらに悪いことに占領軍の将校である異邦人です。この二人の男は自分の必要に迫られており、人間的な尊重をすべて忘れて私たちの主の前にやって来て、主の御あわれみをこい求めると、主はすぐにお応えになります。私たちの主が、このようにお応えになるのはいつものことであり、それは、聖心が霊魂に対して、私たちの霊魂に対して抱いておられる愛のゆえです。おそらく、今年の初めに私たちの救い主の聖心に目を向ければ、一年を通してこの愛を主にお返しすることができるようになるでしょう。

一般的に言えば、私たちの主は、私たちに何をしてくださったのでしょうか。私たちが受けたすべての恩寵は、私たちの主の聖心から来るものです。聖ヨハネは福音書の中でこう書いています。「私たちは、主の満ちあふれるところから…受けた」(ヨハネ1章16節)。この満ちあふれるところとは、私たちに与えられた恩寵の満ちあふれるところのことです。主は、その贖いの行いによって、人間を天主から隔てる障壁を壊され、私たちの救いに必要なすべての恩寵を獲得され、その恩寵を私たちに伝えてくださったのです。それは、私たちが変わることができるように、私たちがもっと主に似たものとなって、主のように、私たちの心が主の聖心の愛を反映するようになるためです。

一年を通して、私たちの日常生活、特に典礼において、私たちの主の完徳が私たちに示されます。主の完徳は通常の徳に従っています。主の完徳のうちで最も傑出したものは、主の愛徳、この超自然的な天主の愛です。

愛徳によって、ご托身がもたらされました。私たちは天主の御助けを必要としていますから、私たちの主は来てくださいます。信経の中で、私たちは、「主はわれらのため、…天から降り給い、…人となり給うた」と宣言しています。愛徳によって私たちの主はお生まれになり、私たちは、苦しみを受けられ、目立たない生涯を送られるという、へりくだった境遇を知ります。公生活において主の熱意を育んだのは、主の愛徳でした。御父のみ旨を行おうとする望み。霊魂の救いに対する熱意。私たちが十字架上の私たちの主を見て、主がすべてを放棄されるのなら、それは私たちに対する主の計り知れない愛のゆえです。主の神秘のすべては、私たちへの愛が原因です。私たちの義化のための主のご復活、天国に私たちの居場所を用意してくださるための主のご昇天、私たちが孤児にならないようにここに共にいてくださるための聖霊の派遣、そして主の私たちへの永遠の愛の証しである愛の秘跡、鼓動する教会の心臓であるご聖体です。それにあずかるために行きたいと願うすべての人のために、祭壇から注がれる愛です。

私たちの主のこの愛に対する私たちの信仰が、生きていて不変なものであることが必要です。それは、私たちにすべてのものを与えてくださる主に忠実であるために必要です。これらの神秘を通して、私たちの主は私たちにすべてをお与えになり、何一つ惜しまれません。主はその無限の愛を絶えず与えてくださいます。私たちが主にならって努力し、主への愛を証明できるようになるためには、このことを常に思い起こすことが必要です。聖パウロの生涯を見れば、キリストのために労苦することがどんなことかが分かります。聖パウロは、自分の宣教が合法であることに疑問を持つ敵に攻撃されたとき、自己防衛のために自分の業績と苦しみを語るように誘導されます。彼の書簡にあるこの箇所は、キリストのために本当に自分自身を費やす人という、いつも大きな霊感を与えてくれるところです。彼は、しばしば死と隣り合わせであったと述べています。「ユダヤ人から、私は四十に一つ足らぬ棒打ちを五度受け、三度筈(しもと)で打たれ、一度石で打たれ、三度難船し、一昼夜海で過ごした。何回も旅行して、川の難、盗賊の難、同民族からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海の難、偽兄弟からの難に遭い、苦労し、苦しみ、たびたび眠らず、飢え渇き、よく断食し、寒気にこごえ、裸であった。そして、外から来るこれらのほかに、日々の私の重荷、すなわち、諸教会への心遣いがある」(コリント後書11章24-28節)。この記述を読むと、このような聖人に感嘆せずにはいられません! その後、彼はすべての名誉を私たちの主に捧げています。「だが、すべてこれらのことにおいて、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝つのである」(ローマ8章37節)。つまり、これらの愛と献身の功績を示すのは、最初に主が私たちに示された愛のゆえです。このような試練や困難、人生の疲れを経ても、彼は主との一致を保ち続け、「患難も、苦悩も、飢えも、裸も、剣も」(ローマ8章35節)彼を主から離すことはできず、それは「私たちを愛されたお方」(ローマ8章37節)のゆえなのです。

聖パウロの力を支え、そのようなエネルギーを与えたものは何かといえば、私たちの主が自分を愛しておられるという確信です。「主は私を愛し、私のためにご自身を渡された」(ガラツィア2章20節)。回心の前にはサウロだったパウロは、天主の御名を冒涜し、キリスト教徒を迫害していました。私たちの主イエズス・キリストとキリストの教会に敵対していた彼が、私たちの主のサウロへの愛によって、回心の恩寵を受けました。このこと自体が、聖パウロの原動力を維持していました。私たちの主は、私たちが生きることができるように、ご自分の命をお与えになりました。「キリストの愛が私たちを締めつける。だから、私はキリストのために自分を捨て、キリストのために喜んで私自身を費やし、遠慮なく、費用を考えずに、キリストに勝ち取られた霊魂のために私自身を費やそう。私は喜んで私自身を費やし、費やされよう」(コリント後書12章15節参照)。

「キリストが自分を愛しておられるというこの信念が、その人に偉大な業績を成し遂げる能力を与えます。子どもが親を喜ばせようと大きな努力をするようなものです。それは、自分が愛されていると知れば、そのお返しに愛するようにさせるものです。キリストのことを考えるたびに、キリストが私たちに惜しみなく注がれた愛と恩恵を思い起こし、愛が愛を生じさせることを思い出しましょう」(アヴィラの聖テレジア)。

私たちがこの愛を学ぶなら、それは必ずや私たちにこの愛を返すようにさせます。愛以外に、お返しの愛を生み出すものはありません。聖パウロのような偉大な聖人たちを生み出したイエズスの計り知れない愛の深さは、どこにあるのでしょうか。イエズスの神秘と、イエズスの聖心への信心にあります。聖マルガリタ・マリア・アラコックに知らされた私たちの主のご出現で、私たちの主が啓示されているのは、この愛の源が主の至聖なる聖心にあること、聖心への信心を実践する者に対して、またこの愛に応えてお返しする者に対して、いかに豊かな恩寵を約束なさっているかということです。私たちの主は、このような方法で、もっと近づくように私たちを招いておられます。主が望んでおられるのは、私たち全員の一人一人に対して主が持っておられるこの愛を私たちが発見して、この愛を主にお返しできるようになることなのです。