御公現後第二主日の説教―恩寵の必要性(大宮)

ソース: FSSPX Japan

カナの石甕

御公現後第二主日の説教―恩寵の必要性(大宮)

2026年1月18日 イヴォン・フィルベン神父

御公現後第二主日の説教―恩寵の必要性(大宮)

親愛なる信者の皆さま、

新年の初めに、私たちはいただきたいと思う良い知らせを求める願いを表します。健康、学業や仕事での成功などを願いますが、しばしば忘れがちなものがあります。それは今日の福音に登場するぶどう酒が象徴するもので、とても大切なものです。なぜなら、それがなければ、すべてが失われてしまうからです。カナの福音にあるように、おいしい食事はあっても、ぶどう酒がなければ喜びはすべて失われます。では、それほど大切なものとは、いったい何でしょうか。それは恩寵です。

私たちは皆、恩寵が大切だと知ってはいますが、恩寵について漠然とした考えしか持っていないことがよくあります。この説教では、今日のミサの福音に基づいて、恩寵とは何か、なぜ恩寵が大切なのか、そして私たちはどこに恩寵を求めるべきなのかを説明したいと思います。

1)甕の中の水:なくなった恩寵

ぶどう酒についてお話しする前に、福音の物語に登場する甕についてお話ししましょう。これらの甕は、なくなった恩寵を象徴しているのです。

これらの甕について、どのように述べられているでしょうか。甕は石でできており、六つあり、大量の水で満たされています。これらの甕は、飲むためのものではなく、儀式として身を清めるために使われるものです。「そこには、ユダヤ人の清めのために準備されている石甕が六つあった」(ヨハネ2章6節)。当時の厳格なユダヤ人は、清めのために石の容器を使っていました。彼らの宗教的律法によれば、この種類の容器は汚れることがなかったからです。そのような甕は、イスラエルのカナの遺跡での考古学的発掘調査で発見されています。しかし、これらの甕が石でできているという事実には、別の意味もあります。石は旧約を象徴しているのです。モーゼの律法の板が石でできていたように、石は旧約の律法が厳格なものであることを象徴しているのです。最後に、六という数字にも象徴的な意味があります。聖書では、七が完全であることを象徴するのに対して、六は七から一を引いた数であるため不完全であることを意味します。したがって、六は未完成なものを指しているのです。

したがって、これらの甕は、喜びをもたらすことができないという点で、旧約、モーゼの律法を象徴しています。もっと広い意味では、これらの甕は私たち人間のあらゆる努力、人生におけるあらゆる努力を象徴しています。職場や学校で、家庭生活などで、皆さまのあらゆる努力について考えてみてください。これらはすべて良いものですが、永続的な喜びをもたらすことはできません。それらによって天主のところにまで行くことはできません。天主は私たちの努力による目的ではありません。例を挙げてみましょう。椅子を積み重ねて月にまで行こうとする人を想像してみてください。全く馬鹿げているように思えますが、それは恩寵なしに天主のところにまで行こうとするのと同じ間違いです。私たち自身の努力では全く近づくことができないのです。

親愛なる信者の皆さま、恩寵がなければ、私たちは天主のところにまで行くことができません。カナの客がぶどう酒を必要としたように、私たちにも恩寵が必要です。「私がいないと、あなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)と主は語っておられます。実際、私たちは何かをすることはできますが、それは人間的なことだけです。恩寵がなければ、天主のところにまで行くことはできず、天主との契約を結ぶこともできません。

2)ぶどう酒:与えられた恩寵

律法と人間の努力が甕の中の水で表されているとすれば、天主の恩寵はぶどう酒で表されています。この比喩は大切です。なぜなら、私たちは恩寵がどれほど大切なものであるかを知っているからです。これはカテキズムの授業で習ったことですが、しばしば、やや抽象的な概念のままです。婚礼のぶどう酒との比較は分かりやすいものです。ぶどう酒は、おいしい食事にどのような効果をもたらすでしょうか。ぶどう酒は、人々の間にある種の交わりを生み出します。ぶどう酒を飲むと、私たちは笑い、話しやすくなり、殻を破ることができます。日本で金曜日の夜にレストランに行くと、多くの会社員のグループが飲食するために来ているのを目にしますが、主にはお酒を飲むためです! お酒によって、普段の同僚とのまじめな関係から抜け出すことができます。彼らは笑ったり、思っていることを話したりすることができます。ぶどう酒は、人々の間にある種の交わりと自由を生み出すのです。

しかし、これこそが、私たちと天主との関係で恩寵が成立させることなのです。恩寵は私たちを天主との交わりへと導き、天主をよく知っているように感じさせてくれます。恩寵は単に天国への切符ではありません。そうではなく、恩寵は、私たちが天主の命と喜びを分けていただくことができるようにすることで、私たちの霊魂を変容させてくれます。それは、互いの喜びを分かち合う楽しい食事のようなものです。恩寵とは、すでにこの地上にある天国の幸福と喜びなのです。

3)恩寵はどこに見いだされるか

では、この尊い恩寵はどこに見いだされるでしょうか。先ほども述べたように、人間がどんなに努力しても、それを得ることはできません。カナの婚礼でぶどう酒がなかったのは、まさにこのことを意味しています。しかし、文章の細かい点に注目することで、さらに理解を深めることができます。童貞聖マリアが主に語りかけられるとき、ギリシャ語原文でもラテン語の文章でも、「あの人たちにはもうぶどう酒がなくなりました」と言っておられるのではなく、「あの人たちにはぶどう酒がなくなりました」「Vinum non habent」と言っておられるのです。この本当に細かい点が、ぶどう酒の不足の本質を強調しています。それは根本的な不足であり、準備不足という人間的な問題ではありません。ぶどう酒が全くなくなったのですから。

カナの物語は、恩寵の唯一の源はイエズス・キリストであり、恩寵を象徴する契約のぶどう酒を与えることができるのはイエズス・キリストだけであることを、はっきりと示しています。イエズス・キリストが、そしてイエズス・キリストだけが恩寵を与えてくださるのです。このことが意味するのは、他の宗教は恩寵を与えないということです。仏教、神道、ユダヤ教などは恩寵を与えません。これは、これらの偽りの宗教を信奉する人々は必ず悪い人々だという意味ではなく、彼らの偽りの宗教は彼らに恩寵を与えることはできないという意味です。

最後に、聖書は恩寵を受けるための大切な要素を付け加えています。恩寵が与えられるのは、童貞聖マリアの御取り次ぎを通してです。「何でもあの人の言うとおりにしなさい」(ヨハネ2章5節)。このことは、童貞聖マリアの「すべての恩寵の仲介者」という伝統的な称号を裏付けています。すべての恩寵はイエズスから来るものですが、マリアを通して与えられます。ですから、天主が私たちに与えたいと思っておられる恩寵から利益を得るためには、童貞聖マリアを自分の母として受け入れることが不可欠なのです。


親愛なる信者の皆さま、新年の初めに、私たちは、人生で本当に必要なものは何かについて、深く考えなければなりません。そして、今日の福音は、非常に明確にこう語っています。「私たちにとって大切なものは恩寵である」。恩寵は私たちの努力の結果ではなく、私たちが天主を信じるときに天主が与えてくださる賜物です。祈り、読書、犠牲という良き決心を通して、私たちの霊魂の恩寵を増やすことを今年の計画の一部にし、すべての恩寵の仲介者である童貞聖マリアの御取り次ぎに自らを委ねましょう。