御復活後第三主日の説教―天主の子の自由(2025年、大宮)
山上の垂訓
天主の子の自由(2025年、大宮)
2025年5月11日 ロバート・ブルッチアーニ神父
御復活後第三主日の説教―天主の子の自由
親愛なる信者の皆さま、
自由を悪意の隠れ蓑にしないでください。
<現代の自由の概念>
この世にとって、自由とは次の三つのことを意味します。
―外的な強制がないこと(選択するのを妨げる外部の障害がないこと)
―内的な制約がないこと(選択するのに本性による制限がないこと)
―自律(善悪を選択できること)
この定義は、現代人にとって魅力的に聞こえ、現代文化の流行のようになっています。
外的な強制がないこと
自由主義のこの世にとって、完全な自由とは、以下のように強制がないことです。
・抑制されずに、あらゆる気まぐれにふけることが可能であること
・あらゆる快楽を結果なしに享受できること
・あらゆるタブーの廃止
これは、「誰も傷つけない限り」または「他人の権利を侵害しない限り」または「誰もが同意する限り」というルールを除けば、何のルールもない状況です。
したがって、自由主義者はこう宣言するかもしれません。
・私には、自分の体を思いのままに使う自由がある。酒に酔うのも、好きなものを着るのも、結婚生活を続けるか続けないかも自由だ。
・私には、おなかに宿った子どもを殺すのを決める自由がある。
・私には、好きなものを信じ、好きな宗教を実践する自由がある。公的にも私的にも自由で、政府や社会からの制約もない。
内的な制約がないこと
この世の自由という概念は、外的な強制からの自由だけでなく、人間の本性による内的な制約からの自由でもあります。
・「私はなりたい何者にもなることができる。男にでも女にでも、ニワトリにだってなることができる。
・私は、自分の行動から生じる望ましくない当然の結果を取り除くことができれば、好きなことを何でもすることができる。
o 私は、避妊をすれば、誰とでも性的関係を持てる。
o 国家が私を飢えさせないので、私は働く必要はない。
o 私が天主はいないと決めたのだから、私は祈る必要はない。
o 私は、官能的な快楽、名声、権力、涅槃など、自分の究極の完全な状態(天国)がどこにあるかは自分で決めることができる。」
完全な自律
この世にとっては、自由であるということは、善であれ悪であれ、何でも選択することができるという意味です。それは自律していることです。自由主義者にとって、完全な自由とは、決定に至らない意志です。行為ではなく、潜在的な意志なのです。
・自由とは、選択できることです。本性、最終的状態、善、天主にとらわれることなく、自分の生き方を選択できることです。
・自由主義者にとって、人間の栄光とは、正しい選択をしたことではなく、選択をすることができる状態にあるということです。
<現代の自由の概念の問題点>
完全な自由という自由主義者の概念の問題点は、現代人(哲学者、科学者、政治家、一般大衆)が、存在するもの一般についての間違った理解をしていて、特に人間についての間違った理解をしているという事実に起因しています。
自由を「外的な強制がない」と定義することの問題点
物事の本性についての概念がないならば、その本性に付随するルールについての概念もありません。
・例えば、私たちはガソリンを飲む自由も、ある種の装置の助けなしで空を飛ぶ自由も、水を呼吸する自由もありません。これらのことは私たちの本性に反しており、肉体的な破滅につながります。
・同様に、私たちは、誰とでも性的関係を持ったり、嘘をついたり、天主を無視したりする自由はありません。なぜなら、これらのことも私たちの本性に反しており、霊的な破滅につながるからです。
個人として、あるいは社会として害を及ぼすようなことをしないように、私たちに外的な制約があるのは良いことです。階段の手すり、子どもに安全な漂白剤ボトル、スピード違反対策の法律、ポルノの禁止などです。
もし自由が完全な状態になるのであるならば、私たちが自由を実践すれば、肉体的にも霊的にも、自由は私たちを完全な状態に至らせるはずです。
自由を「内的な制約がない」と定義することの問題点
自分の本性や最終的状態を自分で選択できると信じることは、明らかに妄想です。それはこの世全体を不条理に落とし込むものであり、皮肉なことに、以下のように、さらに制約を強いることになります。
・―もし男性が女性になることを選ぶなら、女性としての完全な状態に到達する自由はありません(子どもを生むことはできず、母親になることは決してできません)。
・―もし男性がニワトリになることを選ぶなら、ニワトリとしての完全な状態に到達する上で、さらに深刻なハンディを背負うことになります。
事実上、自分の本当のアイデンティティーや最終的状態とは相反するアイデンティティーや最終的状態を選択することで、自分の選択によって奴隷となり、自分自身に実害を及ぼすことになります。決して幸福にはなれませんし、創造主から与えられた本当の不変の本性が完全な状態に到達することもできません。
自由を「自律」と定義することの問題点
この世にとって、自由とは自律です。自由とは、善と悪の両方に対する潜在的な意志であり、これは、「完全な状態と、奴隷化すなわち自己破壊の両方に対する潜在的な意志」と言っているのと同じです。
「この世の自由は、サタンがアダムとエワに約束したものと同じである。『あなたは神々のようになり、善と悪を知る』(創世記3章5節)。それは、天主の法からの自由、自然法からの自由、イエズス・キリストからの自由、教会からの自由、ついには天主からの自由という幻想である」。
はるかに偉大で完全な状態は、ある善や別の善に対する潜在的な意志です。さらに偉大で完全な状態は、潜在的な意志ではなく、善を選択する行為の際の意志です。これが、天主において存在する自由です。
堕落した人間もサタンも、この自由についての誤った概念を追い求め、それによって奴隷になります。人間は、この世と肉と悪魔の奴隷になるのです。サタンは、天主への憎しみの永遠の奴隷なのです。
<真の自由>
では、人間における真の完全な自由とは何でしょうか。
人が自由であるかどうかは、常にその目的、つまり物事の最終的状態に左右されます。人が自由であるのは、自分の本性にふさわしい究極的に完全な状態へと自らを方向付ける場合だけです。
ですから、最大の自由とは、私たちが天主を選ばずにはいられない天国にあるものです。なぜなら、天主の至福直観は、完全に満足させてくれるものであり、減少することもなく、喪失の恐れもないからです。
ここ地上では、真の自由とは、強制から自由であることでも、アイデンティティーを選べることでも、善か悪かを選べることでもありません。真の自由とは、全能の天主を知って、天主をお愛しし、天主にお仕えする自由なのです。それは、以下のものです。
・―善を選択することを容易にする、徳の内的な自由
・―善を選択することを保護して奨励する、秩序ある社会の外的な自由
・―善を選択する行為そのもの
私たちは、祈り、苦行、宗教的実践というキリスト教的生活を送ることによって、内的な自由を得ます。私たちは、「カトリック・アクション」によって外的な自由を獲得します。
そして、自由を実践することによって、私たちは「腐敗の奴隷から解放されて、天主の子らの栄光の自由にあずかれる」(ローマ8章21節)のです。
ですから、自由を悪意の隠れ蓑にしないでください。私たちは、天主のみ旨に対する永久の「なれかし」(fiat)で完全な自由を行使された童貞聖マリアのようになりましょう。