ヨハネは生涯、荒れ野で生活し、キリストの到来の準備をしていました。私たちも残る数日、クリスマスを準備して霊的に荒れ野に参りましょう。
洗者聖ヨハネが天主の声を聴いたのは荒れ野でした。ヨハネは生涯、荒れ野で生活し、キリストの到来の準備をしていました。私たちも残る数日を、クリスマスを準備して霊的に荒れ野に参りましょう。痛悔の念が起こるように、その超自然の恵みを祈り求めましょう。
2020年12月20日
小野田神父説教
https://www.youtube.com/watch?v=OBgJNra-yMU
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2020年12月20日、ついに待降節第4主日です。5日目は、人類が長らく待望した主の御降誕です。
カトリック教会は今日も洗者聖ヨハネを私たちに示します。先週は、荒野になりひびく先駆者の声を聞き、私たちは謙遜について黙想しました。では今日は、何を伝えようとするのでしょうか?
1:今日の福音
今日の福音は聖ルカの第3章からですが、それはこのように厳かに始まります。
「ティベリオ・チェザル在位の第15年目、ポンツィオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤ分国王、その兄弟フィリッポがイトゥラヤとトラコニティス分国王、リザニアがアビレネ分国王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネの上に、天主のみことばがくだった。そこでヨハネは、ヨルダンの全地方に行き、罪のゆるしのためのくいあらための洗礼を教えた。それは、預言者イザヤのことばの書に、『主の道を準備し、その小道を正しくせよ。すべての谷はうめられ、山と丘とはみなならされ、曲りくねった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らにされ、人はみな天主の救いを見るであろう』と荒れ野に叫ぶ声がする、と書かれているとおりである」。
洗者聖ヨハネの登場は、救い主の時代が開幕するという、人類史上極めて重要であることでした。ですからもっとも荘厳な宣言でそれが表されています。洗者聖ヨハネについては、その両親とその懐胎、胎内にいるうちからの聖化や誕生についても詳しく私たちに知らされています。聖ヨゼフについて福音書に書かれていることと比較するとその情報量の多さに驚かされるほどです。
オリゲネスによると、旧約はユダヤ人に向けられていたのでユダの王国のことだけが書かれている、例えばイザヤの書の最初には「ユダの王ウズィア、ヨタム、アカツ、エゼキアの時」(1:1)とある、しかし、全世界のための福音では、ローマ帝国のティベリオ・チェザルとユダヤの国々の統治者のことが語られています。当時のユダヤはローマによって、ユダヤの弱体化を目的に、四つに分割されていました。そこでそれぞれに「分国王」がいました。
この歴史的な瞬間に、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネの上に、天主のみことばがくだりました。ヨハネはキリストについて「私は彼を知らない」(ヨハネ1:33)と言っています。しかし天主の御言葉が下り命令します。そこでヨハネは御言葉の「声」となり、「悔い改めの洗礼」を授けます。これは罪の赦しを準備するためでした。ヨハネの洗礼では罪を赦すことはできませんでした。罪の赦しは、イエズス・キリストが制定した洗礼の秘跡を待たねばなりません。しかし、ヨハネは、罪の痛悔の念を起こし、キリストの到来による罪の赦しを準備するように教えていたのです。預言者イザヤに書かれているとおりの準備をしたのです。主が私たちのもとに来られる道をまっすぐに、平らに、きれいに整えよ、と。
つまり、山のような傲慢は、キリストの謙遜によって低められ、実りを付けない丘はキリストのもたらす希望によって実りをつける、ということだとクリゾストモは言います。キリストの到来に逆らう山や丘のような勢力は、砕かれるという意味でもあるとオリゲネスは言います。ユダヤ人以外の異邦人にもキリストへの信仰により聖寵が与えられ、低い谷は高められます。謙遜な人々は天主から恵みを受けるからです。全世界の人々は、天主の救いを見ることになります。
2:洗者ヨハネは、メシアに関する預言の時は来たことを示す
実に、アダムとエワが罪を犯した直後から、いろいろな方法で、いろいろな預言者を通じて、何度も預言されていた救い主が、預言通りに来る時が来ていました。
1)例えば、ヤコブはこう予言していました。「王笏は、ユダを【離れず】、司令の杖は、彼の足の間を離れないだろう、それが属するお方が、全ての民が服従(期待)すべきお方が来るまでは」(創世の書49:10)。
イエズス・キリストは、ユダの家系の王家の子孫で「その王国は終わることがない」お方です。主がお生まれになる時には、ユダヤ人たちは政治的な独立を失いローマの支配のもとにおかれていた時でした。
2)またマラキアは、エルサレムの第一の神殿の崩壊の後の預言で、次に建てられる神殿に救い主が来る、と告げていました。「見よ、私は、あなたたちに使いを送る【これは洗者聖ヨハネで実現しました】。かれは、私の前に道の妨げを除くものである。あなたたちが待ち望んでいる主は、そののちすぐ、聖所においでになる」(マラキア3:1)。
第一の神殿はソロモンによって建設されましたが、紀元前587年にバビロン人たちによって壊されました。その後、神殿は再建され、ヘロデ王のもとでその再建が完成しました。
3)ダニエルの預言(9:24-27)によると「罪悪が終了し、罪が終わり、邪悪が廃止され、永遠の正義がもたらされ、ヴィジョンと預言が成就し、至聖なる者に油が注がれるまで、70週が定められた(短くなった)」とあります。1週を1年と解釈する人もあります。ナブコドノゾルのユダヤ人流刑(前586年)から、キロの勅令による解放(前538年)までが、約70年にあたる、という人もいます。
しかし、1年を1日として数えると1週で7年となり、70週とは、483年から490年の間のことです。ペルシア王のアルタクセルクセス(在位前465年‐前424年)は前445年エルサレムの町の再建を許可しました。エルサレム城壁再建から、キリストの十字架の犠牲による贖いの成就(33年)まで、478年で約70週年にあたると指摘する人もいます。
メシアの家族と生まれる場所
イザヤの預言によると「イェッセ(ダヴィド王の父親)の株から新芽が出、その根からひこばえが芽生え、その上に主の霊が宿る」(11:1)とあります。ところでイエズス・キリストはダヴィドの子孫です。
また「みよ、童貞女が身ごもり、一人の子を産み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう」(イザヤ7:14)ともあります。これは聖母マリア様において成就しました。イエズス・キリストは本性による天主の御一人子ですから、まさにエンマヌエル(天主は私たちとともに)です。
ミケアの預言(5:1)は、イスラエルを支配する者がベトレヘムで生まれると言っています。イエズス・キリストがお生まれになった時、司祭長たちもヘロデ王にこの預言のことを確認して、救い主はベトレヘムで生まれると言っています。イエズス・キリストはその通り、ベトレヘムでお生まれになります。
3:洗者聖ヨハネの「悔い改めの洗礼」
洗者聖ヨハネが天主の声を聴いたのは荒れ野でした。ヨハネは生涯、荒れ野で生活し、キリストの到来の準備をしていました。私たちも残る数日を、クリスマスを準備して霊的に荒れ野に参りましょう。この世の喧騒を避けて、祈りの時間や霊的読者の時間を作るのはどうでしょうか?
悔い改めや痛悔というのは、「後悔」とか「反省」という自然な感情ではありません。聖ヴィアンネ神父様はこう言っていました。
« Il faut mettre plus de temps à demander la contrition qu'à s'examiner. »
「痛悔の念が起こるように、罪の究明よりももっと多くの時間を祈り求めることに使いなさい」。
つまり、痛悔の念は、超自然の恵みなので、祈りで求めなければならない、ということです。痛悔がなければ、告解の秘跡も利益が無くなってしまうのです。アルスの聖司祭も洗者聖ヨハネと同じことを私たちに教えています。せっかくのイエズス・キリストのお恵みも、私たちの痛悔がなければ、その効果を発揮できない、と。
残念ながら、第二バチカン公会議以後、超自然のことがカトリック教会の中でさえほとんど語られなくなってしまいました。例えば、永遠の変わらない真理のこと、天主の正義のこと、聖寵の状態のこと、最後の審判と永遠の天国と地獄のこと、秘跡の大切さのこと、イエズス・キリストと一致して捧げる苦しみの価値と功徳のこと、罪の償いと悔悛のこと、御聖体に対する信心のこと、などです。第二バチカン公会議後、超自然について沈黙するような態度を「司牧的だ」と呼びました。しかし、残念ながら、人々は教会だけでしか聞くことができた真理をもはや聞くことができなくなってしまいました。
その反対に「新しい人間中心主義」を語り始めるようになってしまいました。突然、教会の過去のやり方はあたかも間違っていたかのように、教会は過去と断絶しなければならないというフェイクニュースが流れました。人間を福音の教えに従わせるのではなく、教会の教えは時代にあわせて信仰や道徳を適応していかなければならないという錯覚に陥ってしまったからです。何故なら、天国のことよりも、この地上の世界を楽園にしようと目標を変え始めたからです。天主なるキリストへの礼拝よりは、人間の奉仕のために優先順位を移しました。「なぜ、この香油を300デナリオで売って、貧しい人に施さないのか?」(ヨハネ12章)という態度を取り始めます。その結果、私たちカトリック信者は、永遠に変わらない真理を信ずると口先では言いつつも、福音に対立するこの世と同じような価値観で生活するようになってしまったのではないでしょうか?天主のことを忘れて、この地上の福楽のことだけを、考えるようになってしまったのではないでしょうか?
ところで、私たちはお恵みで第二バチカン公会議の新しい人間中心主義について知るお恵みを得ました。主の御憐みで、新しいミサが人間中心主義に基づいて設計されたことを知りました。洗者聖ヨハネの言葉をこだまさせている、聖伝の教えと聖伝の秘跡の大切さを知る恵みを得ました。しかし、主の御降誕を迎えるにあたって、私たちの生活を振り返ってみると、実際の生活はどうだったでしょうか?天主の御旨を第一に重んじてきたでしょうか?それともこの世との妥協を求めてきたでしょうか?
私たちは今日、洗者聖ヨハネの声に耳を傾けましょう。罪なく生まれてきた洗者聖ヨハネの償いの生活を見ると、天主に対して罪を犯した私たちの「悔い改め」は、どう評価すれば良いでしょうか?私たちの「償いの生活」はどのようなものだったでしょうか?罪がどれほど天主を悲しませるか、をどれほど真剣に黙想してきたことでしょうか?罪をどれほど忌み憎んでいるでしょうか?私たちの祈りの生活はどうだったでしょうか?
聖パウロも今日の書簡でこう書いています。「私を裁くのは主である。…主は、闇に隠れたものをてらし、心の企てをあらわされる」。
先週の主日には聖ヨハネの言葉を聞きました。「あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている。」ユダヤ人たちは、不幸なことに私たちの主を知りませんでした。では私たちはどうでしょうか?私たちの中に来られる方を知っているならば当然そうすべき態度をとるでしょうか?私たちのために来られる主にどのような敬意を払わなければならないでしょうか?例えば御聖体に対して私たちはどのような態度で拝領するでしょうか?私たちはもしも誰かが私たちにちょっとでも敬意が欠けた態度を取ったとすると、傷ついたり憎んだり怒ったりします。店員がお客さんにとる態度が悪い、とか。では、私たちを愛する全能の天主に対して、どれほどの愛と尊敬を払ったでしょうか?あたかも見知らぬかのように無視したのでしょうか?
使徒聖ヨハネは「光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった」(ヨハネ1章)と書いています。待望の正義の太陽が輝き出でたにもかかわらず、ユダヤの民は、私たちを幸せにするために輝く明るい日の光を受け入れませんでした。闇を好んで光を軽蔑したのです。私たちは洗者聖ヨハネの招きに応じて、少なくとも私たちは光を受け入れることができる恵みを祈り求めましょう。特に輝く暖かい光は御聖体においても今でも輝き続けています。
人間となった天主の御言葉が生まれるためには、家もベッドも暖房もありませんでした。全世界の創造主は馬小屋で生まれます。天主は、動物のえさを置くまぐさ桶におかれました。同じ救い主は、御聖体において私たちのうちにお生まれになろうとします。私の霊魂は主を受け入れる準備ができているでしょうか?ベトレヘムの馬小屋よりも汚く、まぐさ桶よりも汚れていて、貧しく、多くの罪だらけなのでしょうか? 拙い私たちの霊魂ですが、愛の主を受け入れることができるために、主の愛に燃えて温めることができるように祈りましょう。
聖母と洗者聖ヨハネの取次で私たちも痛悔の念をこい求めましょう。私たちの心が砕かれて、罪を忌み憎み、超自然の熱い痛悔の涙の水で「悔い改めの洗礼」を受けることができますように。罪への愛着を根こそぎにすることができますように。もちろん、私たちはすでに、洗者聖ヨハネのよりもはるかに優れて効果のある秘跡の洗礼をうけるお恵みを受けました。罪は全て赦されました。しかし、私はこの洗礼の恵みと純潔と罪の無さをどのように守ってきたことでしょうか?
イエズス様!来る御降誕祭においては、主をふさわしく迎い受ける恵みを恵んでください。御身の愛の火で私の全ての汚れを焼き尽くして浄めてください。御身の愛の火を私の心にも点けてください。御身が罪を憎むように私にも罪を憎ませてください。天主を全てに越えて愛させてください。この世の苦しみを、御身への愛のため、罪の償いのため、天主の手から喜んで受けることができるようにしてください。
聖母よ、御身の御子、天主なるイエズス・キリストを私たちに与えてください。
「『主の道を準備し、その小道を正しくせよ。すべての谷はうめられ、山と丘とはみなならされ、曲りくねった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らにされ、人はみな天主の救いを見るであろう』と荒れ野に叫ぶ声がする」