洗者聖ヨハネの登場は、時が満ちたことを教えている。罪を痛悔して主を準備せよ。

ソース: FSSPX Japan

2024年12月22日 待降節第四主日 説教

トマス小野田圭志神父

「主の道を準備し、その小道を正しくせよ。」
 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

【1:時は満ちた】
今日、福音は、荘厳に、いつ、またどこで、洗者聖ヨハネの上に天主のみことばがくだったのか、ということを宣言します。そして、洗者聖ヨハネの声を、私たちに響かせます。これは、教会が、洗者聖ヨハネを通して、これから全世界のために始まる救い主の新しい時代を準備させようとする意向です。どのように準備するかというと、罪を痛悔させ、そしてキリストの到来による罪の赦しを準備するようにという意向です。そして、預言者イザヤの書かれているその言葉が洗者聖ヨハネによって成就された、と福音は告げています。ですから、今日は、特に洗者聖ヨハネの登場・この意味について、また洗者聖ヨハネが準備させたメシアについて、ではわたしたちはどのようにしてクリスマスを準備するべきか、洗者聖ヨハネは何をわたしたちに訴えているのか、この三つを一緒に黙想いたしましょう。

第一に、洗者聖ヨハネの登場は、「時が満ちた」ということを意味しています。「メシアに関する預言が成就した」ということを指し示しています。

これについてはいろいろありますが、たとえば預言者マラキアは、エルサレムの第一の神殿が崩壊した後に、預言しました。「ソロモンが建てた神殿が崩壊したのちに、次に建てられる神殿において、救い主が来る」と告げていました。マラキアはこう言っていました。「見よ、私は、あなたたちに使いを送る【この預言は洗者聖ヨハネによって実現しました】。かれ【使いのことです】は、私の前に道の妨げを除くものである。あなたたちが待ち望んでいる主は、そののちすぐ、聖所【つまり再建されるべき神殿】においでになる。」(マラキア3:1)
実際、その当時、ヘロデ王のもとでエルサレムの神殿は再建されました。すでに時が来ているということを示していました。

ダニエルの預言(9:24-27)にも、同じような預言があります。「悪が終わって救い主の来るまで70週が定められた」と。実際、ペルシアの王アルタクセルクセス(在位前465年‐前424年)が、紀元前445年にエルサレムの町を再建してもよいとユダヤ人たちに許しました。ユダヤ人たちの捕囚の旅が終わって、エルサレムに戻ってよいと、許可が出ました。その時から、十字架の贖いの成就(33年)まで、約70周年になります。70周年というのはどういうことかというと、一年を一日として考えると70周年は490年に相当する――ちょうどその頃がまさに70周の年でした。

【2:クリスマスとは?】
では、時が満ちた…時が満ちたがゆえに出て来た洗者聖ヨハネは、いったいどなたを受けるために準備させようとしていたのでしょうか。つまり、洗者聖ヨハネを通して教会が準備させようとしているクリスマスとは、いったい何なのでしょうか。

クリスマスとは、皆さんも私もよく知っています。約束された救い主メシア、あるいは油を注がれた方キリストが、預言をすべて成就させて本当に歴史上来られた、ということを祝う日です。

この預言というのは、預言者がこのようなことが起こるだろうと述べたことですけれども、いろいろな預言がありました。

たとえば、イザヤの預言によると、ダヴィドの家系から救い主が生まれる、あるいは童貞女から生まれる、と預言されていました。「みよ、童貞女が身ごもり、一人の子を産み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう」(イザヤ7:14)。あるいは「イェッセ(つまりダヴィド王の父親)、イェッセの株から新しい芽が出て、その根からひこばえが芽生え、その上に主の霊が宿る。」(11:1)などなど。

またミケアの預言(5:1)もありました。「イスラエルを支配する者がベトレヘムで生まれるだろう」と。

実際、イエズスさまはダヴィドの王家の子孫です。イエズス様の御母聖マリアは終生童貞の御方でした。イエズス・キリストは、ほんとうにベトレヘムでお生まれになりました。

このような客観的な事実は、旧約の預言が全てイエズス・キリストにおいてピタリピタリと成就していると指し示しています。預言だけではありません。旧約の出来事それ自体が、救い主に関する前兆(かたどり、あるいは前印)でありました。前兆というのはどういうことかというと、預言のように言葉ではなく、出来事それ自体が来るべき救い主を示していたのです。この旧約の前兆は、あれも、これも、どれも、これも、すべてイエズス・キリストによって実現します。言い換えると、イエズス・キリストのなさったことを理解すると初めて旧約の深い意味が理解でき、旧約を理解すると新約がよく理解できる、ということなんです。

洗者聖ヨハネが来られた…その洗者聖ヨハネが準備しようとしているその方をよく知れば知るほど、2024年前の12月24日と25日の間の真夜中にベトレヘムでその馬小屋でマリアさまからお生まれになったそのお方こそ、まさに人となった天主の御言葉、全宇宙を創造しそして掌(つかさど)っておられる真の天主、人類が待望していた待ちに待っていたほんとうの救い主と言わなければなりません。だからこそ、洗者聖ヨハネは、この方を受けるのを準備させようと、天主のみことばを受けたんです。そしてその方をわたしたちが受けることができるように、準備のために、「罪のゆるしのための悔い改めの洗礼」を教えていました。そして、カトリック教会は、今日、福音を通して、洗者聖ヨハネを通して、私たちをも悔い改めるようにと招いています。

【3:悔い改め】
では最後に、洗者聖ヨハネの招きに従って、この悔い改め、あるいは悔悛(poenitentia)ということを黙想して、この今日のお話しを終わります。

悔悛とは、罪を忌み憎むことです。トリエント公会議の公教要理によると、こうあります。「心の底から天主に立ち返り、犯した罪を心から忌み嫌い、同時に天主の御あわれみによって罪の赦しを得ようとの希望のもとに、悪癖や腐敗した生活態度を改めることを固く決心すること」。ここには主に二つの要素があります。天主に立ち返り犯した罪を忌み憎む、そして同時に生活態度を改めようと固く決心する。ですから、悔悛というのは、たんなる「後悔」とか「反省」ではありません。この悔悛の「罪を忌み憎む」というところだけを見ると、カトリックの用語ではこのことを「痛悔」と呼んでいます。「痛悔」というのは、ラテン語でcontritioといって、これは何を意味するかというと、石が砕かれて、粉々になる、粉砕されるということを、contritio と言います。何を意味するかというと、わたしたちの冷たい石のような心が、頑なな心が、罪を犯した心が、「天主を悲しませた、侮辱した」ということを悔やんで、その罪を忌み憎んで、それで心が粉々にくだかれること――これを痛悔と言います。

聖ピオ十世の公教要理によると、この痛悔がよいものであるためには四つの条件がある、と言っています。それによると、痛悔は、内的でなければならない、超自然的でなければならない、最高でなければならない、また普遍的でなければならないとあります。

●内的というのは、ただ口さきだけのリップサービスではなくて、心から、意志から出る痛悔だということです。つまり、罪によって天主から離れてしまったわたしたちの意志が、被造物に愛着してしまっている意志が、犯した罪を忌み憎むことによって天主にたち戻る、ということです。「内的な痛悔」。

●超自然の痛悔というのは、これは天主の聖寵によって痛悔の念を起こすということです。そして、信仰に動かされて痛悔を持つということです。ですから、さきほど反省とか後悔しているのではないと申しましたが、ただ他の人から恥を受けたとか罰を受けたとか、恥ずかしいとか、現世的なこの利益を損したとかあるいは害を受けたから後悔しているのではなく、わたしたちは「無限に善であるすべての人に愛されなければならない天主を悲しませてしまった、侮辱してしまった」がゆえに、その罪を悔い憎むということです。つまり、さらに言えば、信仰に動かされて、「罪を犯すことによって天国を失う身分となってしまった、あるいは地獄に価する者となってしまった、この罪そのものの醜さを恥じる」がゆえに、わたしたちが罪を痛悔することです。「超自然的の痛悔」。

●第三に、公教要理は、痛悔は最高のものでなければならないと言います。「最高」というのは、罪が最高の善である天主への侮辱であるので、罪をあらゆる悪のうちに最も最大の悪として考えるということです。わたしたちはともすると、癌になった、病気になった、愛する人を失ってしまった、事故にあった、あるいは何か財産を失ってしまった、という時に非常に残念に思います。しかし公教要理によれば、どのような苦しみ災いを悲しむ以上に、真剣に、わたしたちは罪を最高の悪だとして痛悔しなければならないと教えられます。

●では、普遍的とは何かというと、痛悔の念は犯したすべての大罪に及ばなければならないという意味です。つまり、あの罪とあの罪とあの罪は痛悔するけれども、でもお酒の飲みすぎだけは…などと、一つだけ例外を作るということはできないということです。何故かというと、たとえたった一つであったとしても、大罪を悔まないでいるならば、天主の敵のままでいるということだからです。すべての罪を悔い憎む「普遍的」な痛悔の念を起すということです。

今日、聖ヨハネの声を通して、教会はわたしたちに、内的で、超自然で、そして最高の、普遍的な痛悔の念を起すようにと招いています。

福音史家使徒聖ヨハネによると、「光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった」(ヨハネ1章)とあります。いったい何故でしょうか。なぜかというと、かれらは闇を――罪を好んで光を憎んでしまったからです。

わたしたちは今日洗者聖ヨハネの招きに応じて、この本当の光、天主の光を、救い主を、わたしたちのために生まれる救い主、イエズス・キリストを、この世の光を受け入れることができるように、お恵みを請い求めましょう。そのためにこそ、洗者聖ヨハネの御取次によって、痛悔の念を起すことができるようにお祈り求めましょう。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様の御取次でわたしたちが心を粉々に砕いて、罪を忌み憎んで、内的で超自然で最高の普遍的な痛悔を、熱い痛悔の心を起こすことができるように、そして罪への愛着を根こそぎにすることができるようにお祈りいたしましょう。

「主の道を準備し、その小道を正しくせよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。