新約の司祭の尊厳「あなたたちが見たことを見る目は、しあわせである!」

ソース: FSSPX Japan

2025年8月31日 聖霊降臨後第12主日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)、北海道(札幌)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、私たちの主イエズス様は、ある律法の専門家に質問されました。

「永遠の命を受けるにはどうしたらいいのか 」と。

すると、イエズス様は彼に訊きます。「律法には何と書いてあるのか?」

「心を尽くし、力をつくし、精神をつくし、全てをつくして天主を愛する。そして隣人を自分のように愛する」と彼が答えると、イエズス様はおっしゃいました。「まさにそれだ、よく答えた。それを行え」と。

すると、この律法学士は「じゃあ、隣人とは一体誰ですか」と尋ねるのです。

その時、イエズス様はこんなたとえを話されました。

ある人が、イエルザレムからエリコに旅をしていると、強盗に遭い身ぐるみ剥がされ、半死半生でそのまま打ち捨てられてしまった。その傷ついた、もう死にかけている人を見て司祭が通った。けれども、司祭はそれを見て知らん顔をして、その脇を通り過ぎていってしまった。

次にレヴィ人がやってきた。レヴィ人も気づいたけれども、そのまま通り過ぎてしまった。すると、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人がやってきて、彼を見て憐れに思い、彼を介抱しようと近づいて、ぶどう酒をかけ傷口を洗って油を塗り、そしてロバに乗せ、彼を宿屋まで連れて行って世話をした。翌日、宿屋の主人に、

「さあ、ここにお金が二デナリオあるから、これを使ってこの人を介抱してやってくれ。 俺はまた別のところに行かなければならないから。でもまた帰ってくる。そうしたら、必要だった経費を全て払うから。さあ、すべてやってくれ。お金に糸目はつけない。さあやってくれ」 と。

そういう話をしました。今日は、私たちの主が語ったこの福音のたとえを通して、新約の司祭の尊厳と偉大さについて、一緒に黙想いたしましょう。

【1:旧約の司祭職の無力さ】

まず、主は旧約の司祭の無力さについて語ります。主がたとえで語った「イエルザレムからイエリコにくだる道で強盗に遭い、傷つけられて半死半生になった人」とは、原初の義の状態(イエルサレム)から、罪を犯して滅び(イエリコ)へと向かう人類を意味しています。何故かというと、イエルサレムとは天主の神殿のある場所で、イエリコとは娼婦の町として有名なところであるからです。

つまり、天主の神殿であるイエルサレムからイエリコへ向かうとは、聖なる町から罪の町へ行くこと、すなわち義の状態から罪の状態に向かう私たち人間の姿を表しています。この人類を襲った強盗とは、悪魔のことです。聖徳と聖寵の衣をはぎ、罪を犯させ、大罪という霊的な死の状態にし、そのまま放って立ち去ってしまうからです。悪魔は最初から嘘つきで、人間を霊的に殺そうとしています。

また、通りかかったけれども見て見ぬふりをして、道の反対側を通ってすぎ去ってしまった「司祭」と「レヴィ人」とは、旧約の司祭職のことを意味しています。レヴィ人(レヴィ族の人)とは、イスラエルの12部族の一つで、ヤコブの12人の子供たちに由来します。ヤコブの子供のうちの一人、レヴィから生まれた子供たちがレヴィ族です。ヤコブの子供たちは、イスラエルの土地のテリトリーを遺産として受け継ぎましたが、レヴィ族だけはその土地を譲り受けず、ヤーウェの神殿、ヤーウェの幕屋に仕える部族となりました。ですから、レヴィ族は特別、神殿に与えられるそのお金を生活費に充てることができるようになりました。レヴィ族の中から特別にヤーウェによって選ばれ、アアロンは最初の大司祭となり、またその子孫、特にその長男は最初の司祭となります。言い換えると、旧約のすべての司祭(アアロンとその子孫たち)はレヴィ人ですけれども、すべてのレヴィ族が必ずしも司祭とは限りません。レヴィ族の中から、アアロンの子孫だけが司祭となります。司祭の役割は、神殿や幕屋で香を焚き、そなえのパンを交換し、いけにえの動物を屠って捧げることでした。レヴィ族のうち司祭でない人たちは、神殿に関するいろいろな仕事をして、司祭の仕事を手伝っていました。いけにえの準備をし、幕屋を動かし、いろいろな雑務を行なっていました。

ところで、司祭の中にもたった一人、生涯にわたって選ばれた大司祭がいました(後に、これはなくなります)。アアロンが、大司祭となった最初の男性でしたが、大司祭だけが行う特別な儀式もありました。それは年に一度、大司祭だけが、自分と民のさまざまな罪とのために動物を屠り、その血を捧げるために携えて、至聖所という幕屋の中のもっと奥(第二の幕屋)に入りました。そしてそこで、その血を祭壇に振りかけていたのです。

至聖所とは、大司祭だけが入ることのできる、特別に聖なる場所であり、他の人は一切、足を踏み入れることが許されませんでした。

確かに、旧約とは、真の天主ヤーウェからのものでした。旧約の司祭たちは、天主によって特別に現れた家系のものでした。しかし、本当の救い主を予告する影に過ぎませんでした。聖パウロが今日の書簡で言うように、旧約とは石に刻まれた文字であって、罪に傷ついている人類に何もすることはできませんでした。また、聖パウロは「文字は殺す」とさえ言っています。 これは、旧約が直接に霊魂を殺すという意味ではなく、間接的な罪の機会(霊魂を殺してしまう機会)になるという意味です。聖パウロはこう言っています。

「なぜなら律法によって罪を深く知るだけだから」(ローマ320)と。

言い換えると、旧約の律法とは「罪を定める」(コリント後39)、つまり「これは罪だ」と罪に関する知識を与えることはできても、情欲を制御することはできませんでした。禁じられたので、かえって情欲に火がついて、情欲を増加させる機会となることもあります。聖パウロの言葉を引用します。

「私は、律法によらずには、罪を知らなかった。律法が「むさぼるな」といわなければ、私はむさぼりを知らなかった。しかし罪は、掟の機に乗じて、私の中にさまざまのむさぼりを起こした。罪が、掟の機に乗じて私をいざない、それによって私を殺した」(ローマ78

また、律法が「これが罪だ」と定め、罪の情欲を醸し出すのみならず、「自然法に反する」と、はっきりと書かれているのを知りつつその罪を犯すのは、単に暗黙のうちに、自然法に反する罪を犯すよりもさらに重大な罪となります。知っていながら罪を犯すからです。ですから、旧約の律法は情欲を増し、罪の重さを増加させ、さらに情欲を制御することさえできなかったのですけれども、律法それ自体は悪ではありませんでした。何故かというと、律法は「悪を起こしてはならない」と悪を禁止していたからです。ただ、律法は、悪の根源を取り除くことができなかったので、不完全なものでした。ですから、言ってみると、旧約の律法とは、罪の状態にある人類を見ながら、「これは罪だ、惨めな人間だ、罪人だ、(霊的に)死んでいる」と、その惨めさや憐れさを認識しながら、何もすることができずに通りすぎていってしまうようなものでした。聖霊が心の内に働かないような律法は、死の機会となってしまいました。ですから、聖パウロは「文字は殺し、霊は生かす」と言います。

この「罪を定める」律法に仕えていたのが、旧約の司祭職でした。 確かに、旧約の司祭職は、真の天主の真の司祭職であったものの、不完全で全く無力なものでした。この旧約の司祭職は、私たちのイエズス・キリストの新約の完全な司祭職によって完成させられ、廃止されて取り替えられます。

【2:新約の司祭職】

では今度は、新約のイエズス・キリストの司祭職を見てみましょう。半死半生の人類にとって、息も絶え絶えに、このまま死んでしまうのかと思っていた私たちにとって、良きサマリア人が、道の近くを通って助けてくれたのは、どれほど幸せなことだったでしょうか! この憐れんで近寄ってきてくださったサマリア人とは、イエズス・キリストのことです。皆さんもよくご存知の通りです。何故かというと、永遠の天主は、私たち罪人を憐れみ、私たちに近づいて人間となってくださったからです。イエズス・キリストこそ、人類が待ち望んでいた本当の大司祭です。聖パウロは言っています。

「キリストは、将来の恵みの大司祭としてこられた」(ヘブレオ911

また、聖パウロは、ヘブライ人への手紙の中でこうも述べています。主は永遠の大司祭として「人の手でつくられなかったもの、つまり世がつくったものではない、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、自分自身の血をもって、ただ一度だけで永久に至聖所にはいり、永遠のあがないをなしとげられた」(ヘブレオ911-13

言い換えると、イエズス・キリストだけが、大司祭として、天国という至聖所に入ったのです。

そして、主は今でも、天国の至聖所から、新約のミサ聖祭(新約のいけにえ)で、私たちのミサ聖祭を通して、私たちの罪の傷口に天主の御血を注がれて赦し、癒そうとしてくださいます。何故なら、ミサ聖祭とは、天主の御子の十字架のいけにえの再現であるからです。御血のぶどう酒で罪を洗い、赦します。これは、キリストの十字架で流された御血です。また、イエズス様は、新約の七つの秘蹟を通して聖寵を与え、聖霊の賜物という油を私たちに塗油し、罪の傷を癒します。また、包帯という主の教え・愛の掟は、私たちを保護します。

すでに預言者エレミヤは、新しい契約について預言していました。

「主は言い給う。見よ、その日がくるだろう。その時私はイスラエルの家とユダの家に新しい契約を結ぶだろう。これは彼らの先祖とした契約のようではない。私の掟を彼らのはらわたに与え、彼らの心に書き記し、私は彼らの天主となり、彼らは私の民となるだろう。」(エレミア3131-33

Sed hoc erit pactum quod feriam cum domo Israel post dies illos, dicit Dominus : dabo legem meam in visceribus eorum, et in corde eorum scribam eam, et ero eis in Deum, et ipsi erunt mihi in populum.

旧約とは、言葉による言葉の契約でした。何故かというと、旧約は、巻物に書かれその上に血が振り撒かれたからです。聖パウロはこう言っています。

「モイゼは、律法にしたがってすべての掟を全人民に告げてから、子牛と牡山羊の血と、水と、緋色の毛と、ヒソプとをとって、巻物とすべての民にそれをそそぎかけ「これは天主があなたたちと結ばれる契約の血である」といった。」(ヘブレオ919

それに引き換え、新約は聖霊の契約です。聖パウロが言うように「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたから」(ローマ55)です。動物の血ではなく、天主の愛(聖霊)が私たちの心に注がれています。愛徳とは、掟の充満であり完成です。聖霊が、私たちの霊魂に愛徳という愛の炎を注ぎたもうとき、旧約のような書かれた文字ではなく、命を与える聖霊が与えられ、新しい契約が結ばれます。聖パウロの言うこれこそが「キリスト・イエズスにおいて命をあたえる霊の法(霊の掟)」(ローマ82)なのです。ですから、罪によって傷ついた私たち人類にとって最も必要だったのは、聖霊を与えない不完全な旧約の律法ではなく、心に愛徳を生み出して命を与える聖霊の法(法律・掟)こそが必要でした。主の言われる通り「生かすのは霊である」(ヨハネ663)からです。

旧約の司祭職は、もはや存在していません。影は実体によって廃止されました。イエズス・キリストの唯一の司祭職に取って代わったからです。この良きサマリア人であるイエズス・キリストこそが、私たち人類を癒すために、教会という宿に連れていきます。また、新約の大司祭であるイエズス・キリストは、 教会の聖職者たちに、罪人の世話をするようにと依頼し、委ねました。私たち罪人の介護をキリストから委ねられた真のカトリック教会は、主から与えられた二デナリオ、すなわち秘蹟やミサ聖祭を通して罪人の罪が赦され、癒されて、霊的に健康になるように務めるのです。それが主のお望みです。

宿屋の主人、つまり、キリストの教会の奉仕者であるカトリック司祭たちは、キリストの司祭職とは別の司祭職を持っているわけではなく、イエズス・キリストの司祭職に参与しており、同じ司祭職をイエズス・キリストと分かち合っています。何故かというと、カトリック教会の司祭たちは、イエズス・キリストのペルソナにおいて、第二のキリストとして行動するからです。何故ならば、司祭たちの霊魂には、叙階の秘蹟によって、決して消すことのできない、イエズス・キリストの司祭職の霊の刻印が刻み付けられるからです。

ですから、新約のカトリック教会の司祭たちは、イエズス・キリストから与えられた手段によって、救霊(霊魂の救い)のために奉仕します。地球の保存のために、環境保存のために奉仕するのではありません。つまり、新約の司祭は、旧約のような動物ではなく、人となられた天主イエズス・キリストご自身を祭壇において日々捧げます。旧約時代の司祭のように、いけにえを捧げて終わるのではなく、新約の司祭は、イエズス・キリストにならい、イエズス・キリストと一つになって、心を込めて、また聖霊によって与えられた愛徳によって、自分自身をもいけにえとして捧げます

新約の司祭たちは、法や律法の字面(じづら)に奉仕するのではなく、イエズス・キリストの司祭職と一致して、法の精神や法の目的、つまり救霊(霊魂の救い)のため、霊魂の聖化のために奉仕します。罪を犯し、霊的な傷を負って半死半生の人類に、カトリック教会が私たちの主から受けて、二千年間やりつづけてきた聖伝のミサ聖祭、また聖伝の秘蹟、聖伝の教えで奉仕するのです。これこそ、霊魂を生かすことができるからです。

【3:新約の奉仕の栄光】

では最後に、旧約の司祭職と新約の司祭職を少し比較して、司祭の尊厳について考察してみましょう。罪に苦しむ人類を見ても、全く無力で何もできず、道の反対側を通り過ぎるような、旧約の空しい司祭職は「石に刻まれた死の奉仕」でした。しかしながら、聖パウロは言っています。この「死の契約」に対する奉仕でさえも、栄光に輝いていたと。何故かというと、脱出の書(出エジプト)によると、モイゼの顔は光り輝き、頭から光線が角のように出ていたと描写されています。その輝きはあまりにもまぶしく、イスラエルの子らは、とてもではないが「モイゼの顔の光栄を見つめていることができなかった」ほどで、モイゼはいつも顔に覆いをしていなければなりませんでした。

もしも「死の奉仕」がそれほどの栄光に満ちていたならば、新約の司祭職はどれほどでしょうか。新約の司祭職は、聖霊によって心に刻まれた命の奉仕です。聖パウロは叫んでいます。「まして霊の奉仕はどれほどの光栄であろうか!」と。

旧約の奉仕が死のためであれば、新約の奉仕は、霊魂に命を与えて霊魂を聖とする義のための奉仕です。この奉仕によって私たちに聖霊が与えられ、私たちの聖化と聖徳が完成されるからです。旧約の奉仕は、何が罪であるかを知らせる断罪の奉仕でしかありませんでした。文字は殺し、霊は生かします。ですから、聖パウロは、新約の司祭職の尊厳についてこう論じています。「罪を定める奉仕が光栄なら、まして、義の奉仕は栄光にあふれるばかりであろう」と。

良きサマリア人であるイエズス様は、宿の主人にこう言います。「私が帰るとき払います」要するに「お礼は、私が後で十分に支払いましょう」と。すなわち、主がこの世を裁くために、栄光の姿で再び来臨されるとき、主は、忠実な聖職者たちを非常に寛大に報いたもうということです。主は、どれほど偉大な栄光で、聖なる聖職者たちを報いてくださることでしょうか。

【4:遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

今日、私たちは、新約の司祭職がどれほどの栄光に輝くものか黙想しましょう。そして、日本の多くの若者たちが、この栄光の司祭職への召命を受けることができるよう、特別にお祈りいたしましょう。私たちは、新約の司祭たちがどうしても必要です。救霊のため、永遠の命を得るために、どうしてもカトリック司祭が必要です。何故かというと、新約の司祭であるカトリック司祭たちを通して、私たちに多くの恵みを与え、永遠の命を与えようと、主がお望みになっているからです。これこそが、私たちの主のご計画であり、宿屋の主人に任せた主のご依頼だからです。聖なる多くの司祭たちが私たちに与えられますように、そして日本から輩出されますよう、マリア様にお祈りいたしましょう。

また、今日は初聖体をする子供(小さなお友だち)もいますし、皆さんは御聖体を拝領なさいます。新約の私たちは、どれほど恵まれていることでしょうか。御聖体を拝領することによって、永遠の大司祭、永遠のいけにえである天主の子羊、そして、私たちを完全に癒し、完全に聖なるものとすることがおできになる「良きサマリア人」を、私たちの胸にお受けできるからです。主イエズス・キリストは、見て見ぬふりをして通り過ぎるのではなく、私たちの心に来てくださいます。

マリア様にお祈りいたしましょう。御聖体を知り、見て、御聖体を拝領することができる私たちがどれほど幸せであるか、恵まれているのかをよく理解して、主に感謝を捧げることができますように。また、マリア様に御取次を願い、私たちが良い心の状態で、イエズス様をふさわしく拝領することができますよう、そのお恵みを請い求めましょう。

「旅の途中でそこを通りかかった一人のサマリア人が、それを見てあわれに思い、そばによって油とぶどう酒とを傷口にそそぎ、包帯して、自分のろばにのせ、宿につれて行って介抱した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。