心の貧しい人はしあわせ、柔和な人はしあわせ、悲しむ人はしあわせ

ソース: FSSPX Japan

山上の垂訓

2024年11月1日(初金)諸聖人の祝日ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。
柔和な人はしあわせである。かれらは地をゆずりうけるであろうから。
悲しむ人はしあわせである。かれらは慰めをうけるであろうから。
正義にうえかわく人はしあわせである。かれらは飽かされるであろうから。
あわれみのある人はしあわせである。かれらもあわれみをうけるであろうから。
心の清い人はしあわせである。かれらは天主を見るであろうから。
平和のためにはたらく人はしあわせである。かれらは天主の子らと呼ばれるであろうから。
正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は諸聖人の大祝日で、天国にいるすべての聖人たちを、わたしたちがその名前を知らないそして数え上げることもできないほどの多くの聖人たちを、祝っています。

聖人たちは、わたしたちの主の教えに従ってこの世で生活を送って来ました。だからこそ天の国にたどり着いて、天国で、聖人たちは永遠に続く究極の幸福(しあわせ)をいま味わっています。

わたしたちの主の教えは、至福八端にまとめることができます。それが今日の福音です。今日はこの至福八端について黙想しましょう。特にその最初の三つについてお話ししたいと思います。

【1:人生の目的】
しあわせ・幸福――これこそがわたしたち人間の生(せい)の究極の目的です。わたしたちの幸せは、被造物が与えることはできません。なぜかというと被造物には限りがあるからです。しかし、わたしたちは、いつまでも続く、飽きることがない、そして尽きせぬ喜びと幸福を求めています。もしもわたしたちが幸せにしていたとしても、それが明日終わってしまうとしたらば、一体それがどれほどの幸せでしょうか。永遠の無限の天主だけが、わたしたちに本当の幸せを与えることができます。

よく子供たちは幸せだと言われます。何故かというと希望に満ちているからです。私たちも、本当の幸せへと正しく歩んでいるならば、天主の助けと憐れみとによって、究極の幸せを得ることができると希望し、そして、すでにこの地上で「しあわせだ!」と言うことができます。

ところで、年端の行かないような子どもたちに「親に頼らずに生きてみろよ!」というのは、現実を知らない愚かな言葉です。子どもたちにはそのようなことはできません。

それと全く同じことが、私たち人間にいうことができます。わたしたちを愛する親の親であるような天主から、わたしたちはけっして独立あるいは自立して生活することはできません。そのようなことを試みるのは、愚かさの極みです。

もしもわたしたちが本当に幸せであろうと思うのならば、それは、本当の幸せは、わたしたちの理性や自然の力だけでは到達することは到底不可能です。

至福八端で、主が「しあわせである!」と言われます。これは、‟天国で完成された報いを与えられたとき幸せである”のですが、それと同時にある意味では、‟わたしたちがこの世で得る本当の幸せの始まり、完成してはいないけれども、至福の始まりである“ということができます。ですから、その幸せを、わたしたちは今この地上で、始めることができるわけです。
 
【2:幸福(しあわせ)に到達するために】
では最初の三つの幸せについて、至福八端の三つについて見てみます。
この三つは、イエズス様が、ある人たちが持っている幸福についての誤解を何とか解こうとするものです。

●ある人々は、自然の自分の欲望に従って、物質的にあるいは肉体的にあるいは官能的に快楽を受けることが幸せだ、と勘違いしています。でも、これは間違っています。何故かというとそのようなものは、束の間で儚(はかな)くアッという間に消え去ってしまうからです。それに愛着してしまうと、本当の永遠に続く幸せを受くることができなくなってしまいます。

●では、この本当の幸せを邪魔するようなものは、どんなものがあるでしょうか。二つあります。
(1)一つは、外的なもので、物質的な富やあるいは名誉です。
(2)もう一つは、自分のなかからある情念です。パッションです。わたしたちの主はこの二つを取り除こうとします。

●(1)外的なもの・物質的な富や名誉――これをまず取り除こうとして、これを軽蔑して、これから離脱して、ますますそれらから心を離すように、謙遜になるように、と招いておられます。
「心の貧しい人はしあわせである」と。そして主はその報いとして、こう約束されます。
「天の国はかれらのものである」と。ですから、‟天主において、天の国において、本当に良いものを豊かに与えられるだろう“と約束されます。

●(2)もう一つの邪魔物は、自分の情念です、パッションです。これは何かというと、怒りとかあるいは情欲です。怒りについていうと、残酷あるいは憐みのない人、このような怒りです。このような人々は、自分の邪魔するような人を敵だと思って、できればそれを暴力であるいは何かで破壊して取り除いて、そして自分の安全を守ろうと自分の思い通りにしようとします。でも、イエズス様は、怒りではなくて、理性の命じる規制に従って、また、天主の御旨に従って、行動するようにと招いておられます。
「柔和な人はしあわせである」と。
そしてその報いとして、海のように荒立ったこう怒りにまかせたこの世ではなく、しっかりとした大地のような永遠の善、落ち着いた心のような大地のようなものを約束されます。そしてついには平和な土地の所有を約束されます。「かれらは地を譲り受けるだろう。」

●(3)では、その他の情念・情欲・永遠の幸せを邪魔するようなもの――これはどうしたらよいでしょうか。イエズス様は節度あるやり方で、もしも必要ならばこの情欲を無視するように、あるいは情欲に逆らっても、悲しいことも辛いこともそれをあえて選んで、主のみ旨を果たすように、行動するように、と招いてこう言われます。
「悲しむ人はさいわいである」と。
そしてその報いとして、この世の快楽と情欲の誘惑から解放されることも約束されています。「かれらは慰めを受けるであろう。」と。

【3:天主の子と呼ばれるだろう】
そして主はさらに幸せの至福八端を続けられますけれども、その報いを見ると、その報いがだんだん大きくなっていることがわかります。最後には「彼らは天主の子と呼ばれるだろう。」と。「平和のために働く人はしあわせである。彼らは天主の子と呼ばれるだろう。」と。

すると…天の国を単に所有するだけではなく、永遠の善を平和に譲り受けるだけではなく、天の王国を苦しんで所有するのではなく慰めのうちに受けて、しかも慰めに飽かされるほど豊かに受けて、しかも憐れみによって報いを遥かにおおく溢れるばかりに受けて、そしてさらに天の王国で王の御顔をそのまま観て、しあわせであるのみならず、王国で最も高い地位に就くだろう、天の王の子どもと呼ばれるだろう、その地位にまで挙げられるだろう…と約束されています。

【4:遷善の決心】
天国にいる聖人たちは、この世の苦しみのなかで、至福八端に従って、そして主の憐れみと助けと聖霊の賜物とによって、わたしたちと同じか弱い人間でしたが、天の最も高い地位について天主の子どもたちとして、いま至福を楽しんでおられます。

そればかりではありません。この天の聖人たちは、同じ父なる天主のもとでわたしたち兄弟姉妹のために、地上にいるわたしたちのために、祈りで、熱烈な祈りで取り次いで下さっています。わたしたちが天国にたどり着くことができるようにと、祈って見守ってくださっております。

わたしたちも諸聖人に倣って、諸聖人の御取り次ぎによって、諸聖人のいる天国にたどり着くことができますように、そして、永遠にそれと同じ幸福(しあわせ)を味わうことができますように、霊魂を救うことができますように、取り次ぎをお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。