五旬節の主日の説教―霊的な盲目(2026年、大宮)

ソース: FSSPX Japan

十戒を授かるモーゼ

五旬節の主日の説教―霊的な盲目(2026年、大宮)

2026年2月15日 ブノワ・ワリエ神父

五旬節の主日の説教―霊的な盲目(2026年、大宮)

「主よ、見えるようにしてください!」(ルカ18章41節)。

親愛なる兄弟の皆さま、

霊的な盲目について、少し思い巡らしてみましょう。そうすれば、同じように苦しんでいる人々も、「主よ、見えるようにしてください!」と叫ぶことができるかもしれません。

イスラエルの民がエジプトの奴隷として苦しんでいたとき、彼らは天主に救いを求めて、絶えず叫んでいました。すると、天主は彼らの祈りに応えられ、ファラオを強いて彼らを解放させられました。その後、天主は彼らに紅海を渡らせ、砂漠へと導かれました。その砂漠で天主は、良き父親のように、豊富な食べ物と、渇きを癒やす新鮮な水を与えられました。

彼らは天主にどれほど感謝すべきだったでしょうか! しかし、彼らはその感謝の念を示したでしょうか。

モーゼがシナイ山へと呼ばれたとき、イスラエルの民は集まって食べたり飲んだりし、浮かれ騒ぎました。彼らは、自分たちの友となってくださった天主のことを全く考えませんでした。彼らは金の子牛をつくって崇拝したのです。

これが、盲目ではなかったでしょうか。何が彼らを盲目にさせたのでしょうか。それは罪でした。

罪が原因で、人は天主を忘れ、天主にお仕えするのを怠り、霊魂の救いのことを気に掛けなくなり、ついには永遠の滅びへと陥るのです。

私たちは、この霊的な盲目にどれほどひどく苦しめられているでしょうか。

天主は私たちを、恩寵によっても祝福してくださいました。天主は私たちに、命、強さ、心と体の能力を与えてくださいました。天主は、私たちを教会の子とされ、救いの手段を差し出してくださいました。

私たちは、天主の慈しみに感謝しているでしょうか。私たちは、自分の体の能力と霊魂の能力を、天主への奉仕に用いているでしょうか。私たちは、教会の恩寵という手段を、自分の救いのために用いているでしょうか。

ああ、まるで天主が存在しておられないかのように、無頓着な生活を送り、食べて飲んで、浮かれ騒ぎ、好きなように考え行動する人々がたくさんいます。彼らは、まるで天主が、「生ける人と死せる人とを裁」(信経)くお方ではないかのように、「(悪人は)永遠の刑罰を受け、義人は永遠の命に入るであろう」(マテオ25章46節)と、それぞれの行いに応じて報いを与えるお方ではないかのように、天主を侮辱しているのです。

母なる教会は、繰り返し警告を与えていますが、多くの場合、それは無駄に終わっています。霊的に盲目の人々は、なげかわしい状態、つまり、酩酊、好色という金の子牛や、その他の形の悪魔の友の状態に留まることを選ぶでしょう。

ああ、それこそが、霊的な盲目という悪の力です。「悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ者、闇を光に変え、光を闇に変える者、苦いものを甘くし、甘いものを苦くする者に、災いあれ」(イザヤ5章20節)。

天主は時には、そのような人々を扱う際に、厳しい手段に訴えられます。傲慢な王であるファラオは、しばしば「私は主を知らない」と言っていました。しかし、天主の御手がファラオの上に臨んだとき、ファラオはモーゼとアロンに、自分を悪から救うよう天主に祈ってくれるように懇願しました。天主が私たちに送られる逆境によって、私たちが霊的な盲目から癒やされて、徳の道に戻ることができるならば、それは私たちにとって幸いなことです。しかし、私たちが天主の恩寵に協力しないなら、悔い改めないユダヤ人たちにキリストが語られた言葉が、私たちに当てはまるかもしれません。「天主は彼らの目を盲目にされ、心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見えず、心で悟らず、回心せず、私が彼らを癒やさぬようにするためである」(ヨハネ12章40節)。

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの過去および現在の生活を振り返りましょう。罪が私たちを盲目にさせ、天主と自分の救いを脇に置かせているなら、手遅れになる前に、私たちの心を天主に向けましょう。

今日の福音に登場する盲人とともに、「主よ、見えるようにしてください」と叫びましょう。

用心深い母親が子どもの手を引いて導くように、童貞聖マリアが私たちを罪の闇から救い出し、キリストという光へと安全に導いてくださいますように。アーメン。