五旬節の主日の説教―アブラハムを希望の手本にしよう(大阪と名古屋)

ソース: FSSPX Japan

アブラハムと三位の天使

五旬節の主日の説教―アブラハムを希望の手本にしよう(大阪と名古屋)

2026年2月15日 イヴォン・フィルベン神父

五旬節の主日の説教―アブラハムを希望の手本にしよう(大阪と名古屋)

親愛なる信者の皆さま、

今日は、五旬節の主日、復活祭の50日前の主日です。今度の水曜日から四旬節が始まりますが、私たちはまだ、心の準備をし、心構えを変えようとしている過程にあります。また、来る7月に司教聖別を実施するという勇気ある決断を受け、教会と聖ピオ十世会のために祈っているという状況にもあります。教会の典礼では、四旬節の始まりの前の三つの主日、七旬節、六旬節、五旬節は、それぞれ創世記の登場人物と結び付いています。七旬節はアダム、六旬節はノア、そしてこの五旬節の主日はアブラハムです。

今日は、アブラハムという人物について黙想することをお勧めします。ミサの典礼で、直接彼の名前が言及されているわけではありませんが、ミサの祈りや朗読の多くは、彼の精神に言及しています。そこでまず、アブラハムについていくつか大切なことを思い起こし、その後で、アブラハムの精神の重要な要素である、希望の精神についてお話ししたいと思います。この要素によって、私たちは四旬節の準備ができ、聖ピオ十世会の役務のために、さらに熱心に祈ることができるでしょう。

一)アブラハムとは何者か

アブラハムは紀元前19世紀、メソポタミア南部、現在のイラクの一部であるシュメール地方に住んでいました。アブラハムは、この地方の遊牧民の一族に属していました。彼はサライと結婚しましたが、残念ながら子供はできませんでした。彼の父テラは、理由は不明ですが、歴史豊かなシュメールの地を離れ、メソポタミア最北端、現在のシリア北部に位置するハランという都市へと旅立つことを決心しました。ハランは、アブラハムとその一族の新たな故郷となりました。しかし、天主はアブラハムに、この新たな故郷を去るよう命じられました。「おまえの国、おまえの家族、おまえの父の家を去って、私が示す地に行け」(創世記12章1節)。

アブラハムの全生涯は、この召命に要約されています。この召命によって、彼はイエズス・キリストの遠い祖先となりました。彼は旧約の民の起源であり、その民の使命はメシアのゆりかごとして奉仕することになるからです。イエズス・キリストはアブラハムの子孫ですから、キリストを信じる人々、つまりキリスト教徒は、アブラハムの霊的な子孫なのです。

二)アブラハムの希望

アブラハムは、希望の徳を体現しており、私たちはこの困難な時代に、この徳を培うよう努めなければなりません。

1)天主は私たちにとって最善のことを望んでおられる

希望の徳とは、何でしょうか。アブラハムの行動を見てください。彼はどのような決定的行動を取るでしょうか。彼は天主に従い、天主が助けてくださることを確信して前進しました。同様に、このミサの福音朗読では、主が常に移動しておられることが分かります。「私たちはエルザレムに上る」(ルカ18章31節)。そして、主は一人ではありません。エリコの盲人も、目が見えなかったにもかかわらず、主に従います。「盲人はたちまち見えるようになり、天主をたたえながらイエズスに従った」(ルカ18章43節)。私たちを天主に頼るようにさせ、人生において前進させ続けるものは、希望の徳です。私たちは、天主が善であり、私たちにとって最善を望んでおられ、全能であることを知っていますから、希望に突き動かされて前進するのです。それは信仰の問題です。私たちはそれを信じています。アブラハムはこの姿勢の良い例です。「アブラハムは、主が告げられたとおりに出発した」(創世記12章4節)。彼が直面した挑戦は途方もないものでした。子供がいないのに大きな民族となり、遊牧民であったのに広大な国土を所有するのです。主はまた、私たちの想像をはるかに超える偉大なことを約束しておられます。永遠の命、永遠の幸福、天主の本質を見るとは一体何なのか、想像できるでしょうか。私たちはそれについて何も知りません! しかし、天主がそれを私たちに与えたいと願っておられることは知っています。

これこそが、私たちの人生における大きな挑戦です。目に見えるものに基づいてではなく、天主が私たちに約束しておられることに基づいて決断を下すことです。まさにこれこそが、教会が直面している現在の危機において私たちに求められていることです。天主は、ローマ・カトリック教会が世の終わりまで存続すると約束しておられます。ですから、私たちは、それが実現することを知っています。はっきりさせておきましょう。私たちは実際、「教会では何もうまくいっていない!」と絶望に陥る危険にさらされています。確かにそうですが、現在の状況は天主の最終的な決定ではありません。いつの日か、教会において聖伝が再び力強く輝き、当局はルフェーブル大司教の選択の正しさを認めるでしょう。

そして、人間的な観点からは、教会の危機がどのように解決されるのか見通すことはできないというのは、その通りです。なぜなら、多くのことが変化しなければならないだろうからです。来る7月の司教聖別の発表を受け、私たちは平静を保つよう求められています。もちろん、ニュースは追うべきですが、それよりももっと大切なことがあります。それは、祈りつつ、長上たちの決定を理解するための時間を取って勉強することです。

次の問いを自問してみましょう。私たちは、この世と教会を見る際に、希望の徳に基づいているでしょうか。それとも、政治的で人間的な観点だけで考えているのでしょうか。

2)天主は私たちを養ってくださる

希望の徳には、アブラハムの生涯に一貫している第二の要素が伴います。それは、途中で天主が私たちを助け、養ってくださるということです。実際、アブラハムは常に天主の助けを受けていました。多くの逆境に遭遇したにもかかわらず、天主の助けは彼を決して見捨てませんでした。今日のミサの聖体拝領誦は、私たちにこう教えています。「彼らは飽きるほど食べた。主は彼らの望みを満たし、彼らの期待を裏切り給わなかった」(詩篇77篇29-30節)。

これこそが、聖書の偉大な教訓です。天主は、私たちが前進するために必要な助けを与えてくださいます。天主の助けは、夜間の車のヘッドライトのようなものです。ヘッドライトは、私たちが道から外れることなく前進できるよう、前方を照らしますが、遠くまで照らすことはできません。私たちは最終目的地を見ることはできませんが、前進するために必要なところまでは見ることができます。アブラハムの生涯に見られる天主の助けは、私たちを歩み続けさせてくれる助けです。教会の危機においても、まさに同じことです。この危機がいつ、どのように解決されるのかは分かりませんが、私たちには自らを聖化するために必要なものがあります。実際、天主は、聖ピオ十世会という御摂理的な助けと、ルフェーブル大司教という模範を私たちに与えてくださいました。それによって、私たちは、聖伝の助けから着実に恩恵を受けることができます。ですから、教会と聖ピオ十世会のために祈りましょう。またそれだけでなく、天主に感謝を捧げましょう。天主は、私たちに自らを聖化するために必要なものを与えてくださいました。ですから、詩篇22篇を唱えましょう。「主は私の牧者、私には乏しいものがない」(22篇1節)。

親愛なる信者の皆さま、アブラハムの模範が、真に私たちを導くものでなければなりません。四旬節が始まる前に、創世記12章から22章を読み返し、アブラハムの生涯のおもな段階を思い起こしましょう。私たちの心も調べましょう。希望の徳が私たちの内に住んでいるでしょうか。それとも、不満や批判をくよくよと考えているでしょうか。私たちは、天主が私たちにとって最善のことを望んでおられること、また必要な助けはすべて与えてくださることを、確信しているでしょうか。