五旬節の主日の説教

ソース: FSSPX Japan

見えよ、おまえの信仰がおまえを救った

五旬節の主日の説教

2025年3月2日 大宮 ピーター・フォルティン神父

主の御受難の理由

私たちの主は、今日の福音で、ご自分の受難という大きな神秘を予告されます。主は最も近くにいる者たち、すなわち弟子たちに、はっきりと語られます。弟子たちは理解できなかったと記されています。天主である私たちの主は、ご自分が受けられた人間の本性(ほんせい)において苦しまれることを、永遠の昔から予見しておられました。そのために、主は、私たちの本性を受けられたのです。教会は今日、主の御苦しみの理由を私たちの前に示しています。それはすべてのための理由です。信仰のための理由、希望のための理由です。キリストが地上に来られ、苦しまれ、亡くなられ、そして復活される理由です。この理由は愛徳、天主への特別な愛なのです。それはこの世を超えたものです。それは天と地、人間と天主をつなぐものであり、そのため、キリストに従うすべての者をつなぐものなのです。愛徳という徳ほど深遠な徳、崇高な徳、永遠の徳はないのです。

聖パウロは、愛徳について美しい描写をします。愛徳を要約すれば、「愛徳は自分の利を求めない」と言うことができます。情け深い行為の開始から完了に至るまで、自分の利を排除し続ける徳です。報酬も、評価も、満足も求めません。自分の利を求めず、限界はなく、無限です。それは、善なるものすべての理由です。この徳は救いに達するために不可欠です。人は信仰と希望を持ち、英雄的であり私心のないように見える偉大で素晴らしいことを行うかもしれませんが、愛徳がなければ何にもなりません。

私たちの主が今日の福音で、ご自分が利己的な動機がないのに苦しまれるということを言われるのは信じられないことです。主がそう言われるのは、信者たちの信仰、希望、愛徳を高めるためです。そうすることで、主が御自分に対して許されることへの準備を、彼らができるようになるのです。私たちの主は、あわれみや慰めを求められず、ご自分の苦しみの深さを本当にご存じなのです。主がこの預言をなさったのは、彼らの信仰を守るために、この試練への準備をさせるためであり、そうすることで、彼らが愛徳によって主とつながったままでいられるようにするためです。

ローマ帝国内の初期の教会史では、皇帝と神々への礼拝が義務づけられていましたから、無償の愛という概念はまったく知られていませんでした。自分の利益が日々のすべての行動の動機になっていたのです。彼らは本当の愛を理解できず、善を理解できず、彼らには赦しがありませんでした。信仰の光と愛徳の賜物を受ける前の彼らは、何と近視眼的で、何と暗く、何と惨めだったことでしょうか。信仰を受ける前の多くの人々は、初期のキリスト教徒について不思議に思っていました。それは、彼らが他の人々よりも徳が高いように見え、より高い動機のために、つまり天主と隣人のために行動していたためでした。

今日の福音で述べられている奇跡は、あわれな盲人の話です。彼は、信仰と希望を持ってやって来ました。彼は、キリストが自分を癒やすことがおできになり、自分の目を開くことがおできになると信じていましたが、キリストの姿を見たことも、私たちの主がなさった奇跡を見たこともありませんでした。彼は、弟子たちに叱責されたにもかかわらず、私たちの主が本当に癒やしてくださるという希望を持っていました。主は失望させることなく、大きな愛徳によって即座に彼の願いをかなえられるのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストへの信仰、主の苦しみへの信仰、主の恩寵への信仰をもって四旬節を迎えましょう。私たちは大きな希望を持たなければなりません。徳を身につけて、キリストの恩寵にあずかるという希望、自らの回心と救いへの大きな希望です。私たちはまた、キリストと同じ精神、天主への愛に燃える精神、愛徳に満ちた精神で四旬節に入らなければなりません。私たちがこのような気持ちを持つなら、私たちの四旬節は良い四旬節となり、おそらく私たちの人生で最高の四旬節となるでしょう。私たちの主イエズス・キリストにお願いするのを恐れず、この天主の愛徳を信じて、確信をもって主に近づかなければなりません。