わたしたちの霊魂は3種類の敵と戦わねばならない
2021年2月21日 四旬節第1主日
トマス小野田神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年2月21日、四旬節第1主日です。
大聖レオ教皇(在位:440-461)は、この日のミサで、聖パウロの書簡を引用して説教しています。
「とても大切な子らよ、四旬節の聖なる荘厳な大斎をあなたたちに告げた後、イエズス・キリストにおいて語った使徒聖パウロの言葉を借りるよりも、私はもっとうまく話を始めることができるだろうか?あなたたちに読まれたばかりのことばを繰り返す。『見よ、今は恵みのときである。見よ、今は救いの日である』」。
罪を償うために、キリストの花嫁である教会とともに、聖なる四旬節を過ごしましょう。
1:キリストの荒れ野での試み
今日、福音では、荒れ野でキリストが受けた誘惑の史実が読まれました。
私たちは罪人です。四旬節の始まったこの日から、私たちは罪の償いを果たそうとしています。私たちは罪を犯しました。罪を犯してしまったのは、誘惑に負けてしまったからです。
これが以前に私たちに起こったことですし、将来も起こりうることです。どのようにしたら良いでしょうか?
イエズス・キリストは「罪を除いてすべてを私たちと同様に誘惑を味われた」(tentatum autem per omnia pro similitudine absque peccato)(ヘブレオ4:15)ので、私たちに同情し憐れむお方です。私たちに誘惑に対してどうすればいいのか、模範を示してくださいました。
キリストは三回の誘惑をうけました。私たちの霊魂も、三つの方向から攻撃を受けます。三種類の敵と戦わなければなりません。使徒聖ヨハネはこう言います。
「世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて、おん父から出るのではなく、世から出る」(ヨハネ前2:16)。
肉の欲とは、許されない邪欲へと霊魂を引きずり込む情欲、節制をしなければならない欲のことです。
目の欲とは、この世の富や財産や名声など、私たちの目の注目を引いて霊魂を惑わす情欲です。
生活のおごりとは、虚栄や自己に過信するあまり、天主からうけた賜物であることを忘れる傲慢です。
肉の欲
悪魔は、まず、肉の欲でいざないます。アダムとエワの時もそうでした。人祖は、「食べてはいけない木の実を食べると、善と悪とを知って、天主のようになるよ、といざなわれました」。お腹を満たすことと、野心とが提示されました。
第二のアダムである私たちの主も同じようにお腹を満たすことでいざなわれました。「あなたが天主の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。
主はこう答えます。「『人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る全てのことばによって生きる』と書かれてある」。つまり、人間は、ただ食べるだけの肉体だけの動物ではない、人間の霊魂は天主の御言葉がなければ命を保てない、霊魂は、天主の掟や節制によって肉体を制御して生きている、ということです。
主が引用した言葉は、旧約聖書の第二法の8章3節からです。そこではヤーウェが40年間砂漠でマンナで養ったことに言及していますから、天主の御言葉、御聖体によって生きる、ということも教えています。
傲慢:生活のおごり
第二の誘惑は傲慢です。悪魔はイエズスを聖なる都(エルサレム)につれて行き、神殿の頂上に立たせます。これを見ると、悪魔は聖なる場所でも誘惑をする、ということがわかります。悪魔は、傲慢で私たちを高いところに連れて行こうとします。それは私たちを下に落とすためです。
神殿の頂上とは、高い地位、虚栄を望むようにいざなうかのようです。サタンは、文脈を逸(そ)れて聖書をこう引用します。
「あなたが天主の子なら、下に身を投げなさい。何故なら『主はあなたのためにその天使たちに命じた、天使たちは、あなたの足が石に打ちあたらないように手で支えるだろうから』と書かれている」と。
詩篇90(あるいは91)を全て読むと、主への信頼の歌だとわかります。
これは、天主を信じ、主により頼み、主に祈り、主に希望をおく歌です。天主の真理を信じ、善を行うことによって、たとえ自分が村八分になっても、友人がみな裏切って逃げ去っても、マスコミがフェイクニュースを流して全世界がその嘘を信じても、人間的に見れば絶体絶命でも、あくまでも「主は私の守り手、私のひなん所。私は主に希望する、私は何も恐れない、危険な時には、必要であれば、天主から送られた守護の天使が守ってくれる」と信頼する祈りです。
ここで「足が石につき当らないように」天使が支えるとは、躓かないように、罪を犯さないように、守ってくれるということです。
高いところから下に身を投げなさいと勧める内容では決してありません。重大な理由もなく危険に身をさらすことは主を試みることです。天主からの特別なたまものやお恵みを、自分で自由に手に入れることができると考えることです。
そこで、イエズスは「また『あなたの天主なる主を試みるな』と書かれてある」とお答えになります。
貪欲:目の欲
最後にサタンは目の欲でいざなおうとします。イエズスを非常に高い山につれていき、世のすべての国とその栄華とを見せます。サタンがこの世の王国を、貪欲と肉欲と快楽、傲慢と虚栄と罪とで支配していることを見せます。
その栄華とは、つまり金・銀・宝石また財産と権力です。悪魔は「どうだ、これが欲しいだろう」とでも言わんばかりに「あなたが、ひれ伏して私を礼拝するなら、これらを全てあなたに与えよう」といいます。
「もしあなたが天主の子なら」と言われても叱らなかったキリストですが、悪魔が天主の名誉と地位を横領しようとする時、厳しく叱ります。「サタン、しりぞけ!『あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えねばならない』と書かれてある」と。
これによって、もしも自分に悪口が言われるならそれを耐え忍ばなければならないことを教え、同時に、天主に対する冒涜を聞く場合には、それをそのままにしておくことは不敬虔である、と教えています。
また、もしもこの世の富を得たり保持するために天主の掟を破らなければならないとするなら、つまり、悪魔の側に行くのなら、そのような富は軽蔑すべきであると教えています。悪魔の試みの雄弁な説得、サタンの約束する名誉と名声を言われるがままに聞いて、それに負けるべきではなく、変わらない天主の掟をもって敵の口をふさぐことを教えています。
「『人はパンだけで生きるのではない』と書かれてある」。
「『あなたの天主なる主を試みるな』と書かれてある」。
「『あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えねばならない』と書かれてある」。
エワはいにしえの蛇と対話をして、騙されました。火遊びは大やけどのもとでした。
私たちの主のお言葉は、同時に、現代のエキュメニズムに対する警告です。三位一体のまことの天主だけを礼拝し、真の天主にのみ仕えなければなりません。この言葉で悪魔はイエズスをはなれ去ります。すぐに天使が主に奉仕します。私たちが悪魔に打ち勝つと、私たちには、守護の天使の助けと力が与えられるでしょう。
2:霊的な意味
ある教父は、この荒れ野での試みは、次のような意味があると言います。
A)断食とは、悪を行わないこと。
飢えとは、悪を行いたいと言う欲望。
パンとは、その欲望を満たすこと。
悪を望みのままになす人は、石をパンに変えている人だ。
このようないざないを受けた場合は、「人は欲望を満たすことだけで生きているのではなく、天主の掟を守ることによって生きている」、と悪魔からの誘惑に返答すべきである。
B)もしも誰かが自分は聖なる者であるかのように思いあがるとは、聖なる場所に連れていかれること。自分が聖徳の頂点に達したと思ったのなら、それは神殿のもっとも高いところに座ること。この試みは、第一の試みに勝利した後にうぬぼれることによっておこる。
聖徳の高みにいると思うなら、賞賛されることをさけよ。
C)高い山につれていかれることは、この世の富や権勢に進むこと。ここから傲慢が起こる。富や名声を得る方法を考え始めると、この世の支配者であるサタンが自分の王国をあなたに見せるだろう。もしもこれらを得たいのなら、サタンに仕えて、天主の義を無視すればよい、とサタンは方法を教えるだろう。
以上が教父による、私たちに適応できる霊的な意味です。
3:遷善の決心
愛する兄弟姉妹の皆様、では、私たちの主とともに四旬節の中に入りましょう。
私たちが償いの業に励むことができるように、模範を示してくれました。主のなさった断食や受難を見るなら、私たちのなす償いは程遠く、比較にもならない程です。私たちの疲労や不便、祈りや黙想を寛大におささげ致しましょう。
御聖体を敬虔に拝領しましょう。御聖体を礼拝しましょう。
よき四旬節を過ごす恵みを求めて、悲しみの聖母に御取次を祈りましょう。
四旬節の犠牲を特にカトリック教会のために捧げることができるように、聖ヨゼフに助けを願いましょう。
「見よ、今は恵みのときである。見よ、今は救いの日である」。