王たるキリスト:主は正真正銘の王です。主が王権を持っている 2つの理由とは?

ソース: FSSPX Japan

2023年10月29日  王たるキリストの祝日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は20231029日、王たるキリストの祝日です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の福音にある通り、聖金曜日、ピラトはイエズス・キリストに「あなたはユダヤ人の王か?」とききます。イエズス・キリストはピラトの前でローマ帝国の前で公式に御自分の王権を断言なさいます。「あなたのいうとおり、私は王である。」(ヨハネ1833

すると、同時に御自分の王国がこの世からのものではないということも指摘されています。

これはいったいどういうことでしょうか?

今日はイエズス様が王であることの意味を黙想いたしましょう。

【1:主が王権を持っていることの確認】

主が王権をもっているということは、いろいろな歴史上の事実から確認できます。まずイエズス・キリストにおいて、旧約の預言が全て一つ一つ成就されました。旧約の預言によれば、救い主キリストは王であるべき方です。
 

さらに、主がお生まれになるときに、大天使聖ガブリエルは聖母にこう告げています。大天使聖ガブリエルの言葉を引用すると「かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終ることがありません。」(ルカ133

主がお生まれになった後は、東の国の三人の博士がエルサレムにてヘロデ大王に尋ねます。「お生まれになったユダヤの王さまは、どこにおいでになるのか。われわれは、その星がのぼるのを見たので、おがみにきた」と。博士たちがヘロデの回答を聴いてその言葉に送られてベトレヘムへと出発すると、前に東にのぼるのを見たその星が先立って、イエズス様のおられる所にとどまりました。博士たちはこれを見て確信してひれ伏して主を礼拝して、宝箱を開いて、王に対する貢として黄金を天主に対する貢としては乳香をまた死すべき人間に対する貢として没薬を捧げものとして奉上しました。

【2:主が王権を持っている理由】

ではもちろんこれ以外にも主が王であるということの印はたくさんありますが、では主が王権を持っている理由は何でしょうか。

ピオ十一世教皇の回勅『クアス・プリマス』には、理由を二つあげています。

一つは、イエズス・キリストがまことの天主、つまり人間となったまことの天主であるからです。イエズス・キリストは、完全な天主であり同時に完全な人間です。天主御子のペルソナ(位格)において、天主の本性と人間の本性とが結合した方です。この結合を「ヒポスタシスにおける結合」と神学上言いならしています。従ってイエズス・キリストは、天主として、全ての被造物・全宇宙を、最高絶対の主権をもって支配し統治しておられるのです。

さらにイエズス・キリストが王であるもう一つの理由は、ピオ十一世の回勅によると、イエズス・キリストが贖い主として、天主の御血で罪人(つみびと)である私たち人間を贖ったからです。ちょうど、奴隷が高価な値を支払われて買い取られて、解放されたのと同じです。罪と地獄と悪魔の奴隷であった私たちは、イエズス・キリストの受難の尊い血潮によって買い取られ、そして贖われました。さらに私たちを、天主の子供として、天国の市民・天の遺産の相続者として、養子相続させようとされました。

「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」これは初代教皇聖ペトロの言葉です。永遠の真理です。カトリック教会の教える真理を一言で言い表しています。

【3:イエズス・キリストが王であるとは何を意味するのか?】

では、イエズス様が王であるというのは、いったい何を意味するのでしょうか。

この世の王たちと比較してみると、この世の王様は、自分の権力を顕示するあるいは誇示する装置・仕組みがあります。壮大な宮殿や近衛兵、あるいは金銀に溢れる財宝や宮廷、あるいは軍隊や大砲などです。でも私たちの主はそれらを一切お持ちではありません。財産についていえば、税として払う二ドラクマ貨さえもお持ちでなく、枕するところさえもないと仰っていました。

しかし、それにもかかわらず、主は、主こそが、正真正銘の王です。何故かというと、イエズス・キリストは王として最も基本的な王権を持っていたのです。つまり、王が持つべき立法権、裁判権、そして執行権あるいは行政権といわれる三つの権能をお持ちでした。この三つの権能についてはピオ十一世が回勅「クァス・プリマス」で教えています。


【立法権】

「イエズスは人間の救い主・贖い主であるのみでなく、人々が服従すべき立法者でもある」ということは信仰箇条として認めなければならない。

マテオの福音を見ると、よくわかります。

主はつぎのように言ってモーゼの権威よりも上位に立っているということを示されています。主の言葉を少し引用すると、こう仰っています。「私が、律法や預言者を廃するためにきたと思ってはならない。廃しようとしてきたのではなくて、完成するためにきた。あなたたちも知っているとおり、"隣人を愛し、敵を憎め"と教えられてきた。しかし、私はいう。あなたたちは、敵を愛し、迫害する人のために祈れ。」これはご自分がいにしえのモーゼからつたえられた掟よりもさらに上位の掟を教える力を持っていることを示しています。
 

そればかりではありません。主は、自分の掟についても自分の権威によって話しています。「あなたたちは、私を愛するなら、私の掟を守るだろう。」(ヨハネ1415)「私が愛したように、あなたたちがたがいに愛しあうこと、これが私の掟である。」(ヨハネ1512Hoc est praeceptum meum ut diligatis invicem.

ところで、法律というのをよく考察すると、法律というのはある崇高な目的のために制定されます。例えば、公共の善とか、あるいは市民の安寧と秩序のため、繫栄や健康のため、などです。ところで主は、御自分こそが、法の目的であり原理であり究極の追求すべきものであると話されています。「あなたたちが私の掟を守るなら、あなたたちは私の愛にとどまるだろう。」(ヨハネ15:10)

ではなぜ主は他の律法者がするような律法として何か文字で掟を刻まれなかったのでしょうか。聖パウロによれば、イエズス・キリストは御自分の掟を「墨ではなく、生きる天主の霊によって」そして「石の板ではなく、肉体の心の板に書かれ」(コリント後33)たと言っています。つまり、印刷されようが石に刻まれようが、文字のままでは掟は「死文」化してしまうものです。しかし、イエズス・キリストは弟子たちの行動・生きざまこそが周りの人々にとって人々の模範や基準となるようにされたのでした。つまり、人の心に生き生きと法を刻まれたのです。これこそが、道徳を建て直し、風紀をただして、聖なる生活を送らせるものなのです。こういうやりかたで、主は立法権を行使しました。

【裁判権】
主は、裁判権さえも持っています。「父は裁判なさらず、子に裁判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と主は言われましたが、イエズス・キリストは、いまの現在では、生きている私たちの世界では、裁判権を行使しようとはしませんが、この世の終わりに最終の最高の絶対的な審判を行う方です。人類を審判をする方として、御父に立てられました。なぜかというと、全人類を裁くべき方はまことの天主である三位一体ですが、しかし天主が人間を裁かず、御憐みによって、キリストに、つまり私たち人間の持つ弱さあるいは生活の辛さをよくご存じのイエズス・キリスト、人間としてのイエズス・キリストに、私たち人間の裁判を任されたのです。

主は、アダムとエワ、最初の人間からこの世の最後の人間に至るまで、私たちの行動すべてについて、全人類の歴史を決定的に、ご自分の正義に基づいて、最も小さな思いも言葉も行いも、怠りさえも、厳格に裁く権能をお持ちです。そして、もしもわたしたちが現代生きているあいだに不正に取り扱われていたとしても、その時に正義が戻り、不正を加えていた悪人たちには容赦のない厳しい罰と償いが要求されます。

【執行権】
ピオ十一世教皇はイエズス・キリストの執行権についても断言しています。イエズス・キリストはこう言っています。

「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれて、光栄の座につくであろう。」ご自分のことです。「そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と牡山羊とを分けるように、羊を右に、牡山羊を左におくだろう。その時、王は、」ご自分のことです。「右にいる人々に向かって、"私の父に祝せられた者よ、来て、世のはじめからあなたたちのために準備されていた国をうけよ。("というだろう。()また王は、」ご自分のことです。「左にいる人々に向かって、"のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ。("というだろう。()これらの人は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命にはいるであろう」。(マテオ2531-46
その時、誰も執行者であるイエズス・キリストに逆らうことはできません。全人類は、わたしたち人間が持つ力が、天主の御稜威に対してイエズス・キリストの執行権に対して、まったく力が無いこと、何でもないこと、比較にもならないことを、深く悟ることになります。


イエズス・キリストは最高の王として、人々を厳格に裁くのみならず、恩赦をすることもできます。姦通の現行犯の女性に対してもあるいは十字架の上で痛悔した盗賊に対してもこの恩赦を与えました。

【十字架の捨て札】

あたかも、十字架の上に書かれた捨て札は、ヘブライ語とラテン語とギリシァ語で書かれた「ユダヤの王、ナザレトのイエズス」(Erat autem scriptum : Jésus Nazarenus Rex Judaeorum : et erat scriptum hebraice, graece et latine. ヨハネ1919 et 20) と書かれた捨て札は、この三つの権能を確認しているかのようです、宣言しているかのようです。行政権も治世的な思想も、超自然の愛徳も、すべてはイエズス・キリストが王であると高らかに叫んでいるかのようです。

これを考えるとわたしたちはどうしてもこう思わざるを得ません。イエズス・キリストこそが、まことの王であって、この地上のすべての王たちあるいは支配権をもっているような人々――これはイエズス・キリストに支配権がある場所においてある一定の期間だけ委ねられた仮の姿に過ぎないということです。イエズス・キリストの王権からすべての統治権を仮に委ねられたものに過ぎないということです。そして彼らはその統治権をどのように使ったかということによって、キリストによって厳しく裁かれるべきであるということです。

そして、さらに言えるのは、イエズス・キリストはこの地上のどのような王が軍隊を使っても最高の兵器を使ってもドローンを使っても原爆を使っても、このイエズス・キリストの御国を亡ぼすことは一切できない、イエズス・キリストの御国は永遠に続くものであって誰もキリストからそのテリトリーを取ることができない、イエズス・キリストの王国その領土は私たちの霊魂です。永遠の天の王国です。そして悪魔の支配下から、地獄の支配下から、罪の支配下から、多くの人間の霊魂たちを奪い取ってそれを聖化して天国へと導く、そして天国での領土を獲得させる――これこそがキリストの王国であって私たちが所属するべきものなのです。

私たちは何と偉大な王を持っていることでしょう。私たちは何と高貴な永遠の王国の市民であることでしょうか。私たちは永遠の最高の絶対の勝利者イエズス・キリスト、王たるキリストのもとに生活し、そのかたのために働く、そして悪に対して戦う市民なのです。なんと崇高な身分を与えられていることでしょうか。その王国の王の、王子・王女なのです。

【4:遷善の決心】

では最後に、王たるキリストの祝日において遷善の決心を立てましょう。

王が付けられた十字架をよく見ましょう。ナザレトのイエズス、ユダヤの王、イエズス・キリストこそが私たちの王であると書かれています。これを私たちも読み、深く知り、深く黙想し、私たちも宣言しましょう。私たちの生活がすべて王であるキリストに従って、十字架の御旗のもとに従って、生活において行動によってイエズス・キリストこそがわたしたちの王であると宣言しますように。

私たちの辛いこと哀しいこと苦しいこと嫌なこと十字架の生活を王に従って、王の都を慕って進みましょう。わたしたちの知性もキリストの真理の教えに従って、主を王であると宣言するようにいたしましょう。

私たちの心も意志も主を愛し、最高の善である主を愛して、主をこそ王であると表明しますように。

私たち生活、家庭生活、社会生活すべてにおいて、従順と貞潔と忠順と愛徳においてイエズス・キリストが王であると宣言することができますように祈りましょう。

最後にロザリオの元后であるマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は女王様でおられます。聖母の御取次によって、私たちがキリストをいつも王として生活で表すことができますように、王といつも共に生活することができるように、祈りましょう。

イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった。