天主を愛する人々のためには、天主がすべてをその善に役立たせてくださる
026年4月12日 白衣の主日
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は主の御復活の八日目、白衣の主日です。
十二使徒の一人ディディモと呼ばれるトマは、復活の主日の夜に皆と一緒にいませんでした。他の弟子たちが「主を見た!」と言うと、トマは「その手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで信じられない!」と言い、信じることを拒否しました。
そして八日の後、弟子たちが家の中にいたとき、今度はトマも一緒にいました。前回のように、戸には鍵をかけていたにもかかわらず、復活の主日と同じようにイエズス様がおいでになり、彼らの真ん中に立って「あなたたちに平和!」と仰せられます。いったいなぜ、このようなことが起きたのでしょうか?
今日は、この出来事を通して「天主を愛する人々、つまりみ旨によって召し出された人々のためには、天主がすべてをその善に役立たせてくださるdiligentibus Deum omnia cooperantur in bonum.」(ローマ8章28節)という真理について黙想しましょう。
【1:トマの不信】
では最初に、トマの不信について考えてみましょう。
私たちには、時に試練や苦難が送られます。私たちは、その苦しみが自分に起きるのが許されて、してはならない反応をしてしまう誘惑にかられるかもしれません。
「なぜ、このようなことが私に起こったのだろうか? 他の人はああなのに、なぜ私に?」と。
使徒たちは、今まで信じていたイエズス・キリストが逮捕され、ローマ当局によって不当な死刑を受けるという試練で失望し、絶望さえします。使徒たちでさえ信仰を失い、逃亡して隠れました。
なぜ、使徒たちにこのような試練が送られたのでしょうか?
聖トマス・アクィナスは「選ばれた者にさえも試練が送られるところに、天主の深き憐れみの最も力強いしるしが示されている」と言います。
何故かというと「天主は人類を深く愛しておられるがゆえに、時に選ばれた者たちに試練を許し、それによって人類に何らかの益がもたらされるようにされる」からです。そしてこれが「主が、使徒たちや預言者たち、聖なる殉教者たちに苦難を許された理由である」と説いています。
聖パウロは、自分たちについてこう言っています。
「私たちが患難を受けるとしても、それはあなたたちの慰めと救いのためであり、慰めを受けるとしても、それはあなたたちの慰めのためである。(もしも使徒たちが慰めを受けるとしても、それはあなたたちのための慰めである)その慰めは、あなたたちの中ではたらいて、私たちが受けるのと同じような苦しみを耐え忍ばせる。」(コリント後1章6節)
また、聖トマス・アクィナスは、このように続けます。
「さらに驚くべきことは、天主が私たちに教訓を与えるために、ある聖人が罪に陥ることさえ許される」と。それはつまり「自分がしっかり立っていると思っている者が倒れないように(思い上がらないように)注意させるためであり、また、倒れた者が立ち上がる努力をするためである」と言います。
また、聖グレゴリオ教皇様は「トマの不信仰は、信じた弟子たちの信仰よりも、私たちの信仰にとってはより大きな利益になった」と述べています。何故かというと、信じなかったトマのために、主がもっと証拠を出してくださり、そのおかげで、私たちがもっと信じやすくなったからです。
トマが「釘のあとを見ない限り信じない」と言ったとき、どれほど頑なに疑っていたのかがわかります。そして、この不信のトマを説得するには、非常に難しいものが要求されていました。何故ならば、ただ見るだけでは足りず、実際に触らなければならないと、視覚と触覚という二つの感覚による、何らかの確かな事実を要求したからです。
また、トマの要求は非論理的でもありました。それは「傷跡を見たならば、復活して完全となったキリストを信じる」と主張したからです。
しかし、復活して完全となられた方に、どうして傷があるのでしょうか?
でも、その二つが必要だと言ったのです。トマがこう言ったのは、彼自身の疑いのためでしたが、これは、私たちの利益と霊的な成長のために、天主によって定められたことでした。もちろん、完全に復活されたイエズス様が、ご自分の傷跡を癒し、消すこともおできになったことは確かですが、私たちの益のために、主はわざとその傷跡を残しておかれたのです。
【2:キリストの御出現】
次に、イエズス様がどのように御出現なさったのかを見てみましょう。
主の復活の日から数えて八日後の夕方、もう一度イエズス様が弟子たちの前に現れます。「もう一度現れた」とは、イエズス様が、たとえ頻繁に弟子たちの前に現れていたとしても、昔のようにずっと彼らの間にとどまっておられたのではなくて、弟子たちの前に現れては消え、現れては消えておられたことを表すためです。何故ならば、復活されたイエズス様は、この地上に生きる私たちと同じ種類の命へ復活なさったわけではなく、新しい命を生きておられたからです。それは、今までのような生活ではなく、私たちも将来、その新しい命に生きるということを示すためでした。
では、主はなぜトマを八日間も待たせたのでしょうか?
遅れが生じた理由の一つは、トマが他の弟子たちから主の最初の御出現について聞くことで「私も見たい、私も知りたい」という願望をトマに抱かせ、その思いを強めることで、信じるための心構えを整えるためでした。
聖トマス・アクィナスは、この二回目の出現に「天主の憐れみの第二のしるしが表れている」と言います。それは「選ばれた者たちがたとえ倒れたとしても(罪を犯し、不信になってしまったとしても)、天主は速やかに助けに来られる」ということです。
「義人が倒れても打ち砕かれることはない。主がその下に御手を差し伸べられるからである。」(詩編37章27節)
「私の足が滑りそうになったとき、主よ、あなたの慈しみが私を支えてくださった。」(詩編94章18節)
主は、倒れたトマに素早く御手を差し伸べて、助けてくださったのです。
【3:キリストの傷】
ところで、栄光に包まれた体には、欠陥といった良くないところはあり得ません。一般的に、傷とは欠陥なのに、なぜ復活されたキリストの体には傷跡が残されていたのでしょうか?
この問いについて、聖アウグスティヌスはこう答えています。
「キリストは、復活し栄光に包まれた御体から傷跡の痕跡をすべて取り除くこともできたが、それらを残す理由があった」と。
その第一の理由は「触れて見なければ信じようとしなかったトマに見せるため」です。主は、なんとお優しい方でしょうか。もしかしたら、トマは不平不満を言ったのかもしれません。「なんで、イエズス様は私がいないときに現れたのか。私が来ると知っていたじゃないか。遅れるのを知っていたじゃないか。ちょっとくらい待ってくれたっていいじゃないか。なんで!もう嫌だ、信じられない」とがっかりしたのかもしれません。嫉妬したのかもしれません。わかりません。でも、イエズス様は、トマのためにわざと傷口を残してくださったのです。
では、第二の理由はなんでしょうか?
聖アウグスティヌスによれば、それは「(世の終わりの)裁きの際に、キリストを信じなかった人々や罪人に対して、それらを用いるため」です。その際に、キリストは、トマに言ったように「私を見たから信じたのだ」とは言わず、むしろ「見よ、あなたがたが十字架につけたこの人、あなたがたが(罪によって)負わせた傷跡を見よ。あなたがたが(罪によって)刺し貫いた脇腹を見よ。それはあなたがたの(罪を赦す)ために開かれたのに、あなたがたは(その中に)入ろうとしなかった(信じようとしなかった)」とおっしゃるでしょうと、説明されています。
ところで、殉教者たちの傷跡は、彼らの身体に残るのでしょうか?
聖アウグスティヌスは、次のように述べています。
「もちろん、手足を切断されたり首を切られたりした殉教者たちが、復活の際に手や四肢のない姿で現れることはない。彼らにも、頭の毛一本さえ失われることはないと言われているからである。実際、たとえ四肢が切断されたり切り落とされたりしたとしても、それらは回復されるが、傷跡は残るだろう」(「神の国」第22巻)」
また、聖アウグスティヌスによれば、殉教者の傷跡は「醜い傷跡としてではなく、偉大な装飾的な美しさとして」残ります。「たとえ身体の上にあっても、それらは肉体的な美しさではなく、霊的な美しさを放つ」のです。彼らの傷跡は、キリストのために苦しみ、これを耐え忍んだという美しく偉大な王冠として、輝きをもって復活するだろうと言われています。
【4:トマの信仰宣言】
そうしてついに、トマは真の信仰を宣言します。「わが主、わが天主」と。
これは、ギリシャ語によると主格なので「これ私の主なり、私の天主なり」という意味です。
彼が「わが主」と言ったとき、イエズス様が人間であることを、つまりキリストの人間性を告白しました。イエズス様は御受難の前に「あなたがたは、わたしのことを『先生』、『主』と呼んでいる」(ヨハネ13章13節)とおっしゃっていましたから、たしかに、トマもまたイエズス様のことを「主」と呼んでいたのでしょう。トマは、イエズス様を人間として「主」と言いました。
また「わが天主」と言ったとき、イエズス様が真の天主であることを、つまりキリストの天主性を告白しました。イエズス様がまだ生きていた頃に「天主」と呼んだのはペトロ一人だけでした。「あなたはキリスト、生ける天主の御子です」(マテオ16章16節)と。聖ヨハネは、その書簡の中でこう言っています。「私たちはその御子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5章20節)と。トマは、キリストの御傷を見て「わが天主」と信仰を告白しました。キリストとその御傷を見て、復活された方が永遠の天主であることを理解し、信じたのです。
【遷善の決心】
では、最後に私たちは遷善の決心を立てましょう。
この世に起こるあらゆる出来事が、たとえ悪であっても、すべては宇宙全体の益となることを考えましょう。聖アウグスティヌスはこう言っています。
「天主は極めて善なる御方であるから、いかなる悪も、そこから何らかの善を引き出す力がなければ、決して(それが起こることを)許されない。」
もしも悪が起こるならば、それはより大きく偉大な善を起こすためであり、すなわち、この世に起こるすべては、善のために秩序づけられているということです。また、この世に生じる何らかの悪が、より高貴な部分の善のために定められており、その他の部分が悪を受けることもあります。
たとえば、命を繋ぐために、私たち人間は動物や植物を食します。あるいは、バランスを崩して転倒するとき、たとえ手が痛くなろうとも、私たちは反射的に頭を衝撃から守ろうとします。
そして、最も高貴な部分に起こることは、その部分自身の善のために定められています。なぜなら、天主がその部分を顧みるのはその部分自体のためですが、他の部分を顧みるのは最も高貴な部分のためだからです。
全世界で最も優れた部分は、天主の聖人たちです。ですから、すべてのことは主を愛する人々の善のためにあります。罪人の悪さえも義人の利益となります。天主は、義人に対して特別な配慮をなさいます。詩篇にはこうあります。「主の目は義人に向けられている」(詩篇34篇15節)と。つまり、天主は、悪が義人に影響を与えることを許さず、いかなることも、そのすべてを彼らの利益となるように配慮されるということです。聖ペトロはこう言います。
「あなたたちがもし善に熱心なら、だれがあなたたちに悪をおこなえよう。たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。」(ペトロ前3章14節)
事故や病気を始め、私たちが経験するあらゆる苦しみや辛いことに対して、決して落胆や失望、絶望なさらないでください。それらはすべて、私たちにとって何らかの善になるものです。天主は私たちを愛しておられますが、愛とは、愛する者に善を願うことです。天主は、御自身を愛する者たちのために、万事を益へと導かれる御方です。御父は、御子を惜しまずに、十字架の苦難と死に引き渡されたではないでしょうか? また、聖なる人々をも、私たちの救いのために苦難にさらしたではないでしょうか? ですから、私たちに降りかかる悪を見ても、天主はそのすべてを善に変えることができる御方だと、深く確信するお恵みを祈りましょう。
そして、私たちの善のために苦しまれたマリア様にお祈りしましょう。私たちが、苦しみに遭っても決して落胆せず、善のためであると確信し、かえって困難を喜ばせて頂けますように、お祈りいたしましょう。
「愛する者よ、天主から生まれたものは、世に勝つ。世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。