天主の憐れみと赦し
2025年11月2日 聖霊降臨後第21主日
ムルー神父様説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、
今日の福音は、下僕(しもべ)に帳簿を求める公正な王、いわば正義の王様の話です。この王様は、とりもなおさず、私たちの主イエズス・キリストのことです。
主は、私たちそれぞれの人生の終わりに、一人ひとりに対して、その言葉・行い・考えの全てについて説明を求め、厳密な計算と決済を要求されるでしょう。
このように、私たちの主は公正な王ですが、同時に憐れみ深い王でもあり、今日の福音にあるように、もしも私たちが主に憐れみと赦しを請い願うならば、赦しを与えてくださる王です。ただし、私たちの憐れみ深い王は「私たちが他人を赦す」場合に限り、私たちを赦してくださいます。
そこで、今日の福音では、三つの点を教えています。
一つは、正義の裁きが行われる決済の日を準備すること、
次に、その日を恐れること、
最後に、その裁きの日に、天主の正義を満足させることです。
では、第一のポイントですが、私たちが決済の日に備え準備をするとは、どのようなことを意味するのでしょうか?
それは、私たちが、いつも清い良心を保つように心がけることです。
何故ならば、今日の福音に登場する王は、家来に決済を求めますが、私たちの王である主もまた、同じように私たちを主の法廷に召し出すからです。
私たちもいつの日か、そこで審判(裁判)を受けなければなりません。この地上における私たちの言葉・行い・考えの全てが、主によって厳しく裁かれます。
私たちは、主が与えてくださった「時」をいったいどのように過ごしただろうか?
私たちは、主から与えられた「才能」を使っただろうか?
私たちは、主から受けた「お恵みや聖寵」をどのように使っただろうか?
私たちは、主から頂いた「物質的なもの」や「霊的な善」をどのように使っただろうか?
私たちは、全てを天主から受けました。天主が、私たちに全てを与えてくださいました。それら全ての使い方についての計算と決済を、主は私たちに要求されます。ですから、私たちはこの日を準備しなければなりません。何故かというと、この決済の日、つまり、私たちの死の日は、いつでも私たちに起こり得るからです。どんな瞬間でも、私たちはこの決済の日に呼ばれる可能性があるからです。
しかし残念ながら、私たちはあたかもこの裁判がないかのように、決済をする必要がないかのように生活をしています。まるで、私たちの生活は全て、天主からではなく私たちに依っているかのように生活しています。これこそが私たちの問題です。
もしも、私たちが毎日、主の眼差しの下で生活するならば、私たちの生活とその人生は、きっとがらりと変わることでしょう。私たちはもっと慎重になり、どのように考え、どのように話し、どのように行うかも変わることでしょう。何故ならば、天主が私の前におられ、全てをご覧になっておられること、そしていつの日か、審判者なる主が、私たちの全てについての計算と決済を求めることを知って生活するようになるからです。
このように準備をした後に、私たちはこの裁きの日を恐れなければなりません。
聖パウロは言います。
「準備なしに天主の御手に落ちるとは、どれほど恐ろしいことであるか。」
福音に登場する王は、不信仰な下僕から全ての財産を奪いました。
つまり、もしも私たちが天主によって悪と認められ、そのように裁かれるならば、その時、私たちから全ての善は取り去られます。天主は、罪人から、その全ての富、お恵み、聖寵、栄光、さらには自然本性の善さえも取り去られるのです。
そしてついには外の暗闇へ、すなわち永遠の暗闇である地獄の苦しみの罰におちいらなければなりません。
その際、悪魔たちが、私たちを苦しめ拷問をするために使われます。この堕天使は、自分の持っている全ての知性、力、怒り、そして憎しみを最大限に使い、私たちを苦しめ、いじめ、そして私たちは、その拷問によって排斥されます。
福音に「足と手を縛られる」とあるように、私たちは、自分を地獄から解放するために一歩も歩けず、どのような行動もすることはできません。がんじがらめになって、何もすることができない状態になります。これは、永遠の不幸です。
この罰は非常に厳しいものに思われますが、しかし、私たちにとって非常に必要です。
何故かというと、もしも私たちにそのような恐れがなければ、私たちの情念は非常に強力なので、おそらく色々な悪に走り、私たちは全面的な無秩序におちいってしまうことでしょう。ですから、天主は、そのようなことがないように、少なくとも恐れによって、すなわち、救いをもたらす恐れによって私たちの行動を制限し、私たちを悪い行動から遠ざけ、善に向かうようにと、いわば強制しているのです。何故かというと、天主は、私たちの救いを、その幸せを望んでおられるからです。ですから、私たちは、天主への畏怖を持って、地獄という悪から遠ざからなければなりません。
そうすると、地獄とは、確かに天主の正義の業であると同時に、憐れみの業であると言うことができます。
地獄は、まさしく天主の正義の業です。何故かというと、悪を犯した人を、厳密に正義をもって裁くからです。それと同時に、地獄は天主の憐れみの業、愛の業です。何故かというと、これをもって私たちに悪を行わないようにさせ、天国へと導いてくれるからです。
このような救いをもたらす恐れを、つまり、地獄に対する健全な恐れを私たちが抱くことができるよう主に祈りましょう。何故ならば、知恵の始まりは恐れから始まるからです。
最後に、私たちは天主に従い、その正義を満足させなければなりません。
それは、今日の福音の下僕が私たちに教えていることで、彼は、主の足元にひれ伏したとあります。このように、私たちも天主の御前で謙遜にならなければなりません。私たちが謙遜になること――これは、天主の正義が、まず私たちに要求することです。
次に、祈ることです。福音によれば、下僕は請い願ったとあります。ですから、私たちも彼のように、天主に信頼して、何度も何度も熱心に、その憐れみと赦しを請い願わなければなりません。過去をよりよい人生で償うために、私たちの生活を変えることができるよう、誠実な意志と真摯な願いを込めて祈り、ふさわしい生活をするための決心を立てなければなりません。
もしもそうするならば、この福音の下僕が借金の負債の免除を受けたように、私たちも罪の赦しを得ることでしょう。
ところで、今日の福音は、私たちに憐れみの模範をも示しています。天主は、いつもどんなところでも、様々な人間からあらゆる罪を犯されて傷つけられ、侮辱されています。しかし、主はそれを沈黙のうちに耐え忍び、忍耐しておられます。しかも、主は、罪を犯され侮辱されるにもかかわらず、私たちに恵みを与え続け、ご自分を侮辱する者たちに対しても恵みを与えようと、さらにもっと与えようとされます。
もちろん、天主は、私たちが罪を犯したその瞬間に、私たちを罪のうちに死なせることもできます。当然、私たちに復讐をすることも、私たちを灰に、塵芥に戻すこともできます。しかし、主はそうなさらず、ただ沈黙のうちに忍耐し、そして、私たちの罪を赦す提案さえもなさいます。私たちに、天国を与えるため赦しを与えようと、私たちにその赦しを受け入れ、求めるようにと促されます。
本当ならば、天主を冒涜する私たちこそが、主に「ごめんなさい」と赦しを求めなければならないのを、むしろ主の方から私たちを招き「赦してあげようか」と提案してくださるのです。
まさにこれこそ、恐るべき反対(あべこべ)の世界、逆さまの立場と言いましょうか!
主の憐れみはここにあります。そして、この比類なき唯一無二の善意は、自分の召使いに同情し、借金を返す時間さえも与えた、福音に登場する王の姿に例示されています。
ですから、私たちは、天主の憐れみに信頼しなければなりません。
私たちは決して「天主は、もう私たちを見捨てられた」とか「私は、決して救われない。天国は、もう私たちのものではない」などと、決して絶望してはなりません。
もしも「私は救われたい」と、真に心から望むならば、主は必ず私たちを助け、お救いくださいます。つまり、私たちの苦しみがどのようなものであるかにかかわらず、天主の憐れみを望み、受け入れる意志を持たなければなりません。そして、天国のために、私たちは全ての妨害と戦い続けなければなりません。そして、天主から提供される手段を取らなければなりません。
たとえ、私たちに困難や試練が立ち向かったとしても、主は同時に、それに打ち勝ち、乗り越えるための手段やお恵みを与えてくださいます。私たちは決して、それに対する薬がない、手段がない、対策がないなどとあきらめてはなりません。主は、必ずそれらを与えてくださるからです。
そして最後に、私たちは、この憐れみ深い主に倣わなければなりません。つまり、私たち自身も、主のように隣人を憐れみ深く愛さなければなりません。
今日の福音によると、召使いである下僕が王からの憐れみを受けた後に、その憐れみを自分の仲間に与えようとはしませんでした。これを知った王は、この下僕を召喚し、以前に与えていた恩恵を取り上げます。
「私は、おまえを憐れんだ。そして、おまえの全ての負債を赦してやった。だから、おまえも同じようにするべきではなかっただろうか?」
「天の御父は、同じようにされるだろう」と主は言います。もしも、私たちが心から隣人を赦さずに恨みを持つならば、私たちには赦しがありません。天主は全てを、全ての罪を耐え忍んでおられます。苦しんでおられます。侮辱を受けておられます。
それにもかかわらず、主はそれらに対して復讐しようとせず、不満を示すこともなく、沈黙のうちに忍耐し、黙って我慢しておられます。私たちの回心を待っておられます。
私たちは、そんなに小さなことでイライラして怒り、誰かが自分に対して行うことに敏感である必要があるのでしょうか?
何故かというと、私たちがイライラするのは、非常にしばしば、私たちの思い違いや勝手な想像に過ぎないからです。ですから、私たちは、隣人に対する怒りや不忍耐、悪意を遠ざけなければなりません。
そして、私たちが苛立ちを見せるということも避けなければなりません。何故ならば、私たちはほとんど多くの場合、本当につまらない、たいしたことではないことでイライラしているに過ぎないからです。
その代わりに、私たちは憐れみ深い王に倣って、隣人の苦しみに対して思いやりを持ち、親切にそして寛大に、また柔和でなければなりません。どのような時でも、否定的な方法で考えることをやめて、私たちにされた全てのことを赦します。つまり、私たちは憐れみ深くなければなりません。
もしも、私たちが隣人に対して憐れみ深くないなら、私たちにされた全てのことを赦さないならば、私たちは嘘つきです。何故かというと、私たちは毎日「天にまします」の主の祈りで、このように祈っているからです。
「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」と。
主の祈りの中で、私たちはいつも、「私たち自身が隣人を赦すように、天の御父が私たちを赦してくださいますように」と求めているのです。
親愛なる信徒の皆様、私たちは天主の正義を思い出し、いつも頭に思い浮かべましょう。そして、私たちの言葉・行い・考えが、天主によって裁かれることを覚えておきましょう。また、天主が私たちにしてくださるように、私たちも隣人に対して憐れみ深く、寛大でありますよう、天主の憐れみ深さを、私たちの毎日の生活に反映させるようにいたしましょう。
最後に、私たちの主はこのようにまとめておられます。
「あなたたちの天の父が憐れみ深いように、おまえたちも憐れみ深くあれ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。