天主は、世界において、歴史において、教会において、御聖体において、私たちと共におられる ――天主の現存は、いったい何故か?――

ソース: FSSPX Japan

2025年12月21日  待降節第四主日  

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さま

今日の福音は、救い主の新しい時代が開幕するという歴史的な出来事が、全世界に向けて荘厳に宣言されています。

「ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンツィオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤ分国王、その兄弟フィリッポがイトゥラヤとトラコニティス分国王、リザニアがアビレネ分国王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネの上に、天主のみことばがくだった。」

この宣言を聞いた私たちは、私たちの目には隠れておられる天主が、実は世界・歴史・教会・御聖体において現存され、私たちといつも共にいてくださるという神秘を黙想いたしましょう。

また、それにもかかわらず、世の多くの人々は隠れた主を知らず、あるいは無視して、もしくは主に反対して罪を犯し、不幸になっていることを考え、ご降誕を良く迎えるために、私たちが主を求めていったい何をしなければならないかということを併せて黙想いたしましょう。

【1:天主は世界に現存しておられる】

天主は、全宇宙に存在しておられ、私たちのまわりを見回すと、この世界は主の御稜威で満ちています。たとえば、天空の数えきれないほどの星々は、天主の栄光とその絶大な力を賛美しています。また、地球の大自然と、そこに住むありとあらゆる動物や植物は、知恵深い全能の天主の存在を証言しています。

聖パウロは次のように言っています。

「天主の不可見性、すなわちその永遠の力と天主の本性は、世の創造のとき以来、そのみわざについて考える人にとって、見えるものである。」(ローマ120

天主は全宇宙を超越しておられ、天主と全ての被造物とは絶対的に区別されます。ですから、私たちは、全てのものが天主であるとする汎神論の主張を受け入れません。何故ならば、天主は全てのものを超越しておられるからです。しかし同時に、天主は全被造物を有らしめておられる方なので、全宇宙のありとあらゆるところに現存しておられます。聖ヨハネはこう言います。

「万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ13

人々は、大自然の研究に多くの時間を費やしています。天文台で星々の観察をし、あるいは地球のあらゆるところを探検して回りますが、残念ながら、多くの人々は創造主を知るに至っていません。この全宇宙の美しさに感嘆しつつも、天主のことをすっかりと忘れています。こうして、天主は人々の目には隠されています。

【2:天主は歴史を導いておられる】

これだけではありません。天主は、歴史の中に深く潜んでおられます。歴史は、天主の知恵によって導かれており、人類が歴史の中に登場して活躍する以上に、天主は私たちの歴史に深く関与されています。複雑で様々な歴史の出来事は全て、その御手のうちにあり、全人類の歴史は天主の愛の実りです。私たち人類の歴史の背後には、天主の愛の御計画があるのです。

人間は、歴史を築き、歴史書を書き、それを読んでいますが、歴史のうちに天主の御摂理(天主の御手)を見出す人はほとんどいません。天主がお考えになる通りに、誰が歴史を理解できるでしょうか?

この意味でも、天主は人々から隠れておられるのです。

ところで、聖書を深く知れば知るほど、特に旧約聖書を紐解いていくにつれ、天主の現存を深く悟ることができます。何故なら「何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に語られ」(ヘブレオ11)た、救い主に関する数多くの預言があるからです。

預言だけではありません。旧約の無数の歴史的な出来事や人物、物事それ自体が、救い主のことを予告し、前兆・前表となっています。そして、そのありとあらゆる預言と前表は全て、イエズス・キリストにおいて全て成就しているのです。これを見ると、主がまさにそこに現存していると言わざるを得ません。このように、天主は歴史を導かれ、時において人間となられました。今日の福音で読まれた通りです。

「ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンツィオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤ分国王、その兄弟フィリッポがイトゥラヤとトラコニティス分国王、リザニアがアビレネ分国王、アンナとカヤファが大司祭だったとき」、ついに時が満ちて、人となられた天主イエズス・キリストが、公生活を始める時が来ました。その準備のために、洗者聖ヨハネが呼ばれました。

私たちの主はその時まで、マリア様の御胎内におられる時やベトレヘムでお生まれになる時、あるいは、ナザレトで30年間の御生活をする時も隠れておられました。いいえ、主はそれから公生活を始められても、カファルナウムでも、ティベリアの湖畔でも、お説教する時もどこであっても控えめに隠れておられました。ゲッセマネでも、カルワリオでも、ご自分が天主であるということは隠されていました。

マリア様をのぞいて一体誰が、主の秘密とその深い神秘をよく理解できていたでしょうか?

福音史家聖ヨハネが言う通りです。

「光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。… すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。」(ヨハネ159-11

【3:教会はキリストの神秘体としてこの世に存在する】

天主の現存は、この地上の世界に生まれ、御受難の後に復活、昇天されて終わったのではありません。主は、世の終わりまで私たちと共にいてくださるにもかかわらず、人々は主のことを知りません。主はこの地上で、ご自分の立てられた教会において、神秘的な命を生きておられます。何故ならば、教会はキリストの神秘体としてこの世に存在しているからであり、しかもこの世の終わりまで存在し続けます。

ですから、イエズス・キリストは教会を通して、教会の口を通して私たちに教え続けてくださいます。

「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は、私をこばむ人である。」(ルカ1016

イエズス・キリストは、教会に与えられた全てのものを、まるでご自分のことであるかのようにお考えになります。そして、キリストは教会の悲しみにおいて苦しまれます。教会を迫害することは、イエズス様にとってご自分を迫害することです。かつて、教会を迫害していたサウロに主はこう言われました。

「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか?私はあなたが迫害しているイエズスである。」(使徒行録94-5

イエズス・キリストは、教会の勝利によって凱旋します。教会はキリストの神秘体ですが、人間の外観のもとに隠れて、時に迫害を受け、あるいは凱旋し、喜び悲しみます。このように、キリストの教会は常に善行を行いつつ歴史を旅します。

しかし、かつてこの世が主を知らなかったかのように、この世もまた主の教会を知りません。洗者聖ヨハネがイエズス様について言ったことが、現在の教会にも当てはまるかのようです。

「あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている。」(ヨハネ126

残念ながらキリスト教信者であっても、神秘体としてのイエズス・キリストが、私たちの中に生きておられることを知らずにいる方々が多くおられます。イエズス様が、教会において神秘的に現存されているにもかかわらず、これは多くの人に隠されています。

【4:天主は御聖体において現存する】

そればかりではありません。天主は教会の建物の中に、真に現実的に実体的にましまし、世の終わりまでとどまられます。それは、御聖体です。天国を例外とすれば、御聖体におけるよりもっと主が強く現存されるところが、いったいどこにあるでしょうか?

天主は御聖体において、私たちの大きな願いを遥かに超え、私たちが大胆に希望するようなものを大きく上回って答えられます。御聖体こそ、私たちが想像する、狂ってしまったかのような愛よりも、天主がさらに巨大な愛で私たちを愛してくださるお方であることを示しています。いわば、天主の愛のあらわれです。

御聖体において、私たちは主を食し、私たちは主に変えられます。御聖体において、主は私たちのものとなってくださいます。主は私たちの糧、私たちの命です。

ですから、御聖体よりも主の現存が強烈なものはあり得ません。それにもかかわらず、御聖体ほど主の現存が隠されているものもありません。

聖トマス・アクィナスが言うように「十字架の上では天主の本性だけが隠されているけれども、ここ(御聖体)においては主が人間であることさえも隠されている」のです。

【5:結論:天主は私を導いておられる】

隠れた天主は、宇宙に、歴史の中に、教会の神秘体として、御聖体において現存されますが、これら天主の神秘について考える時、それは信仰の光によって明らかにされます。

このように天主が現存されているのは、いったいなぜなのでしょうか?

なぜ、天主は歴史を導き、時において人間となられたのでしょうか?

なぜ、天主は世の終わりまで、教会において私たちに語り、また働きかけてくださるのでしょうか?

いったいなぜ、天主は御聖体にまでなられ、私たちと共にとどまってくださるのでしょうか?

それは、愛する兄弟姉妹の皆様と私のためです。天主は、私たちをご自分の似姿と肖像に従って創造されたばかりではなく、私たちをご自分の尊い御血によって罪から潔め、聖霊の賜物によって私たちを飾ってくださいます。さらには、ご自分の御体によって私たちを養おうとしてくださるのです。

それは私たちを永遠の至福の命へと導くためです。そのためにこそ、イエズス・キリストは人となられ、私たちのもとにお生まれになりました。

このことを考えると、資本主義が教えるように、私たちは単なる消費者ではありません。共産主義が言うように、単なる労働者ではなく、日本の国家が述べているように、マイナンバーの番号でもありません。あるいは、現代の社会が教えるように、インターネットで接続されているようなモノでもありません。

私たちは、天主の聖心において最も大切な子供、天主の養子にして、天国の遺産相続者であり、天主の深い愛の対象です。だからこそ天主は人となられ、私たち一人ひとりの人生に、その霊魂の中に最も深く特別な方法で隠れ、しかしながら、真に現存なさっておいでです。

そうやって天主は、私たちに完徳と至福への道をたどらせるために、私たちの知らない道を、とても神秘的に優しくお導きになります。

天主が、そのとてつもない愛によって、私たちをどれほど永遠の昔から愛しておられるかを、私たちには今は全てを知ることができません。それは今、隠されているからです。

私たちの一生は、喜びと悲しみ、希望や心配、仕事と休息が交差し、無数の状況のうちにありながらも、それら全ては、天主の愛の御業であり、天主の愛の実りです。主はこう言います。

「あなたたちは、頭の髪の毛まで、みな数えられている。」(マテオ1030

「おそれるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国をくださろうというのは、あなたたちの父のおぼしめしである。」(ルカ1232

ただ罪だけが、天主と私たちを断絶させます。しかし、たとえ罪を犯してしまったとしても、主は、私たちが悔い改めて回心すること、罪を捨てて主に立ち戻り、償いをするようにと導いておられます。

私たちに起こる全ての出来事の裏には、いつも天主が隠れておられます。全てのことは、天主を隠すベールであるかのようです。主は、私たちの心の最も深いところに現存しておられます。特に、成聖の恩寵の状態にある霊魂の奥底には、主が親しい友として住まっておられます。その時、私たちの霊魂は主の至聖所となり、それは、あたかも御聖櫃であるかのようです。

主は、次のようにおっしゃいます。

「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。」(ヨハネ1423

【6:遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

この世において、天主は色々なやり方で私たちのもとに現存され、愛を示してくださっているにもかかわらず、主は隠され、多くの人々は主を無視しています。しかも罪を犯して、主を心から追い出そうとします。何故でしょうか?

それは、私たちが隠れた天主を求める代わりに、被造物を求めるからです。自分を求めているからです。

私たちが、天主を天国で所有させて頂くに至るまで、私たちはこの世において全て幸せと完成を求めています。ですから、富や権力、名誉、知識を求め、快楽を追求し、愛を夢見る人もいるでしょう。

このように、被造物に幸せを求め追求する人は、いつの日かそれを見出すと、実はそれが、はかなく惨めなものであったと気が付きます。

自分を追求することに喜びを求める人もまた、ついに自分を見出しますが、実は自分自身はからっぽで、何でもない無に等しい存在であることを悟ります。

多くの人は、一生をかけて努力し、たくさんの労力を注いだ後に、影と偽りをつかむだけです。残念ながら、それが人類の大部分です。ですから、数多くの人々は本当の幸福を知りません。生ける水の湧き出る泉である天主の代わりに、壊れた井戸を探しているからです。

この世の人々の多くは天主を知らず、または天主を忘れ、天主に対して罪を犯しています。天主ではなく被造物を追い求め、自分を追求しています。この世のことに没頭すればするほど、天主は隠され見えなくなります。

ですから、私たちは被造物や自分ではなく、天主を求めましょう。

そのためには、被造物を求め自分に頼ることで山のように高くそびえている傲慢さが、自分を無にして天主を求める謙遜によって低められなければなりません。

今日時が満ちて、洗者ヨハネは、くいあらための洗礼をこのように教え始めたのではないでしょうか?

「主の道を準備し、その小道を正しくせよ。すべての谷はうめられ、山と丘とはみなならされ、曲りくねった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らにされ、人はみな天主の救いを見るであろう。」

天主を求める謙遜な人々は皆、天の恵みを受け、主の救いを見ることになります。もうすぐ、目に見えない天主は、愛の愚かさによって目に見える人間となられます。それは「目に見えるやりかたで私たちが主を知ることによって、目に見えないものへの愛へと私たちが惹かれるため ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur」であると、御降誕の序誦は私たちに教えています。

最後に、マリア様にお祈りいたしましょう。

御降誕を数日前に控えた私たちが、被造物ではなく、主をますますこい求めることができますように。

「ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンツィオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤ分国王、その兄弟フィリッポがイトゥラヤとトラコニティス分国王、リザニアがアビレネ分国王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネの上に、天主のみことばがくだった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。