天主は、なぜ私たちに三位一体の内的生命の神秘を啓示して、これを信じるように求められたのか?

ソース: FSSPX Japan

2021年5月30日  三位一体の主日

トマス小野田圭志神父  説教(テレワーク式)

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2021530日、三位一体の主日です。三位一体という天主の内的生命の秘密について黙想しましょう。

 

1:三位一体とは?

使徒聖ヨハネは断言します。「天主は愛である」と。教会は、典礼暦を通して、毎年、天主の人間に対する愛について黙想しています。

待降節から降誕祭にかけて、天主が罪人である人間を永遠の命へと救うために、人間となってお生まれになったことを黙想しました。

四旬節から復活祭、御昇天にかけて、御受難と御死去により私たちの罪を贖い、復活されて天に昇られたことを記念しました。

さらに先週の聖霊降臨祭では、私たちに聖霊が贈り物として与えられたことを祝いました。

こうして、聖霊という真理の霊を受けた私たちは、ついに「三位一体」という天主の奥底の永遠の秘密について垣間見る特権が与えられました。

旧約では、天主が唯一であることがまず強調されました。それでも例えば創世記には、天主が「私たちの似姿に従って、私たちにかたどって、私たちは人間を創ろう」(126)と言われたとあります。預言者イザヤは、セラフィムの声が天主の玉座に鳴り響くのを聞きました。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主、万軍の天主!」(63)。しかし時が満ちると、天主は永遠の御一人子をこの世に与え、聖霊を与え、私たちに真理を教えました。その時、もはや、天主が唯一であることを知るだけでは不十分と主は考えられ、天主が三位一体であると私たちが知ることを望まれました。

三位一体とは、唯一の天主に父と子と聖霊との三位があるという神秘です。

三位一体の三つのペルソナ(位格)は、唯一の同じ天主の本性で、同じ実体です。しかし、父と子と聖霊とは互いに現実に区別されます。現実に(ラテン語で realiterという)区別されるというのは、頭の中でそう考えただけではなく、私たちが何をどのように考えようが、現実のこと(ラテン語で resという)で、そのように区別されるということです。

三つのペルソナの区別は、その起源によるものです。

御父は何からも創造されず、生まれず、発出しません。しかし、御父は永遠に御子を生みます。

御子は御父のみから生まれます。聖霊は、御父と御子とより発出します。

御父は天主、御子は天主、聖霊は天主ですが、しかし、三つの天主ではなく、唯一の天主です。

この玄義(神秘)を、私たちが全て把握する(理解し尽くす)ことはできません。把握できなくても、理性に反しているわけではありません。何故なら、矛盾律に反しているわけではないからです。つまり、同じものが同じ意味と観点とから同時にそうでありそうでないということではないからです。

唯一の天主が存在するということは、人間の理性だけで到達できる真理です。私たちが今、生きている現実の世界を観察して、それらの現実があるためには、それらの究極の根拠(最終の原因)が存在すると措定しなければならないからです。私たちが存在することを認めるなら、どうしてもなければならない究極の唯一の原因を、私たちは「天主」と呼んでいます。

しかしペルソナの起源に関する神秘は、天主の永遠の内的な生命に関するもので、私たちの理性だけで到達することができる内容ではありません。啓示される必要がありました。

天主は、私たちにこの三位一体の神秘を啓示して、それを信じるように求めました。

(目に見えない三位一体をイメージすることはできないのですが、御影や神秘的なヴィジョンなどでは、人間となった御子が人間の姿で表され、御父が、永遠を意味して年を取ている様子でさらに御子と似た男性の姿で表され、聖霊は、イエズス・キリストの洗礼の時に鳩のような形をとって現れたので、鳩のような姿で表される場合があります。しかし、これは単なる表現にすぎません。)

では、何故、天主は、理解しつくす(把握する)ことのできない、イメージすることもできない、天主の本質に関することを私たちに特別に教え(啓示し)たのでしょうか?

それは、御自分の生命の内部にもっとも親密に私たちを一致させるためでした。天主の永遠の至福直感を私たちに与えるために、準備するためでした。その時、天国において、私たちは、天主が三位における一なること、一なる天主における三位を認識して、三位一体の愛の円居(まどい)において、礼拝と賛美と感謝とを捧げることでしょう。

 

2:この世に生きる私たちと三位一体との関係

こうして、新約時代に生きる私たちには、三位一体の神秘が教えられ、三位一体と私たちとには主に三つの深い関係があることが知らされました。

(1)私たちは、三位一体の天主の似姿に従って、三位一体の天主にかたどって創られました。天主の似姿やかたどりとは、知性と意思を持っていること、聖寵を受けることができることがそうです。創造の御業において、天主御父の私たちに対する愛が明らかになります。

(2)私たちは、洗礼によって超自然の聖寵の生命を生き始めます。ところで、洗礼は三位一体の名前によって受けますから、私たちは三位一体の名によって霊的に再び生まれるということです。私たちは三位一体の天主の養子となり、三位一体に属するものとなります。洗礼とは、贖いの御業の実りですから、十字架を通した贖いの大事業による天主御子の私たちに対する愛が明らかになります。

(3)洗礼を受けると私たちは三位一体の神殿となります。聖寵を受け、成聖の状態にあるとは、つまり、三位一体が私たちの霊魂に住まわれるということです。私たちの聖化の業、私たちを聖なる者とする御業において、聖霊の私たちに対する愛が明らかになります。

 

3:三位一体を礼拝する

カトリック教会にとってミサの究極目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえです。そこで聖伝のミサには、どこかしこにも三位一体への言及があります。

主日ごとに唱える「三位一体の序誦」(「新しいミサ」では一年に一回だけです、奉献の祈りには、"Suscipe, Sancta Trinitas"の祈り、ミサの終わりには"Placeat tibi Sancta Trinitas"の祈りがあります。(「新しいミサ」ではこれらの祈りがありません)

三回ずつ唱えるキリエ・エレイソンは三位一体への暗示です。(「新しいミサ」では二回ずつです)

聖伝のミサ典書には、平日の月曜日には、聖三位一体の随意ミサをすることが提案されています。

カトリック教会は、三位一体を常に賛美して、栄唱を唱えます。聖務日課では詩篇を唱えるごとに栄唱を唱えながら、敬礼します。「願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを、始めにありしごとく、今も、いつも代々に至るまで。アメン」。

十字架の印をする時も、「父と子と聖霊との聖名によりて、アメン」と言って十字架を切ります。使徒の時代から私たちにまで伝えられた聖なる習慣です。使徒たちは、どれほど深い信仰と信頼と熱心とをもって、清い心で十字架を切ってきたことでしょうか。ルルドでは、聖母はゆっくりと十字架を切り、聖ベルナデッタもそれを真似してゆっくりと切りました。

三位一体については特に、Quicumque vult salvus esse(救われることを望むものは誰でも)という言葉で始まる「アタナシオ信教」が有名です。

https://fsspx.jp/ja/shengatanashiusuxinjingwozhitsuteimasukasanweiyitit…

(これは、西方教会の聖伝によると、アレクサンドリアの総大主教聖アタナシオ(298-373)に由来すると伝えられています。8世紀にはこのアタナシオ信教を聖ボニファチオがドイツで歌わせました。フランスでは11世紀までフランスの全ての教会で毎日歌われていました。)ローマ典礼では、1960年の典礼法規の改定まで、聖務日課で毎週主日(日曜日)に唱えていました。1960年の典礼法規の改定で、一年に一回、三位一体の祝日だけになりました。

三位一体の名前で受ける受洗記念日は、私たちにとってとても大切な日です。聖カルロ・ボロメオによると、ナジアンスの大聖グレゴリオは受洗記念日を毎年祝うのは古代からの習慣であると言っています。11世紀にはキリスト教世界ではどこでもそうだったという記録("Micrologus")もあります。どんな下等動物も肉体における誕生日はありますが、三位一体の生命に生まれる日を持っているのは人間だけだからです。

幼きイエズスの聖テレジアは、189569日の聖三位一体の祝日に、自分を「天主のあわれみ深き愛にはんさいのいけにえとして」捧げました。こういう言葉で始まります。

「おお、天主よ、至福なる三位一体よ、われは主を愛し、また主を愛せしめることを望み奉る」。

 

4:現代における三位一体の大切さ

特に現代ではとりわけ三位一体を信じることが大切です。ファチマでは、天使が三位一体を深く礼拝する模範を見せてくれました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る」。

https://fsspx.jp/ja/fuachimanotianshinoqiri-50907

1929年、シスター・ルチアは、トゥイにある修道院で、三位一体のヴィジョンと聖母のご出現を受けました。このヴィジョンは、天主三位一体の私たちに対する愛(聖寵と憐れみ)を如実に示しています。

1929613日、木曜日から金曜日の夜、11時から真夜中まで、聖時間をしていると「突然、全聖堂が超自然的光に照らされて、祭壇から天井に至るまで、光り輝く十字架が現れました。十字架の上には強く輝く男性の顔と、胸の前に光る鳩と、十字架上に釘づけられた一人の人間の姿が見えました。その人の脇腹の少し前に、空中に立っているカリスと、ホスチアがあり、釘づけられたイエズスの顔と、その脇腹の傷から血の雫がしたたっていました。雫はホスチアの上に流れ落ち、それから、カリスの中にしたたり落ちました。十字架の横木の右の下に聖母が居り、その手に汚れなきみ心を持っていました。それは、十字架と炎の茨に囲まれたファチマの聖母でした。十字架の横木の左の下から、すき通った大きな文字が清らかな水のように祭壇の上にまで流れ落ちて、聖寵と憐みという言葉が書かれました。私はそれが私に示された、いとも尊い三位一体の奥義だったと悟りました」。)

秋田のシスター笹川は、迫害の夢を見ました(1974610日月曜日)。夢の中で、カトリックの神学者のような姿をしている人が「三位一体の神がなぜ唯一であるのか八百万の神々も神と信じる、と言え。でなければ、この苦しみを受けよ!」と言いながら、大きな蛇をシスターに投げつけました。シスター笹川は、夢の中で、蛇に絡まれて苦しんでいました。

すると司祭が夢の中で『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の御名(みな)によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『われわれは皆、三位一体の天主が唯一の天主であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高く宣言すると、蛇も離れ、目を覚ましました。

安田神父様は、これについて現代のエキュメニズムの危険を描写していると指摘しています。

 

5:遷善の決心

まことの天主は、三位一体であること、そのことを知り、信じ、礼拝し、愛するお恵みを感謝いたしましょう。

三位一体から、どれほど大きな愛と聖寵と憐れみを受けているかを考えて感謝し、天主をお愛しいたしましょう。

私たち人間は、単なる物質だけの機械ではありません。少し前の唯物論的なマルクス主義、今はやりのトランスヒューマニズム(人間改造主義)などは、私たちを不幸にさせます。

人間は、天主との愛の一致へと招かれている存在です。天主こそが私たちを最初に愛してくださいました。「天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある。愛する者よ、天主がこれほどに愛されたのなら、私たちもまたたがいに愛さなければならない」(1ヨハネ419)。

イエズスの聖心も聖女マルガリタ・マリア・アラコックにこう訴えています。

「人々をかくも愛したこの聖心を見よ! この無限の愛に対する応えとして、私は何の感謝も受けないばかりか、かえって、忘恩、冷淡、侮辱をもって報いられ、しかも特に私を愛する義務のある人々からさえ、たびたびそうされる!」

詩篇69にはこうもあります。「私は、あざけりに心を打ち砕かれ、・・・いたわってくれる者を探したが、一人もなく、慰めてくれる者も見つけることが出来なかった」。

聖心のこのようなお嘆きを聞くと、主を愛する心はじっとしてはいられません。私たちは、償いたい、主をお慰めしたいと思います。

愛する方を喜ばせようと思うとき、愛は全てに打ち勝つと言われています。殉教者の持っていた愛、諸聖人の持っていた愛です。

聖アウグスチヌスはこう言います。

Nihil est tamen tam durum atque ferreum, quod non amoris igne vincatur.

しかし、愛の火によって打ち勝つことができない程の、難しくしかも鉄のように固いことは何も存在しない。

De_Moribus_Ecclesiae_et_de_Moribus_Manichaeorum

聖アウグスチヌスは、こうも言います。

Nam in eo, quod amatur, aut non laboratur, aut et labor amatur.

愛しているならば、あるいは労苦ではないか、あるいはその労苦を愛するか、のどちらかだ、と。

「愛」があるなら、「辛い」はない、または、辛いが「甘い」。

同じ聖なる司教はこうも言いました。Da amantem et sentit quod dico.

「愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる」。

つまり、私が言っていることは、愛する者でなければ分からない、愛する者であれば、それが何であるかを直ぐに感じ取るだろう、と。

ファチマの聖母に祈りましょう。私たちが三位一体の天主の愛の神秘の中に深く入ることができますように。

「そのとき、イエズスは、かれらに近づいて、おおせられた。『私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる』」。