四旬節第一主日の説教―「断食」カトリックにとって肉体的な苦行の意味とは(大阪)

ソース: FSSPX Japan

荒れ野で断食をするキリスト

四旬節第一主日の説教―「断食」カトリックにとって肉体的な苦行の意味とは(大阪)

2026年2月22日 イヴォン・フィルベン神父

四旬節第一主日の説教―「断食」カトリックにとって肉体的な苦行の意味とは(大阪)

親愛なる信者の皆さま、

この前の水曜日は、おなかが空いていましたか。もしそうなら、それは良いことです。なぜなら、断食には空腹が伴うので、ある程度の苦しみがあるからです。四旬節の間、私たちはある程度の苦行をするよう求められています。もちろん、四旬節は肉体的な努力に限られるわけではありませんが、肉体的な努力は四旬節の不可欠な部分です。実際、今日の主日の福音には何が書かれているでしょうか。私たちの主が、荒れ野で肉体的な苦行を実践されるのです。「四十日四十夜断食してのち、飢えを感じられた」(マテオ4章2節)。四旬節の努力は肉体的なものだけに限られるわけではありませんが、私たちの主の模範は、肉体的な努力が四旬節の不可欠な部分であることを示しています。

この説教では、断食に関連する努力に焦点を当てながら、肉体的な苦行のカトリック的意味を明らかにし、それを適切な方法で実践するためのヒントをいくつか示したいと思います。

1)肉体的な苦しみは罪から来る

まず、明確にしておきたいことがあります。人間の肉体的な苦しみは天主の意向によるものではなく、原罪の結果なのです。エデンの園において、アダムとエワは、「外自然の賜物」として知られる、天主から与えられた特別な賜物によって、肉体的な苦しみと死から守られていました。これは、私たちの肉体が自分の精神的な霊魂に非常に似たものとなるために、人間の本性に与えられた賜物でした。私たちの霊魂は死にませんから、肉体も死なないのは当然のことでした。同様に、霊魂は苦しみを受けませんから、肉体も苦しみを受けないのは当然のことでした。したがって、天主は、食べる楽しみといった肉体的な楽しみを創造され、人間を物質的な肉体に伴うさまざまな苦しみから守ってくださったのです。しかし、原罪はこの美しい創造物を破壊しました。原罪によって天主から切り離されたアダムは、天主が全人類に与えられた賜物を失いました。人間は死と苦しみを経験し始めたのです。

しかし、私たちが自分の経験を振り返ると、この状態とそれに伴う外自然の賜物の記憶は依然として残っています。実際、苦しんでいる時はそれを異常だと感じ、健康な時はそれを全く正常なこと、そして永遠に続くはずのものだと感じます。これは人類の記憶に残っている名残です。本来は、天主は私たちを苦しみのない状態に創造されたのです。

残念ながら、これは漠然とした遠い記憶に過ぎません。なぜなら、私たちは、アダムとエワがエデンの園から追放されたときに言われたことを経験しているからです。エワには、「おまえは苦しみつつ子を生むことになる」(創世記3章16節)、アダムには、「おまえは額に汗してパンを食すだろう」(創世記3章19節)であり、二人とも病気に苦しむのです。したがって、私たちがこの世で目にする苦しみは、常にアダムが犯した原罪と関係があり、時には私たち自身の罪、あるいは他人の罪とも関係があるのです。

2)苦しみは贖いの道具となる

しかし、もし苦しみが単なる罰に過ぎないのなら、私たちは、この世でしようとするように、どんな犠牲を払ってでも、苦しみから自分を守らなければなりません。しかし、今日の主日の福音には、何が記されているでしょうか。私たちの主は、進んで40日間断食を耐え忍ぶことで、自ら苦しみを受けられました。何という苦しみでしょうか! イエズスは、御自らの務めを始めるにあたり、自発的な苦しみ、飢えの苦しみを選ばれます。しかし、イエズスは原罪の影響を受けてはおられません。断食だけでなく、御受難においても、進んで苦しみを経験することを選ばれたのは、この苦しみには別の意味があるからなのです。その意味とは何でしょうか。

苦しみには、贖いの力があるのです。天主は、苦しみを罰とすることに満足されず、私たちの主イエズス・キリストの十字架を通して、苦しみを私たちの贖いの手段とされました。十字架上で、苦しみは、私たちの天主への愛の不足を補う手段となります。愛することは、苦しみを受け入れることであり、愛なくして苦しみはなく、愛から受け入れる苦しみが、愛の最大の証しです。私たちの主は、父なる天主への愛から、最大の苦しみを受け入れることによって、原罪および私たちのすべての罪という恩知らずぶりを贖ってくださいました。十字架上の主は、人間の苦しみの意味を変えられました。十字架上で進んで受け入れた苦しみは、罪によって尊厳を貶められた父なる天主への愛を表す手段となります。主が私たちに示してくださった模範は、人類の罪を償うために、天主への愛から自ら受け入れられた苦しみなのです。

3)どうすればこれを行うことができるか

苦しみそれ自体は悪ですが、天主への愛から受け入れ、十字架の犠牲と一致した苦しみは、私たちの罪の贖うものとなります。これが、私たちが苦行と呼ぶものです。天主への愛から受け入れ、イエズスの犠牲と一致した苦しみです。私たちは四旬節の間、このような苦行を実践しなければなりません。しかし、どうすればこれを行うことができるでしょうか。

まず、重要な区別をしなければなりません。すべての苦しみが苦行というわけではありません。実際、受け入れるべきではない苦しみもあります。それは、人間の不正や不平等によって起こる苦しみです。苦行とは、すべての苦しみを耐え忍ぶことではなく、天主への愛から受け入れ、私たちの主の犠牲と一致した、ある種の苦しみです。

親愛なる信者の皆さま、四旬節の間に私たちが自らに課すわずかな苦しみは、次のように経験しなければなりません。そうでなければ、それは意味がないのです。私たちは、健康上の理由ではなく、自分の罪を償うために断食します。同様に、私たちは単に規則に従うためだけに断食するのではありません。まず、四旬節の苦行を行う際の心の状態を省みなければなりません。イエズスへの愛から、また自分の罪と他人の罪を償うために行っているのでしょうか。どのような罪のために、どのような意向のために償いをしているのでしょうか。

実際的には、私たちは何をすべきでしょうか。教会が厳しく要求している断食の日、大斎小斎の日は、灰の水曜日と聖金曜日の2日だけで、60歳未満の成人に適用されます。聖ピオ十世会の会員は、四旬節の金曜日と、四季の斎日の水曜日と金曜日と土曜日に、伝統的な大斎小斎の日を守っています。また、すべての信者も、これらの日を守るよう勧められています。大斎小斎は教会の典礼にも従わなければなりません。例えば、主日には行いません。

大斎小斎は通常、1日に1回だけ肉のない食事を取ることであり、個人個人の必要に応じて1回か2回の軽い食事を加えることができます。私たちの努力は真摯なものでなければなりませんが、長期的に見て現実的でなければなりません。また、現実的で検証可能な行いでもなければなりません。例えば、「あれかこれかを控えよう」と言うのでは十分ではありません。それはあまりにも漠然としています。そうではなく、何を食べないかを具体的に明確に決めなければなりません。

親愛なる信者の皆さま、この四旬節の間、すべての人は、それぞれの責任、年齢、健康状態などに応じて、必要最小限を超えるところまで寛大になるよう招かれています。しかし、キリスト教徒のあらゆる苦行の二つの根本的な目的、すなわち罪の償いと、私たちの主の犠牲との一致を、注意して心に留めておきましょう。