四旬節第一主日の説教

ソース: FSSPX Japan

キリストの試み

四旬節第一主日の説教

2025年3月9日 大宮 ピーター・フォルティン神父

四旬節第一主日の説教―断食の意味

今日のミサの福音で、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストは、砂漠に入られ、聖なる断食をされます。その断食は四十日四十夜続くと、明確に記されています。そして、私たちの主は、悪魔がご自分を試みるためにやって来ることをご存じです。また、私たちの主が飢えておられることも、はっきりと書かれています。悪魔は、このことを知っています。ですから、最初の試みは、食べ物によって行われます。「あなたが天主の子なら、これらの石がパンになるように命じよ」。ある意味で、私たちは、このことを疑問に思い、なぜ主はそうなさらないのだろうかと問うかもしれません。私たちの主は天主の御子であり、奇跡を起こすことは簡単におできになる上に、飢えておられます。私たちは、悪魔と対話するのがよくないことなのは知っていますが、どこに罪があるのでしょうか。この大したことではなく無害なように思える試みの、どこに危険があるというのでしょうか。

その背景を十分に理解するために、私たちは、最初の父祖と原罪の話に立ち戻ります。悪魔は、アダムとエワを食べ物で試みます。天主は、彼らに禁じられた実を食べてはならないと言われました。私たちの最初の父祖は、天主から断食をするよう言われましたが、断食を破って禁じられた実を食べたのです。私たちは、このことに、簡単に目を通すだけになりがちです。これによって彼らは、命の源を自分たちの内に持つこと、つまり天主に依存しないことを期待したのです。彼らは、この天主に依存しない命の源を望んだのです。この最初の罪、不従順の罪、天主の命を人間の霊魂から遠ざけた罪によって、天主に依存することや、天主に注意を向けることをやめたのです。すると人間は、食べ物を取りますが、命は天主から切り離されています。人間は、自分を創造してくださった天主に依存しないようになるのです。これによって、人間と天主との間に、霊的な深い淵が存在を始めたのです。

福音に戻って、悪魔の試みに対する私たちの主のお答えは、非常に力強くて明確なものです。「人はパンだけで生きるのではなく、天主の口から出るすべての言葉によって生きる」。つまり、私たちの命は、天主に依存しているということです。私たちの主は、この基本的な真理を回復させてくださるのであり、私たちは天主に由来し、天主は私たちにすべてのものを与えてくださるのです。天主の内に命があります。天主は、この命を私たちに分けてくださるのです。天主に依存しない命はありません。悪魔が私たちの主に対してするように、天主に依存しない命があるとほのめかすなら、それは幻想であり、死に至るものです。これは、私たちが全面的に天主に依存していることを回復させるという問題なのです。

さて、教会の規定にある断食は、私たちの主イエズス・キリストの断食を模範としています。断食は、キリストに従う者である私たちカトリック信者にとって、大きな霊的意味を持っています。断食とは何でしょうか。教会が制定したように、断食とは、私たちの主イエズス・キリストの命にあずかって、主が食べ物、この世のもの、肉、悪魔への愛着から、私たちを解放してくださることです。断食は、天主に依存しないという精神から、私たちを解放してくれます。断食は、正しい霊的見解、つまり、私たちは天主から命を受けており、食べ物やこの世のものは、私たちを天主に導く限りにおいてのみ、私たちにとって良いものであるということを再確認することです。私たちが、ある意味で「天主のものに飢えて」、自分が天主に依存していることを再確認するのは、断食によって、飢えることによってのみなのです。

四旬節の間、よくあることですが、私たちは、何を諦めなければならないかという点で、四旬節を否定的に捉えがちです。確かに、霊的に有害なもの、あるいは霊的な進歩を妨げるものは諦めます。四旬節の最終的な目標は、自分自身から奪う以上のものを得ることです。常に天主に近づくことです。これはもちろん、一般的なことであり、祈りや徳に関しては、人によって異なるでしょう。教会が奨励していることの一つは、もちろん典礼に従うこと、つまり、四旬節の間、一週間あるいはひと月に一日多くミサに行くように特別な努力をしたり、毎日少しずつ祈りを上達させたりすることです。これによって、私たちはすでに、少しずつ天主に近づいており、私たちの創造主であり贖い主である天主のもの、つまり私たちの時間、注意、愛を、天主にお返ししているのです。