四旬節第四主日の説教―御聖体は私たちの生活の岩(大阪)
御聖体
四旬節第四主日の説教―御聖体は私たちの生活の岩(大阪)
2026年3月15日 イヴォン・フィルベン神父
親愛なる信者の皆さま、
この聖堂は間もなく移転し、これまでの多くのことが変わります。しかし、一つだけ変わらないことがあります。それは、新しい聖堂で最初のミサを捧げれば、小さな赤いランプが灯された御聖櫃と、私たちの主イエズス・キリストの御聖体の現存があることです。
カトリックの宗教において、神聖なのは、おもにこの場所やその場所だというのではなく、ミサと御聖体です。今この場所を神聖にしており、間もなく神聖でなくしてしまうものとは、何でしょうか。それはミサと御聖体です。なぜなら、間もなくここではミサが行われなくなるからです。今は高槻の聖堂を神聖にしてはいませんが、間もなく神聖にするものとは、何でしょうか。それは、ミサを捧げることと、御聖体の現存です。
この聖堂の移転によって、私たちの生活の中で一番確固としたものは御聖体の秘跡であることを、私たちがもっと深く認識することができますように。今日は四旬節の途中にある喜びの主日です。この喜びはどこから来るのでしょうか。今日のミサのテキストや祈りで表されているように、御聖体における主の現存から来るのです。幸せになりたいと思い、幸せを見つけたいと思うなら、御聖体を生活の確固とした基盤としなければなりません。なぜでしょうか、そしてどのようにしてでしょうか。この説教で私が掘り下げたいのは、まさにこのことです。
1)御聖体はエルサレムの代わりに、神殿の代わりになる
今日の主日の福音の話は、どこで起きたことでしょうか。ガリラヤです。いつのことでしょうか。「ユダヤ人の祭りである過ぎ越しは近かった」(ヨハネ6章4節)。これは非常に奇妙なことです。過越祭の間、ユダヤ人はエルサレムへ歩いて行くように命じられており、それ以前の毎年、イエズスはそこへ行っておられました。しかし今回は違います。イエズスは行かれないのです。
私たちの主は、何か新しいことを始めようとしておられます。主はエルサレムから距離を置いていることにより、エルサレムの代わりとなる準備をしておられるのです。エルサレムは実際、神殿とともに、旧約の宗教の中心地でした。エルサレムの代わりとなるものとは、何でしょうか。それは御聖体です。実際、今日の福音の中で、主はパンを増やし、それによって御聖体の制定を前もって示しておられるのです。御聖体は、実際には聖木曜日まで制定されませんが、ここで前表(ぜんぴょう)となっているのです。「私の与えるパンは、世の救いのために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)。
御聖体はカトリックの礼拝の核心であり、この礼拝では、御聖体とミサ以外に、中心に据えられているものはありません。御聖体は私たち一人一人の生活の核心、基盤とならなければなりません。それはなぜでしょうか。
2)エルサレムの堅固さ
このミサの典礼の中に、エルサレムへの言及が数え切れないほどあることにお気づきでしょうか。入祭唱、昇階唱、詠唱はすべて、エルサレムについて語っています。聖書において、エルサレムは、天主との契約が堅固であることを象徴するものであり、天主の保護を享受する町です。実際のところ、ダヴィドの王国は歴史を通して徐々に崩壊していきますが、エルサレムとその周辺の狭い地域は、私たちの主の時代まで存続していきます。バビロニアによる破壊でさえ永続的なものではありません。町の城壁と神殿は再建されます。このため、このミサの詠唱には、こうあります。「主に依り頼む者はシオンの山のようだ。エルサレムに住む者は決して揺るがない」(詩篇124篇1節)。
エルサレムの町は、旧約の時代には、すべてのイスラエル人にとって慰めの源でした。なぜなら、エルサレムは天主の約束によって、強力で、安全を保たれていたからです。しかし、最後には、一つの準備に過ぎなかったエルサレムは滅ぼされました。私たちの主は、御受難の直前に御聖体を制定されましたが、御聖体は、私たちにとって決定的な安全・安心感を与えるものであり、旧約のエルサレムが与えた安全よりもはるかに確固とした安全です。この安全・安心感は、御聖体が天主であることを私たちが知っているという事実から来るものです。過去において天主は、イスラエルの民の罪のせいでエルサレムの神殿から去って行かれましたが、聖別されたホスチアから去って行かれることは決してありません。「これは私の体である」と私たちに告げられたのは主ご自身です。ですから、御聖体はまさに主の御体であり、主の真の現存であり、それには少しの疑いもないのです。
私たちは信仰生活において、個人的には疑問や困難、苦しみを経験するかもしれませんが、次の確信を深く心に根付かせておかなければなりません。「御聖体を見るとき、私は天主を見る。天主はそこにおられ、私をお見捨てにはならない」。司祭が誰であろうとも、有効に聖別したホスチアに天主が現存しておられることを、私たちは知っています。
毎週の主日、ミサに行くとき、私たちは主の真の現存に出会いに行きます。そして、この現存は毎日続きます。新しい聖堂で最初のミサが捧げられれば、高槻の近隣には、主の現存がお住まいになります。そして、かつての高槻城主、高山右近は、天国で大きな喜びに満たされるに違いありません。
3)私たちは何をすべきか
私たちが立てることのできる第一の遷善の決心は、日々の祈りの中で、主の御聖体における現存と、毎日思いにおいて一致することです。これは、「御聖体への霊的訪問をする」と呼ばれています。高槻の聖堂に行けなくても、主の現存を思い、御聖体における主の現存と霊的に一致してください。主にこう申し上げください。「今日、実際にあなたの御前に行けなくても、私は霊においてそこにおります」。心の中の聖堂に行って、御聖櫃におられる主を礼拝しましょう。
第二の遷善の決心は、聖体拝領のことを気にかけておくことです。特に私たちの人生の中で非常に重要な、二つの聖体拝領です。
これらの聖体拝領の一つ目は、毎年復活祭のころに受けなければなりません。定期的に告解に行けば、定期的に聖体拝領をすることを考えると、この掟は少し奇妙に思えるかもしれません。しかし、教会はこの掟を通して、習慣として聖体拝領をするという危険から私たちを守りたいと望んでいるのです。この復活祭の聖体拝領のために、四旬節の間に回心によって準備をしなければなりません。この聖体拝領を特に大切にしましょう。そうすれば、私たちはそこから恩寵を受けるでしょう。
二つ目は、残念ながら信者の多くが忘れがちな聖体拝領です。それは死の前に受ける最後の聖体拝領であり、「ヴィアティクム」(viaticum)として知られる掟のことです。死が近づいていて、まだ可能であれば、御聖体を受けることのできる信者は皆、最後にもう一度御聖体を受けなければなりません。ですから、特別な儀式に従ってこの御聖体を授けてくれる司祭を呼ぶ必要があります。なぜこの掟があるのでしょうか。私たちが言ったことのある次のことを思い出してください。御聖体は私たちの支え、死よりも強いもの、永遠への旅路の糧。
親愛なる信者の皆さま、この聖堂は移転しようしており、これによって多くの変化がやって来ますが、変わらないもの、すなわち、私たちの生活を確固としたものにしてくれる御聖体のことを、私たちは改めて認識すべきです。毎日、御聖体と霊的に一致して、熱意をもって復活祭の聖体拝領を行い、この世を去ろうとする愛する人たちのために、旅路の糧の聖体拝領を忘れないようにしましょう。