四旬節第二主日の説教―天主の至福直観(大宮)
主の御変容
四旬節第二主日の説教―天主の至福直観(大宮)
2026年3月1日 イヴォン・フィルベン神父
四旬節第二主日の説教―天主の至福直観(大宮)
親愛なる信者の皆さま、
キリスト教徒の人生の目的は何でしょうか。天国へ行くこと、確かにそうですが、では天国で何をするのでしょうか。終わりなく、食べたり飲んだりするのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。目的は天主を見ること、至福直観です。天主を見ることが、私たちが存在する目的であり、至福の本質なのです。今日の主日の福音で、私たちの主は3人の弟子たちに、ご自身の人性を通して光輝く天主の本質をお見せになります。主は普段、人間としての特徴だけを見せ、この本質は隠しておられます。山上で、使徒たちはこの本質を垣間見るのです。この経験は聖ペトロに強い印象を与えており、彼の人生の終わりに第二の書簡で、そのことについて、こうほのめかしているほどです。「私たちは主とともに聖なる山にいたとき、天から下るこの声を聞いた」(ペトロ後書1章18節)。ただ声を聞いただけではなく、私たちの主の神性を、天主の本質を見たのです。
この福音は重要ですから、典礼では四旬節の途中に配置されています。なぜなら、この福音は、私たちの人生の目標を示しているからです。つまり、私たちの人生の目標は、天国へ行って天主の本質を永遠に観想すること、見ることなのです。逆に、私たちの人生には失敗する可能性が常にあります。その失敗とは地獄のことであり、その最大の罰は天主の本質の至福直観を完全に失ってしまうことなのです。天主が私たちを、この恐ろしい運命から救ってくださいますように! この目標を決して忘れてはなりません。私たちが道徳的・霊的な生活で行うすべての努力は、私たちが天主の至福直観に到達できるようにすることを目指しているのです。
この説教では、この至福直観がどんなものであり、どのようにしてそれに到達できるかを説明したいと思います。
1)信じることと見ること
まず、二つのこと、見ることと信じることを区別しなければなりません。私たちが目にしているものが存在していること、例えば、私がここで皆さまに話をしていることは明白であり、真実であり、疑問の余地はありません。しかし、天主に関しては、聖ヨハネが福音書の序文で「天主を見た人は一人もいない」(ヨハネ1章18節)と述べているように、私たちはそのような状況にはありません。例えば、私たちは天主が三位一体であると信じています。それは、聖書と教会の聖伝で、天主ご自身がそう語っておられるからです。しかし、それは明白なことではありません。それは私たちが目にするものではなく、天主ご自身が私たちに啓示されたからこそ信じていることなのです。
信徳唱は、こう唱えます。「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに論し給える教えを、ことごとく信じ奉る」。したがって、信仰は、常に真理である天主の権威に基づいているため、確実なものなのですが、目に見えないため、明白なものではないのです。
信徳唱については、教会に忍び込んだプロテスタントのいくつかの概念に注意してください。これらの概念によれば、信仰は確実なものではなく、単に「天主を信頼すること」だというのです。これは正しくありません。信仰は絶対的に確実であり、信じることは疑うことの反対です。しかし、信仰は目に見えないため、明白なものではありません。私たちは、三位一体である天主を見てはいませんが、天主が三位一体であることを絶対的に知っており、この真理を否定するくらいなら、死んだ方がましです。
2)天主の至福直観
私たちが天国に到達するならば、天国は至福直観への通路となるでしょう。しかし、対象が変わることはありません。私たちがこの地上で信じている天主が、天国で見る天主であり、まったく同じです。しかし、天国に行けば、私たちが天主と関わる方法が変わるのです。
一つ例を挙げましょう。ローマという街に魅了されている人を想像してみてください。この人は、でき得る限りのあらゆる本を読んで、映画を観て、写真や地図などを見てきました。あらゆる教会の歴史を知り、街路の配置を暗記するなどしてきました。しかし、実際にこの街を訪れる機会は一度もありませんでした。そしてある日、この人の夢が叶います。飛行機を降りてローマに到着します。この人はすでにこの地のことを知っていますから、何も新しいことを学ぶことはないでしょう。しかし同時に、それは全く新しい経験となるでしょう。この人は、大好きな街を自分の目で見るのです。何と大きな違いでしょうか! 本では伝えられないことがたくさんあって、街の色、匂い、雰囲気などを体験することになります。ですから、同じローマの街なのですが、全く異なる方法で体験するのです。
天主についても同じことが言えます。この地上で、カトリック教徒であれば、天主についての真理を知っています。ローマ・カトリック教会は、天主についての決定的かつ究極的な真理を所有しています。なぜなら、天主ご自身が、この真理を教会に伝えてくださったからです。他の宗教は天主についての真理を語りませんが、ローマ・カトリック教会はこの真理を語ります。しかし、「戦闘の教会」は…この地上にありますから、天主は見えません。カトリック教徒である私たちは、天主を本当に知っているのですが、天主を見ることはありません。ですから、天国では、同じ天主との間に、全く異なる関係、つまり天主の至福直観という状況が存在しているのです。カトリック教徒としての私たちの人生の全目的は、この至福直観の準備をすることです。しかし、どうすればそれができるでしょうか。
3)愛
まず信仰から始めなければなりません。信仰を持たなければなりません。信仰はすべての基礎です。真の信仰がなければ、天国に行くことはできません。だからこそ、私たちのカトリック信仰は、どんな犠牲を払っても守らなければならないものなのです。自分の信仰を決して危険にさらしてはなりません。ですから、もし教会指導者たちの中に、過ちや行動によって私たちの信仰を危険にさらす人々がいれば、私たちには彼らから距離を置く義務があるのです。
信仰が基本ですが、信仰だけに限定してはなりません。信仰は、救いのために十分なものではないのです。私たちには愛が必要です。実際、信仰は天国ではなくなります。なぜなら、信仰は見ることではなく、愛こそが、私たちを本当に天主と一致させるからです。この地上で天主を愛することは、天国で天主を愛することと全く同じです。違いはありません。だからこそ、聖パウロはこう教えているのです。「今あるものは信仰と希望と愛の三つである。そのうちで最も偉大なものは愛である」(コリント前書13章13節)
私たちは、信仰に忠実であることによってだけでなく、天主への愛によっても、天国の至福直観の準備をします。「愛をより多く持つ者は、天主をより完全に見、より幸福になる」(神学大全第1巻、第12問題、第6項)と、聖トマス・アクィナスは書いています。この世で天主を愛すれば愛するほど、そして天主のために隣人を愛すれば愛するほど、天国で天主をよりはっきりと見るようになるでしょう。もし少しだけ天主を愛するなら(地獄を避けることができるため、それはすでに大きな善です)、レンズが傷ついて使い古しになった小さな眼鏡で天主を見ることになります。しかし、心から天主を愛するなら、天主の栄華のすべてを享受できる3D眼鏡で天主を見ることになるのです。
四旬節の間、天主のために愛のわざを行いましょう。前回の四旬節よりも多くのことを行い、天国での至福直観をもっとよく享受するための準備をしましょう。
親愛なる信者の皆さま、「おまえの目は、王の栄華を見るであろう」(イザヤ33章17節)と、預言者イザヤは言っています。私たちは、この祝福を受けた運命に到達したいと願っています。そのためには、カトリックの信仰に忠実であることによって、また日々の天主への愛のわざによって、準備をしなければならないのです。