四旬節第二主日の説教―念祷(2026年、大阪と名古屋)

ソース: FSSPX Japan

祈り

四旬節第二主日の説教―念祷(2026年、大阪と名古屋)

2026年3月1日 ブノワ・ワリエ神父

四旬節第二主日の説教―念祷(2026年、大阪と名古屋)

親愛なる兄弟の皆さま、

灰の水曜日の聖体拝領誦は、次の助言を与えてくれます。「昼も夜も、主の掟を黙想する者は、ふさわしい時に実を結ぶであろう」。
今日の奉献誦はこう述べています。「私は、熱烈に愛する主の掟を黙想し、愛する主の掟の方へ手を挙げ奉る」(詩篇118篇47-48節)。
何日かをおいて2回、教会は黙想を行うよう強く勧めているのです。

私たちは皆、祈る必要があることを知っています。祈りは声に出して行うことも、心の中で行うこともできます。
《声に出す》祈りとは、朝夕の祈り、食前食後の祈り、ロザリオの祈りといった、私たちが唱える祈りのことです。それらの祈りは、たとえ一人で沈黙のうちに唱えても、声に出す祈りとみなされます。
《心の中の》祈り、つまり《念祷》とは、(アヴィラの聖テレジアによれば)「心を天主の方へ上げること」です。

私たちには、肉体と霊魂があります。祈りは、《内的に》および《外的に》表さなければなりません。
私たちは、天使のような純粋な霊ではありません。子供が母親に抱きついて自然に愛情を表すように、私たちも外的に(例えばひざまずいて)天主を礼拝することをしないで済ませることはできません。しかし、外的な言葉や身振りが内的な感情を反映していないとしたら、それは全くの偽善であり、良くても社交上の礼儀といったところでしょう。

私たちは皆、祈りを《唱え》ます。しかし、《黙想》に時間を費やしている人はどれくらいいるでしょうか。もし、完全な沈黙のうちに、天主と天国のことに集中する時間を過ごさなければ、声に出す祈りは必然的に決まりきったものになり、味気なく、重荷になってしまうでしょう。
私たちは皆、祈りを唱えますが、沈黙のうちの観想を続ける時間を持つのは、たいてい難しいものです。
ミサの後の感謝の祈りを例に挙げてみましょう。美しい祈りをいくつか唱えることは、何の問題もありません。しかし、たった5分間、完全な沈黙を保つのは、とても耐え難いことなのです。まるで主と一対一で親密に会うのが怖いかのようです。上司や校長の部屋に呼び出されたように感じるのです!

静かに、また深い沈黙のうちに主と過ごすことが、そんなに難しいのはなぜでしょうか。
私たちが霊的な存在であるなら、天主のことを考えるのは自然なはずです。
まず第一に、原罪が、人間の本性そのものを傷つけました。(考えるといった)かつては自然だったことが、今では努力を必要とするのです。
第二に、物質主義や感覚の使用といったものに、のみ込まれればのみ込まれるほど、考えるのが難しくなります。
遊びであれ、あるいは仕事であったとしても、画面の前で過ごす時間が長すぎると、心が重くなり、考えるのに苦労します。かつて、ある修道士がこう言うのを聞いたことがあります。「コンピューターの前で過ごす時間が長すぎると、観想的な人間にはなれません」。言い換えれば、現代社会では、念祷を行うことは、過去数世紀よりもはるかに困難になっているのです。

しかし、毎日黙想を行うことのなかった聖人を、一人でも挙げることができるでしょうか。私が言っているのは、私たちが必ず行わなければならない(ロザリオのような)祈りを唱えることではありません。特に念祷について言っているのです。

黙想のテーマは何であるべきで、どのように進めるべきでしょうか。
(天主の力、天主の慈しみといった)天主の属性について黙想することができますし、自然の美しさが、その助けになるかもしれません。「天は天主の栄光を語り、大空はその御手のわざを告げる」(詩篇19篇1節)。
死、審判、天国、地獄といった、最後のことについて黙想することもできます。
同様に、聖母を、無原罪の御宿り、天主の御母、私たちの母、すべての恩寵の仲介者などとして思い巡らすこともできます。
天使たちや聖人たちについて黙想することもできます。
典礼の一節を使ったり、福音書の短い一節を読んだりすることもできます。しかし、何かを読む場合は、短いものにしてください。なぜなら、霊的読書ではなく、沈黙の念祷だからです。

経験から分かっていることですが、誰でも毎日黙想することができますし、またそうすべきです。アヴィラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネの本を、すべて読む必要はありません!
アルスに、毎日かなりの時間を教会で過ごしていた農民がいました。一人だけで、御聖櫃に顔を向けていました。その男は、おそらく読み書きができなかったでしょうし、いずれにせよ、教会の中には明かりがありませんでした。ある時、アルスの司祭が、その男に何をしているのかと尋ねました。その男は、ただこう答えました。「私は主を見ています。主も私を見てくださっています」。この無学な男の祈りは、純粋な観想だったのです。この男は、主との甘美な交わりの中で静かな時間を過ごしていました。愛する者の間では、言葉は往々にして無意味なものとなるのです。

親愛なる兄弟の皆さま、

この四旬節の間、毎日の黙想を始めてみてはいかがでしょうか。理想的には1日15分ですが、もしとても忙しいか、あるいは忙しいことになっているなら、5分でも十分です。

心を開いて、聖心に憩い、主の親密なささやきに耳を傾けてください。
聖ルカが指摘するように、「マリアは注意深く(天主についての)これらの言葉をすべて心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。マリアが私たちを、天主の無限の慈しみを常に観想できるようにさせてくださいますように。アーメン。