私たち人間は天主によって永遠の幸せのために作られた

ソース: FSSPX Japan

Assumption of Mary

新年の霊的講話 その1  小野田神父

今から、一日目の小さな黙想会を始めたいと思います。

2025年は、私たちにとって特別な年です。聖なる年です。
この聖なる年を、良く、聖なるものとして始めることができるように、この黙想会をお捧げ致しましょう。

今日は、三回のお話があります。そのお話を聴くだけではなくて(お話を短くしたいと思っていますので)、余った時間は、お祈りに使ったり、ちょっと散歩をしたり、外の空気を吸ったりして、お祈りのために使ってください。もちろん、ここでお祈りをしてくださっても構いません。

この2025年が、聖霊の賜物で満たされますようにお祈り致しましょう。
特にマリア様が、私たちに聖霊を取り次いでくださいます。「聖霊の浄配」でもありますから。ですから、マリア様にもお祈り致しましょう。

この三つのお話ですけれども、今日の午後は、特別のお恵みを、皆さんに主が準備されている、ということをご存知ください。もしも、今日、よいと思う話があったら、と思ったら、メモを取ってください。

この黙想会が良いものであるために、いくつかアドバイスがあります。
今日は主日で、このコンパスまで来たのです。そして、時間を取って黙想会に参加しようと思われたのですから、これをより良いものに致しましょう。

【主の御前に出る】
そのためには一番何が必要かというと、私たちが、「天主とともにいるということを自覚すること」です。
自分の家を離れて、小さなチャペルに来て、そしてミサにもお与りになって、御聖体拝領もされて、感謝の祈りもして、主が私たちを愛しておられて、主が私たちを見守っておられて、今、この午後を、イエズス・キリストとともに過ごそうと、そういう思いを持ってください。

主は、この美しい大自然を「光あれ」と、あるいは「太陽、月あれ」と、たった一つの言葉で、すべてを創られました。
その全能の天主の御前に、私たちは出ることに致しましょう。
この大宇宙を創った天主は、限りない御稜威なる方で、天使たちも、何千何万何億という天使たちも、主の御稜威の前に恐れを抱いて、敬意を抱いて、そして「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と、震えおののいて、賛美と愛の歌を歌っているので、私たちも、主の御前に今出て、この時を過ごすようになさってください。

【寛大さ】
それから、この小さな黙想会が良くできるために必要なのは、主の御前でこの黙想会を行なうというのみならず、更には、皆さんに寛大であってもらいたい、ということです。
ということは、せっかく今、黙想会に与っているのですから、ただ身体だけ椅子に座って、「あぁ、あの小野田神父が何か言っているなぁ」と言いながら、でも頭の中では「今日、夕方は何を食べようかなぁ」とか、「明日、何しようかなぁ」とか、「今、ロシアはどうなってるかなぁ」とか、全然関係ないことを考えずに、この黙想会の話と黙想会に集中なさってください。100%黙想会に与ってください。

マリア様が、家事をするにも、あるいは何をするにも、イエズス様のために100%愛を込めてなさったように、私たちもこれを、この黙想会を100%集中して与りましょう。もしも雑念が湧いてきたら、「あれ、なんか他のことが…どうしようかなぁ」「携帯が…」「メッセージが…」といったら、悪魔からの戦いだと思って、「退け!」と、黙想に熱心になってください。

【沈黙】
最後のアドバイスは、「沈黙」です。スケジュール通りに一時と二時半と四時にお話をする予定ですけれども、その間、私たちは、沈黙を守ることに致しましょう。

何故かと言うと、主は、喧騒の中に、騒音の中に、私たちに語りかけるのではなくて、「いつも沈黙のうちに語りかけてくれる」からです。
主は、偉大な業は「沈黙のうちに」行なわれました。
この全宇宙を創った時も沈黙でしたし、天主の御言葉が人となられた時も沈黙でしたし、真夜中にイエズス様がお生まれになった時もそうでしたし、30年間の生活も、沈黙の祈りのうちに、静けさのうちに行なわれましたし、3年間の公生活の中にも、頻繁なお祈りがありましたし、また、イエズス様が、十字架の上で亡くなられて、ご復活までの時も沈黙でしたし、蘇られたその時も、沈黙のうちに蘇られましたし、そして今でも、御聖櫃のうちに、御聖体において、沈黙のうちに黙って、皆さんからのお祈りを待っておられます。

ですから、私たちが「心を沈めて、沈黙のうちに、イエズス様の方に心を向かせる、向けるということ」が、どれほどイエズス様の心に適うことか!
イエズス様が、私たちに語りかけよう、私たちに特別なインスピレーションを与えようとされるのは沈黙のうちですから、どうぞ沈黙を守るようになさってください。ですから、この黙想会とは関係ないようなことがあっても、ただ口だけの沈黙のみならず、雑念も沈黙するようにしてみましょう。

【行動の原理と基礎】
新しい一年が始まりました。私たちの考えや思いもすべて、主の御旨のままになりますように、最もお望みのものになるように、この一年が始まるように致しましょう。

そこで、最初のお話は、一年の基礎となるもの、私たちが、この一年をどのように生活するか、いったいどんな原理で、どんな基本方針で、どんな行動の原理を持って一年を過ごすか、ということを黙想致しましょう。

もちろん、家を建てる時には基礎が必要ですし、もしも基礎がちゃんと立っていれば、家もちゃんとして立ちますし、基礎がグラグラしていれば、ちょっとしたことがあると、家も倒れてしまいます。
私たちの一年も、深い土台があればあるほど、高いところまで目指すことができますし、どんなことがあっても、揺らぐことがありません。

では、私たちは、どのような基礎を立てたら良いのでしょうか?
どのような生活の土台を築いたら良いのでしょうか?

私たちが、何か生活する時には、だいたい何をするのかとか、いったいどこからどこに向かってやるのかとか、どこからどんな目的のためにやるのかとか、あるいはどんな手段を使うのか、ということなどを考えます。
たとえば、今日は、フランシスコさんが、とても素晴らしい、美味しい料理を作ってくださったんですけれども、お昼は何を作ろうかとか、あるいはどんな材料を使おうかとか、なんのためにこれをするのだろうかとか、色々考えます。
あるいは私が、フランシスコさんが、今日は台所に行って、あるいは、どこかのマーケットに行って、これを買ってこれでと、色々考えて行ないます。

では一年間、私たちはいったいどのように行動すればよいのでしょうか?
でも、この一年のみならず、この2025年から始まる今後将来、いったい何に向かって、なぜ、この人生をどのようにするのが、私たちにとって聖なる一生を送らせるものなのか、この一年を聖なるものとしたその延長も、聖なるものたらしめ続けるためには、どうしたら良いのか——。
これを考えてみます。

そうすると、この一年は、実は、私たちが自分で編み出すものというよりは、私たちが、すべて与えられた時間を良く生きる、ということになります。
つまり、私たちは被造物であって、人間という被造物であって、天主から創られていて、そして今でも、主は私たちを支えてくださって、生かしてくださって、そして、私たちが良い生活をすることができるように導いてくださっている、という事実を、確認しなければなりません。

聖パウロはこう言っています。
「人間よ、お前たちが持っているもので、与えられなかったものがあるだろうか。お前は、何を誇るのか。」と。

今、私たちがこうやって息をすることができるのも、考えることができるのも、健康を持っているのも、こうやってご飯を食べることができるのも、空気を吸うことができるのも、今、平和な日本にいることができるのもすべて、主が、御摂理でお恵みとして与えてくださっているからです。私たちがミサに与ることができるのも、信仰を持っていることができるのも、お恵みなんです。
ですから、言ってみれば私たちは、この一年、一生、主に依存している、主からすべて頂いている、頂き続けている、ということを認めなければなりません。

そうすると、主の御前で、私たちはどういう存在かというと、実は、すべて頂いたものですから、すべて受けているものですから、何かを持っているようであっても、実は無に等しい。すべて、受けているものと言わなければなりません。
ちょうど今、赤ちゃんのようで、ご飯も食べたいという時は泣くしかない、あと、お母さんがご飯をくれるのを待っているだけに過ぎないような存在です。

【人生の意味】
私たちは、被造物で、すべて主から受けている、受け続けているのですけれども、私たちはいったい、どこに向かっているのでしょう?
この一年、何をすべきなのでしょうか?
私たちは、この地上に生活していて、何年か経ったら、ただそのまま息を引き取って、それでそのまま土に還るだけなのでしょうか?
その他にいったい、その間に、私たちがこの地上に生活している間に、そのまま死んで行く間に、何をすべきなのでしょうか?

もしも私たちが、この地上にあるすべての喜びとか快楽とか、名誉とかお金とか、あるいは人気とかをすべてを受けても、そのままおもしろおかしくやって、そして、あとはそれでバイバイといって死んでしまう——私たちの人生の意味は、いったい何なのでしょうか?

【永遠の幸せ】
イエズス様は、私たちに、私たちの人生の意味はこうだと教えています。
それは、「私たちが何のために創られたのか、何のために創造されたのか」ということを教えてくれます。イエズス様は、こう教えます。
私たちが天主の子供となることができるように、天主の永遠の幸せを受けることができるように、天主の命を私たちが受けて、永遠に幸せであるために生まれて来た。
そのために、主は私たちを創造したし、そのために、イエズス・キリストは、私たちのように人間となってお生まれになった。
私たちの人生の目的は、この地上でおもしろおかしく過ごすためではなくて、永遠の限りの無い幸せを生きるために生まれて来た、と教えています。

私たちが洗礼を受ける時に、教会と洗礼を受ける人との間に、ちょっとした問答があります。

「あなたは、天主の教会に何を求めますか。」
——信仰を求めます。
「信仰は、あなたに何を与えますか。」
——永遠の命を与えます。

私たちの求めているものは、あっという間に終わってしまうような儚い幸せではなくて、決して終わることのない幸せなのです。

たとえ私が健康であっても、明日は癌になって苦しむよ、あなたの健康はいつか終わるよと言われれば、そんな健康がいったいなんなのでしょう。この健康が、ずっと続くならばいいのですけれど。
イエズス様は、私たちに「永遠の幸せ」を与えようとされます。

ところで、カトリック教会は「私たちの人生は、二つの部分に分かれている」と教えています。
一つは非常に短いのですが、その別の部分は終わることがない、と。
最初は非常に短いのですけれども、この短い人生の間で永遠が決まる。
この短い時の世界が終わった後に、永遠の世界に移る。
この短い時間は、私たちが今生きている時代で、巡礼の時であって、準備の段階で、これを使って、永遠の世界に旅をしているんだと教えています。

ところで、私たちには「永遠の世界」という目的があります。
私たちの霊魂は、人間というのは、無限の善である天主によって創られたので、無限の善である天主だけが、私たちを完全に満足させることができます。

旧約聖書にはこうあります。「私自身が、お前の報いとなろう。」
また、聖パウロもこう言います。
「主を愛する者に準備された者は、目も見たことがなく、耳も聞いたことがなく、心でも思いつかないようなものが準備されているのを知っている。」と。

天主のみが、私たちの心を完全に満足させることができて、この被造物は、どれほどのものがあったとしても、たとえ全世界があったとしても、全世界を所有したとしても、全世界を自分の思い通りにしたとしても、私たちの心は、満足させることができません。もっと欲しいと思います。もっともっと、もっともっと、それでも足りないと思うかもしれません。

【私たちが創造された目的】
私たちの創造された目的は、あたかも、私たちが人間であることをやめるわけではないのですけれども、「あまりにも主と一致して、主を直接まみえて、その美しさと強さと、主がどれほど私たちを愛されているか、ということを知り、私たちもその善い主を愛して、あたかも一つになったかのようになる」という、私たちの考えや想像を超えるようなものが待っています。
私たちの人生の目的はこれ、たった一つしかありません。

でも、この幸せは、もしも私たちが望むのならば、良いことができるのですけれども、これを拒否することができます。
もしもそこに入りたいと言って、ノックすることもできるのですけれども、ノックすれば開けてくれるのですけれども、しかし、それを拒否して入らないこともできます。別の永遠に行くこともできます。

どちらかの永遠、至福の永遠か、あるいは永遠の破滅のどちらかに行かなければなりません。私たちが、この人生をどのように使ったかによって、どちらかの永遠かに決定します。

そこで私たちは、本当の幸せに向かって、この一年を方向付けなければなりません。それに向かって、土台を作らなければなりません。

【永遠のために準備する】
多くの人は、残念ながら、幻想を抱いています。もしかしたら99%の人は、夢を見ています。その夢はどんな夢かというと、「私たちは、この地上に永久に生き続けることができる」という夢で、あるいは「この地上のことだけがすべてだ。死んだらどうなるかは、あまり関心がない。」「なんで、自分がここにいるのかよくわかっていない。この地上だけで、永遠のことは考えないようにしよう。」

いったい、死んだらどうなるのか、なんで、私は今ここに生きているのか——。
それは考えずに、毎瞬毎瞬、携帯を見て、おもしろおかしく、いろんなニュースで気晴らしをして、そしてあっという間に人生を終える。そして、この地上で楽園を建設して、そしてこの地上のことだけを考えて終わりだ、という人がいます。

でも、実は本当のことを言うと、私たちは短いもので、「永遠の準備をする者」です。ですから「この一年の方向付け、それから今日、一年を方向付けて、私たちの人生すべてを方向付けをすること」が、どれほど大事かということを、よく理解なさってください。
私たちは、すべてを天主から受けましたし、そして、このすべてを「主に向かって」道を進めなければなりません。

【目的にふさわしい手段を選ぶ】
では、最後に五分ほど考察すると、「この一年を永遠のために方向付ける」としたら、私たちはどうしたら良いのでしょうか?

たとえば、今日、シチューを作るために、お肉を買って、材料は何にするか。
ニンジンやジャガイモとか材料が必要ですけれども、シチューを作るのに、金の延べ棒は必要だろうかとか、あるいは、とても高価なものだけれども、それをもしもシチューに入れたら、シチューの味が、めちゃくちゃになってしまうという材料もあります。

あるいは、美味しいシチューも、大人が食べるのはいいのですけれども、まだ歯が生えていないような赤ちゃんが、お母さんから食べるのがようやくのような、まだ小さな数か月の赤ちゃんがシチューを食べると、赤ちゃんが病気になってしまいます。

それと同じように、目的があるならば、あるものは、その目的を達成するために非常に重要だけれども、あるものは、別の目的のためには良いのだけれども、そのためには、あるいは私には邪魔となることがあります。

ですから、私たちは、この一年を、死に向かって時を過ごすのですけれども、「私たちの周りにあるすべての被造物は、死に向かうための、御旨を行なうための手段であって、目的ではない」ということです。

別の言い方で言うと、もしもあるものが、私たちが聖なる生活を送るために役立つのであれば、それを使わなければなりませんし、それに邪魔になるならば、それを使うのは悪になる。

ある人にとっては、ある薬を飲むのは、健康のためにどうしても必要かもしれませんけれども、病気の人にとっては必要かもしれませんけれども、健康な人にとってその薬を飲むのは、かえって害になる恐れがあります。

ある人にとっては、なんらかのことが良いかもしれませんけれども、ある人にとっては、それを行なうことによって、罪を犯すための機会になるかもしれません。

それで、私たちは、この一年の間に、「私たちの人生の目的は、聖なる一生を送ること、永遠の救いを果たすこと」だ。

でも、「あるこのことは、今やろうとすることは、永遠のためにいったいどんな利益があるだろうか。永遠の救いのために、どんな利益があるだろうか。」と、問いかけることです。聖アウグスティヌスは、いつもこれを自問していました。