私たちが救われる聖名は、十字架につけられたイエズス・キリストだけです
2021年1月3日
トマス小野田神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年1月3日、私たちの主イエズス・キリストの聖名の祝日です。
今日は、有名なクレルヴォーの大修道院長聖ベルナルドのお説教をご紹介いたします
聖霊が[聖書の中で]、花婿の名前を油にたとえて、花嫁が花婿にこう叫ぶように息吹いているのは理由がないのではない。「あなたの名前は広がった油のようです」と。実に、油は照らし、養い、塗油に使われる。油は光を維持する。油は体を養う。油は痛みを和らげる。だから光であり、食べ物であり、薬である。花婿の名前も同じではないだろうか?この名前が宣教されると、それは照らす。黙想されると、それは養う。呼び求められると、和らげて強める。これらの性質を一つひとつ見てみよう。この世に、このかくも偉大で、かくも突然の信仰の光が、あなたはどこからあふれ出たと思うか?それはイエズス・キリストの聖名の宣教からだ。この祝福された聖名の光によって天主は私たちをご自分の感嘆すべき光に呼ばれたのだ。この聖名の輝きによって照らされた者たちに向かって、そしてこの光のうちに別の光を見る者たちに対して、聖パウロは正しくもこう言っている。「あなたたちはかつては暗闇だった。しかし今では主において光である」と。
同じ使徒[聖パウロ]が王たち、異邦人、イスラエルの子らの前にもたらすべき命令を受けたのはこの聖名である。聖パウロは、この聖名を松明のように運んでいた。自分の祖国をこれで照らしつつ、あらゆるところでこう叫んでいた。「夜は更けた。夜明けは近い。闇の業を捨て、光の武具を着けよう。昼のように誠実に歩こう」。彼は全ての人々に燭台の上の光を見せて、全ての場所にイエズスを、十字架につけられたイエズスを告げ知らせていた。聖ペトロの口から稲妻のように出て、この光が足なえの足を強め、霊的な盲人たちに視覚を取り戻させた時、どれほどこれは輝き、この聖名のまぶしさで全ての見物人たちの目を打ったことだろうか。ペトロはこう言って炎を投げたのではなかったか。「ナザレトのイエズス・キリストの聖名によって、起きて歩け!」
イエズスの聖名は単なる光ではない。これは栄養でもある。あなたはこの聖名を思い出す時はいつでも強められると思わないか?この聖名について考える人の精神をこれほど養うものは一体何があるだろうか?同じように、騒ぐ心を休めさせ、徳に力を与え、良い正しい習慣を増加させ、貞潔な愛情を維持させるのは何だろうか?霊魂の全ての栄養は、この油がかかっていなければ無味乾燥だ。この塩で味付けられていなければ、味もそっけもない。あなたが何を書いても、私がそこにイエズスの聖名を読まないなら、あなたの書いたものは私にとって何の味わいもない。もしもそこにイエズスの聖名の響きを聞かないなら、講話も会話も私にとって何も面白くない。イエズス、それは口には甘い蜜、耳には快いメロディー、心には喜びだ。
この聖名は薬でもある。私たちのうちの誰かが悲しがっているのか?願わくは、イエズスが彼の心に来り給わんことを。心から口に聖名が通らんことを。この天主の聖名は星のように昇るとすぐに、光をまき散らし、雲は散りさり、晴天が戻る。誰かが罪を犯したのか?絶望して、死の闇の中に走っているのか?この命の聖名を呼び求めるなら、すぐさま息を吹き返し生き始めるのではないだろうか。
同じ大修道院長はこうも言います
偉大な感嘆すべき神秘よ!幼児は割礼を受け、イエズスと呼ばれた。この関係の意味は何だろうか?実に、割礼とは、救う者のためというよりは、救われる者のためになされるように見える。救い主こそが、割礼を受けるというよりは割礼を施すべきだったのではないだろうか。ここで、主が天主と人との仲介者であることを認めよ。御幼年の最初から、主は人間のことを天主のことに結びつけ、もっとも低いものを最も固いものに近づける。主は女から生まれたが、童貞性の花を枯れさせない豊饒の実りをもつ女性から生まれた。主は布につつまれていたが、この布は天使たちの歌声で讃えられていた。主は馬草桶に隠されていたが、天に輝く星によって告げられていた。同時に、割礼は主の取られた人間本性が真(まこと)なることを証明している。その聖名は全ての名前に勝るものであり、その御稜威の栄光を示している。主は、アブラハムの真の子孫として割礼を受け、天主の真の御子としてイエズスと呼ばれた。
私のイエズスは、虚ろで無効な名前を受けたのではない。たとえば、以前、同じ名前を付けられていた人々のように。主がこの名前を持つと、この偉大な名前はもはや影ではなくなった。それは真理を表す。福音史家は、この聖名が天からもたらされたことを断言している。天使は、聖母の胎内に宿る前にすでにこの聖名を与えていたのだ。次の言葉の深い意味に注意せよ。イエズスが生まれた後、主は人々によってイエズスと呼ばれた。「胎内にやどる前に天使がつけたように、その子の名をイエズスとつけた」。主は、同時に、天使の救い主であり、人間の救い主である。御托身の時から主は人間の救い主となり、天使たちの創造の時から主は天使の救い主である。… 私たちのために生まれた幼児が割礼の時救い主と呼ばれ始めたのは理由がある。この時主は私たちの救いの業を、汚れなき血潮を私たちのために流すことによって始められたのだから。…主は、この名前によって呼ばれた。この聖名は主に押し付けられたのではない。この聖名は永遠の昔から主のものである。救い主であるというのは、主の本性に固有のことであるからだ。この聖名は御降誕以前からの主のものである。主はこの聖名を、天使からも人間からもいかなる被造物からも受けなかったのだ。
初代教皇聖ペトロが聖霊に満たされて言った説教を聞いてください
そのとき、聖霊にみたされたペトロはいった。「…ナザレトのイエズス・キリストのみ名によって、この人はなおって、あなたたちの前に立っているのです。家つくりのあなたたちに軽んじられたその石イエズスは角の親石とされました。救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」。
では、私たちは新年の遷善の決心をとりましょう
イエズスの至聖なる聖心の御憐みと、聖母の汚れなき御心の御取次によって、私たちがイエズスの聖名に対する信仰をいや増してくださるように祈りましょう。
私たちが救われる聖名は、唯一です。十字架につけられたイエズス・キリストです。人間となった天主の御ひとり子、人類の救い主は、イエズスと呼ばれることが永遠の昔から定められていました。
「キリストは、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と言いあらわすためである」(フィリッピ2:8-10)。
願わくは、御あわれみにより、私たちが、この世で主の聖名を尊び、天の命の書に私たちの名前も記され、ついには天国の主の栄光の永遠の命を、諸聖人と共にすることができますように、祈りましょう。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」。