私たちは日本二十六聖殉教者と同じ信仰を保ち続けているでしょうか?

ソース: FSSPX Japan

2021年2月7日  六旬節の主日

トマス小野田神父  説教(日本の聖なる殉教者巡回教会)

 

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

 

今日は2021年2月7日、六旬節の主日です。聖ピオ十世会の東京の巡回教会は日本の聖なる殉教者に捧げられていますから、今日はその荘厳祭を行っています。

 

日本で生まれた無数の聖なる殉教者はすべて日本の誇りであり栄光です。その中でもっとも代表的なのが、日本の信仰の初穂である日本26聖殉教者です。ですから今日は、長崎の西坂の丘で最初に殉教した聖人たちについて一緒に黙想しましょう。

 

1:イエズス・キリストの教え

 

聖フランシスコ・ザベリオ(1506 - 1552)はイエズス・キリストの創立した宗教、つまりカトリックの宗教を日本にもたらしました。キリストは、私たち人間の究極の目的が天国に行くこと(救霊)である、と教えています。イエズス・キリストは罪人である私たちに代わって、自ら十字架につけられて自分を犠牲として捧げましたが、それはひたすら人間が罪の赦しを得て、霊魂の永遠の命を得るためでした。キリスト教の目的は、唯一の天主を知らしめて天主を愛するように導き、できる限り全ての人々を私たちの祖国である天国に送ることです。

 

1597年2月5日金曜日、日本26聖人は、長崎の西坂で十字架に磔(はりつけ)にされましたが、それはイエズス・キリストの教えをそのまま実践した結果でした。殉教者たちが願い求めていたのは、永遠の命でした。同胞の、そして世界中の人々の霊魂の永遠の至福でした。イエズス・キリストの教えは、私たちが天国に行くための教えだったからです。

 

日本26聖人のミサで読む福音は、私たちの主の言葉を引用して、まさに殉教者の歩んだ道を語っています。

 

「貧しいあなたたちは、しあわせである、天主の国はあなたたちのものであるから。

いま飢えているあなたたちは、しあわせである、あなたたちは[天国で]満足させられるだろうから。

いま泣いているあなたたちは、しあわせである、あなたたちは[天国で]笑うであろうから。

人々が、あなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のために、あなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちはしあわせである。その日には喜びおどれ。あなたたちは、天において偉大なむくいをうけるであろう」(ルカ6章)。

 

イエズス・キリストはこうも言います。

「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、日々自分の十字架をせおって私に従え。自分の命を救おうと思う人は、それ[永遠の命]を失い、私のために命を失う人は、それ[永遠の命]を救うのである。もし全世界をもうけても、自分が失われたり亡びたりしたら、それがなんの役にたつだろう。私と私のことばを恥じる人を、人の子もまた、自分の栄光と、おん父と聖天使たちとの栄光をもって来るそのとき、恥じるだろう」(ルカ9章)。

 

彫刻家・舟越保武(ふなこし やすたけ)が、1962年、26聖人の列聖100年に等身大のブロンズ像を配した有名な記念碑を作り、それが西坂に建立されました。26の男たちと子供らの不動の体は、地上を離れてあたかも天国に挙げられて、両手を合わせて永遠に天主を賛美しているようです。そのうちの二人、フランシスコ会の司祭聖ペトロ・バプティスタとイエズス会士聖パウロ三木は手を広げて私たちにイエズス・キリストの十字架の教えを天国から永遠に説いているかのようです。

 

2:聖ペトロ・バプティスタ神父

 

26聖殉教者たちのなかで司祭は3名いました。彼らはフランシコ会の神父で、その内の一人が聖ペトロ・バプティスタ神父でした。

 

文禄元年(1592年)つまり朝鮮出兵の年ですが、豊臣秀吉は使節を送ってフィリピンに入貢(にゅうこう)を求め、従わない場合は侵略して征服するぞという高圧的な手紙を渡しました。何故なら1591年に原田喜右衛門がマニラに来航していて、現地のスペイン統治の状況を観察し、その防御の脆弱性を知り、日本侵攻が成功する可能性が高いことを秀吉に進言していたからです。使節として、原田喜右衛門の部下で、一介の商人にすぎなかったけれどもスペイン語を話した原田孫七郎(はらだまごしちろう)が送られました。

 

フィリピンのマニラ総督ダスマリーニャスは、商人(あきんど)が使節の身分であるとの確証が持てないとして、フィリピンから使節を日本に送って秀吉と講和を探りました。その時、マニラ総督の代理として日本に送られたのがフランシスコ会のペトロ・バプティスタ・ブラスケス神父 (Pedro Bautista Blasquez de San Esteban, 1546 - 1597)でした。

 

聖ペトロ・バプティスタ神父は、スペインの名門貴族の出身で聖徳の高い学識のある司祭として有名でした。サラマンカ大学で哲学と神学を修め、22歳でフランシスコ会に入会しました。まず、メキシコに任命され、次にフィリピンに宣教師として行きます。フィリピンではフランシスコ会の管区長を経験しており、使節としてペトロ・バプティスタ神父は三人のフランシスコ会会員を連れて1593年6月に日本に到着します。

 

神父は、1594年1月に肥前の名護屋城で関白豊臣秀吉に謁見し、講和を結ぶことができました。しかも日本でキリスト教の布教の許可も受けました。秀吉は都にあったすたれていた寺と土地をフランシスコ会に与えて教会建設の許可を与えたほどでした。そこでこの許可に基づいて京都に移り、いくつかの教会、修道院、また病院などを建て、布教を行いました。1594年10月4日アシジの聖フランシスコの祝日に都に日本で最初のフランシスコ会修道院がオープンしました。次に京都に病院を作るとすぐに病者でいっぱいになります。

 

聖ペトロ・バプティスタ神父は、秀吉の許可をとって長崎にも修道院を作り、貧しい人々のために付属病院を作ります。次に大阪に小さな修道院を建てました。

 

しかし、秀吉のキリシタンたちに対する好意的な態度をみた一部の仏僧は面白くありませんでした。(織田信長は、仏教僧侶の専横を憎み、キリスト教を保護しましたが、今度は秀吉までもそうなるのでしょうか。)彼らは秀吉に、キリスト教に対する讒言を陰口しました。

 

しかしバテレンと呼ばれた神父たちが日本で行ったこととは、ミサを捧げ、祈りをささげ、病院を建て、孤児院を作り、らい病人の世話をしたことでした。伴天連たちは、人々が死後に天国へと行くことができるように信仰、希望、愛徳、従順、貞潔、清貧を実践し、またそれを教えていただけでした。バテレンとは、パドレ(神父)の音訳ですが「伴って天に連れていく」と書きました。神父たちは、聖フランシスコ・ザベリオが「見出した人々の中で最高の国民」と称賛した日本の人々の霊魂に福音を伝えるために疲れを知らずに働いていたのでした。

 

そんな時、1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)、慶長伏見地震が発生しました。京都を中心とした畿内(きない)を震源として推定でマグニチュード7.5以上だったと考えられています。その後も大きな余震が何度も続きました。これは心無い人々によってキリスト教のせいだとされました。

 

さらに、マニラからメキシコに向けて出航した商業船サン・フェリペ号が日本近海で台風により難波して進路がずれ、日本近海に入り込みます。1596年10月19日(慶長1年8月28日)のことでした。ボロボロになったサン・フェリペ号が、中国の絹やその他の貴重な貨物を豊富に積んで浦戸(うらど)港に現れたとき、長曽我部氏(ちょうそかべし)は、船の水先人(みずさきにん)の希望に反して、修理のために船を牽引して港に入港させようとしました。その過程で砂州(さす)で船の背中(せなか)を折ってしまい、貨物の多くを湾に流してしまいました。サン・フェリペ号は難破船となり、日本では、漂着した船の積み荷はその土地の領主の物、という慣習法があった為(鎌倉幕府制定の廻船式目)、積み荷は長曽我部氏により没収されました。

 

(秀吉は、この4年前にスペイン船を自分が保護すると約束していました。そこでこの船の船長マティアス・デ・ランデーチョは、都にいたフランシスコ会士を通じて秀吉に没収された貨物の返還を嘆願しましたが、彼らが秀吉のもとに行くころには、すでに五奉行(ごぶぎょう)の増田長盛(ました ながもり)が積み荷の取得をすることに決まっていました。秀吉は、貨物返還の懇願に怒り、スペインの日本侵略の証拠だと主張し、貨物は没収されたままとなり、さらに京都奉行の石田三成に、京都に住むキリスト信徒全員を捕縛して処刑するよう命じたのです。)

 

1596年12月8日、京都と大阪にいたフランシスコ会修道院とイエズス会修道院に突然、武装した武士らが侵略し、6名のフランシスコ会会員、3名のイエズス会会員、15名の日本人平信徒、合計24名が逮捕され投獄されました。中には、聖ペトロ・バプティスタ神父や、12歳と13歳と14歳の子供らと64歳の老人がいました。最後には更に二人が彼ら24人に加わります。

 

1597年1月3日、牢から出された殉教者たちは左の耳を削がれ、京都と大阪での引き回しの刑をうけます。1月13日、秀吉はさらに死刑の宣告を出します。「これらの者はフィリピンの使節と称して日本に入り、許可なく禁じられたキリスト教を宣教した。このために長崎で十字架刑に処する」。事実は、26人のうち20人が日本人でした。

 

こうして殉教者たちは、京都から長崎まで、十字架につけられるために厳冬の中を約1000キロメール、27日の間歩き、時には船で移動し、周囲の人々から嘲りや暴力を受け、寒さと飢えと欠乏を忍びました。しかし、彼らは、殉教者たちの模範であるイエズス・キリストの十字架を思い、キリストの受けた侮辱と苦しみを偲んで、それをよろこんで天主に捧げていました。

 

最も幼かったルドビコ茨城(12歳)は、耳を削がれても、長崎への道のりも、常に微笑み、聖歌を歌っていました。何故でしょうか?何故ならすべてそれは天国への道のりだったからです。

 

殉教の四日前、責任者の寺沢半三郎は、年端のいかない少年ルドビコを処刑するのはさすがに辛く、自分に仕える気があるのなら助けて小姓にしてやろうと持ちかけました。しかしルドビコは、にこにこしながら天を指して「お奉行様、この地上で大名に取り立てられるよりも、天主様のもとで、小姓として仕えとうございます。お奉行様もどうぞキリシタンにおなりなさい。そしてご一緒にパライソに参りましょう」と言いました。半三郎が重ねて「今のままの信仰ではだめだ、信者を止めなければだめだ」と言うと、ルドビコは「私はそんなにしてまでも生き延びたいとは思いません。終わりのない命をつかの間の命とは代えられないからです」と返答しました。

 

トマス小崎(14歳)は、道中、安芸(あき)の国の三原の城で、母親に手紙をしたためます。十字架につけられて殉教後、懐から、袋に納められていた、血にまみれた手紙が見つかりました。「私と父上ミゲルのことについては、御安心ください。天国(パライソ)ですぐにお会いしましょう。…この世ははかないものですから、パライソの永遠の幸福を失わぬように努めてください。…犯した罪について深い痛悔を持ってください。これだけが、大切なことです。アダムは、天主に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました」。

 

3:西坂にて

 

西坂に到着すると、刑場には、すでに、それぞれの名を記した26基の十字架が一列に並んでいました。幼いルドビコは「ぼくの十字架はどこ?」と役人に尋ねます。自分の十字架を見つけると貴重な宝物であるかのように、その十字架のそばに行って感謝の接吻をしました。ルドビコ茨木はもうすぐ天主様と共にいるだろうと言われると、自分をおさえきれず、大空に逃げる小鳥のように胸をそらして「パライソ、パライソ、イエズス、マリア」と高らかに叫びます。

 

聖ペトロ・バプティスタ神父は、イエズス・キリストの十字架に倣いたく思い、せめて自分だけは、釘で手足を十字架に打ち付けてくれるように願い出ましたが聞き入れられませんでした。

 

13歳のアントニオは、知人のスペイン人に会うと、スペイン語で「アディオス(さらば天主の御許で)、パライソ、パライソ」と挨拶しました。西坂で出迎えた両親に泣かないようにと言い、自分はまもなく修道者と天国に行くと言って両親を慰めます。アントニオの中国人の父親が全ての財産を譲るからと言って棄教を懇願するのですが、財産はこの世のもの、主イエズス・キリストが準備されているのは永遠の宝です、もうすぐ行く天国でお父さんのために祈ります、と答えています。

 

アントニオはペトロ・バプティスタ神父に「パドレ、ぼくたち歌わずに天国に行くのですか?」と尋ねると、神父は“Laudate pueri Dominum”(子供たちよ、主を賛美せよ)の詩篇を歌うように勧めました。そこでアントニオとルドビコはこれを歌いだしました。

 

19歳のジョアンそう庵(五島のヨハネ)は、別れを告げに来ていた父に会います。父親は息子のヨハネに勇気を出して喜々として死ぬようにと言い、父母ともに主の愛のために一命を捧げる準備をしていることをこどもに伝えました。ヨハネはその態度を讃えて、祝福されたロザリオを父に渡して殉教します。「父上、わたくしは、一足お先にデウス様の御許に参り、父上のためにお祈り申しましょう。この先、いかなることがござりましょうとも、構えて一途の信仰を捨ててはなりませぬ」。

 

パウロ三木は十字架の上から見物人にこう話しました。

「見物の方々、私も忠良なる日本の民の一人なり。私は今絶えなんとする玉の緒にかけて断言する。私たちの主キリストの聖なる教えを他にして、永遠の生命に入る途は又とござりませぬぞ!私はこの天主のために自分の命を与えんとす。私は、ここに罪無くして十字架に磔るといえども、生命を奪う人々に対しても、つゆ怨みの心をも抱くものに非ず。我が日の本の国民がことごとくこの同じ救いの途に入り給わん事をひたすら希うのみ・・・・」

 

殉教者の全てがイエズス、マリア、イエズス、マリアと声高らかに唱えていました。最後のとどめの槍を受けて、赦しながら殉教していきました。各々の十字架の下に、刑吏が二人ずつ歩み寄って、手にした槍をキラリ、キラリと左右から、殉教者の目の前で、ちょうど十文字に組み合わせ胸を突き刺したのでした。聖フランシスコ・ザベリオの「見出した人々の中で最高の国民」は、イエズス・キリストの御跡を慕って、天国に向かったのでした。

 

この殉教を機会として、1593年7月に始まったフランシスコ会の日本宣教は、四年後の1597年10月に幕を閉じました。九州にあったキリシタンの教会や病院などは全て破壊されました。しかし三十年後の1627年7月19日、26人の殉教者は教皇ウルバノ八世によって列福され、1862年6月8日聖霊降臨の祝日にピオ九世によって列聖され、全世界にその聖徳が宣言されました。

 

4:遷善の決心

 

愛する兄弟姉妹の皆様、では天主の御恵みで今日の遷善の決心を立てましょう。日本の尊い聖なる殉教者たちの御取次で、私たちも主イエズス・キリストの御跡を慕って天国への道をたどる恵みをこい願いましょう。天国への道はすなわち十字架の道です。私たちはパライソへの巡礼者です。

 

私たちが苦しみを受ける時、私たちの祖先のようにイエズス・キリストの御受難を黙想して、主の受けた苦しみに比べれば私たちの苦しみは、取るに足らないと悟ることができますように、いつも天国を目指すことができますように。

 

最後に、聖母の御悲しみに満ちた汚れなき御心に祈りましょう。私たちの苦しみを聖母の手を通してお捧げすることができますように。

 

「人々が、あなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のために、あなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちはしあわせである。その日には喜びおどれ。あなたたちは、天において偉大なむくいをうけるであろう」。

 

「天国(パライソ)ですぐにお会いしましょう。…この世ははかないものですから、パライソの永遠の幸福を失わぬように努めてください。…犯した罪について深い痛悔を持ってください。これだけが、大切なことです。アダムは、天主に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました」。

 

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Saints Peter Baptist, Paul Miki, and martyr companions

Franciscan Martyrs † 1597

Sts Peter Baptist, Paul MikiPeter Baptist was born in Spain in 1542. After his ordination he went as a missionary to Mexico and then to the Philippines. With five companions he undertook missionary work in Japan in 1593 where he built several churches and hospitals. In an atmosphere of religious unrest and political upheaval, arrests were made and the six Franciscans with three Jesuits and fifteen members of the Third Order were all sent to Nagasaki, paraded as a public spectacle, and then crucified on 5 February 1597. They were canonized by Blessed Pope Pius IX in 1862.

 

A reading from the letters of Saint Peter Baptist

Written 4 January and 2 February 1597 in A.I.A 1916 pp. 303-309

 

We lose our life for the sake of preaching the Gospel

 

Of the brethren who are here six have been arrested and kept in prison for several days, together with three Japanese Jesuits of whom one is a professed religious, and some of the laity. We are twenty-four all told. We are now on the road in this rather bitter winter, and have an escort and a very imposing guard. Some days there are as many as two hundred men sent to guard us. Despite all this we wend our way very happy in the Lord and comforted by him, since the sentence passed on us friars is that we are to be crucified for preaching the law of the Lord and so contravening the royal edict: the others, for being Christians. This is the opportunity for those anxious to die for Christ. To my mind it would have been a great support to the faithful if the religious of our Order had been here. They should be in no doubt that as long as this king is in command, they will not remain long in the Franciscan habit in Japan: he will dispatch them post‐haste to eternal life, which is our destination too.

 

The sentence of condemnation is written on a placard and carried in front of us. It says that we have been condemned for preaching the Nauan (Christian) law contrary to the edict of Taicosama and that we are to be crucified at Nagasaki. We are deeply happy and comforted in the Lord that our lives are forfeit for the preaching of the Gospel. There are six of our brethren and eighteen Japanese all for execution, some for preaching, some for professing the Christian faith. Of the Jesuits, one is a lay brother, one a catechist and one a layman.

 

They took us from prison and put us on wagons. We each of us suffered partial mutilation of one ear and were shown off round the streets of Meaka, surrounded by people and soldiers, and finally returned to prison. Another day we were manacled and led by mounted guards to Osaka. The next time we were led on horseback for the parade through the town. They then took us to Sacay and repeated the performance. In all three cites there was always a public harangue. We knew we were to die but it was only when we came to Osaka that we were informed that our destination was Nagasaki. For the love of God, let your charity zealously commend us to God that the sacrifice of our lives may prove acceptable to him. From what I hear, I gather that our crucifixion is set for next Friday; that was the very day they mutilated our ears at Meaka. That we accepted as a gift from God. So now all of us beg you with all our hearts, for the love of God, keep us in your prayers.

 

My dearest brothers, support us now with your prayers that our death may be acceptable to the divine majesty; in heaven, whither, God willing, we hope to go, we shall be mindful of you. I have not forgotten your love, not even here. I loved you and do love you with all my heart. I commend to you the peace and love of our Lord Jesus Christ. Farewell, my very dear brothers. Time for talking has run out. Till we meet in heaven. Remember me.

 

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