私の罪の邪悪さ
聖アウグスティヌス「主よ、御身がどなたであるか、どのような素晴らしい方であるか教えてください。そして、私が、どれほどみすぼらしい、無であるかを知らせてください。」
新年の霊的講話 その3 小野田神父
先ほどは、最初の罪——ルチフェルと天使たちが犯した罪、また、アダムとエワが犯した罪について黙想しましたが、今日の最後のお話で、私が犯した罪、「罪とは、いったいどれほど重いものか」ということを、一緒に黙想しようと思います。
私たちの究極の目的は「永遠の命」で、天主だけが私たちに与えることができる、私たちの想像を超えるような幸せです。
この地上で、私たちが得ることができるような、すべての喜びや楽しみや幸せというものがあったとしても、それを天国の幸せと比べるならば、ちょうどトイレットペーパーのようなものです。あっという間に流れてしまって、束の間の幸せに過ぎません。そのような、この世の幸せは、いくらあっても、後で飽きてしまったり、またかと思ってしまうかもしれません。
でも、天国の幸せは、いつでもいつまでも、いつまでもいつまでも、もっともっと更に、喜びに満ち溢れたものです。
ところで、今までのお話をして、だいたい三つの反論がありますので、罪が、私の犯した罪がどれほどのものであるか、どれほどの邪悪さを持っているか、ということを見る前に、ちょっとだけ反論に答えることを試みています。
【反論1】
一つは、なぜ、天主は、罪を犯すと知りながら、天使や人間をお創りになったのか。主は、罪を犯さないように創ることもできたのではないか。
全知全能の天主が、罪を犯すだろうと知りながら、不幸になると知りながら、それを、なぜ創られたのか。
「なぜ、自由意志を持って、自由、選択能力を持って、罪さえも犯すことができるような被造物を、天主は創られたのか」ということです。
これは、主の愛の神秘であると同時に、悪の邪悪の神秘でもあります。
主は、確かに、人間をご自分の似姿に、そして肖像に従って創られました。
つまり、人間には、天主様のように知性もあれば、真理を認識する知性があり、善を自由に選択する意志があって、そして、超自然の命も与えられて、完璧に創られました。
ところで、「自由選択能力」というのは、どういう能力かというと、目的は変えることができないのです。私たちはどうしても生まれつき、天使たちも、人間はすべて、生まれつき幸せになること、究極の幸せを受けることを欲して、それに向かって生まれてきます。
もしも赤ちゃんが、あるいは大人が何かをするとしたら、究極的には、幸せになりたいと思っています。でも、幸せになりたいのですけれども、幸せに到達するための手段を選ぶのを間違えてしまうのです。
ある人は、幸せになりたいと思って、お酒に酔うことが幸せであるかのように誤解してしまって、本当はそうではないのに、そしてお酒を飲んで酔っ払うことに目的を見出してしまうと、その手段としてのお酒に手を出します。そしてそれに止めが無くなるほど、それを利用します。
その時に、天主は、私たちに「究極の善にまで行く手段を、自由に選ぶことができる能力」をお与えになりました。これは、天主が持っている、天主も持っている能力ですが、主は、無限の可能性の中から、まったく自由に、この人間を創ろうと、この世界を創ろうと、選んで創造されました。ここに、主の自由があります。
目的の到達のために、最高のものはこれだと選びましたが、人間も、それと同じような能力が与えられました。
ただ、人間には、残念ながら、間違ったものを手段として選ぶことさえできる自由があるということです。
天主は、あまりにも人間を信頼して、人間に自由とお恵みを与えると同時に、人間を尊重した、人間を信頼した、人間を愛した、というわけです。
また、天主は、人間からの自由な愛を求めているので、本当の幸せというのは、やはり、天主は、主の命の幸せを与えようとしているので、ただロボットのように「I love you」と機械的に、テープレコーダーのように言うだけではなくて、「本当に真理を認めて、色々な困難や誘惑がある中でこれを選ぶ」という自由な愛を、本当の幸せを、そこにこそある本当の幸せを、愛し愛されるということを、人間に与えようとしたので、その危険さえ冒しても、ご自分の本当の幸せを与えようとされたわけです。
自由というのは、なんでもしてもいい、自分勝手にする能力ではなくて、「善を選ぶ自由」なのです。
確かに、その善を選ぶ自由を濫用して、悪さえも選んでしまうほどの自由を人間は持っているのですが、しかし、だからといって、悪を犯してもいい、罪を犯してもいいというわけではなくて、それほど人間を、天主に似た者として高めたということです。
でも、主は、本物の天国を与えようとしているので、本物の自由を与えなければなりませんでした。
でも、自由能力はあるのだけれども、自由能力で悪を選んで、悪いことをしてもいいんだ、どうでもいいから、とにかく天国にいらっしゃいというのは、実は優しいように見えて、親切なように見えて実は嘘つきであって、本当の幸せを与えたことにはならないのです。
それですから、天主の命の中に入る本当の至福のために、私たちは「本当の自由を、天主を自由に愛する、善を選ぶ」という能力を持った存在として創られなければならなかったし、そして、それほどまでに私たちは高められた、創られているということです。
【反論2】
第二の反論は、主は憐れみの方ではないだろうか。なぜ、天主は、地獄に人を落とすことができるのだろうか。罪を犯そうが犯すまいが、天主は変わらないのではないか。
でも、それは、罪というものが何かを理解していないから、そういう反論が出るわけです。罪というのは、まず「天主に対する侮辱であって、屈辱であって、天主の秩序を破壊すること」なのです。
誰かすごい芸術家が、何時間も何日もかけて、ものすごい材料を使って、素晴らしい馬小屋セットを作って、細部にまで非常に神経を使って、ものすごいものを作った、最高傑作を作った、これを見ると「わぁ、あたかも本当に恵みに溢れるようだ」というものを作ったところ、ある人がやって来て、悪意でそれをグチャグチャにしてしまった。そしたら、これはどうでも良いことだったのでしょうか? この芸術家が、せっかく一生懸命やったその努力は、そうやって報われても良いのでしょうか?
あるいは、誰かが一生懸命、子供がお友だちにプレゼントをしようとして、一生懸命にお小遣いを貯めて、心を込めてお友だちに何かプレゼントをしたら「いらないよ」と捨てられてしまった、足で踏んで「ありがとう」とも言わなかったとしたら、この一生懸命やった子供は、傷付くのではないでしょうか?
天主が、私たちにご自分の命を与えようとして、ご自分のすべてを与えようと、幸せを与えようとして、お恵みを与えていて、胸を開いて「さぁ!」と、そこに到達するためにはこうしたらいいよ、道標はこうだよといって、すべてをしていたにも関わらず、それを足蹴にしたとしたら、主に対してそれは——。
それにも関わらず、憐れみだから、そうやって足蹴にした人に対しても、天国は与えられるし、あるいは、それに従って狭い門から入って、十字架を担って、苦しみを受けて償いをして、主を愛するために掟を守って、一生懸命すべてを犠牲にして、最後までやってきた。「ありがとう神父様、ありがとうイエズス様」と言ってきた人と同じように取り扱うのは、それが憐れみなのでしょうか?
【反論3】
第三は、でも、地獄っていうのはそれでもやっぱり、ちょっと大袈裟じゃないでしょうか。さすがのイエズス様も……福音の憐れみ深いイエズス様は……
やっぱり、地獄というのは、中世にできた話ではないでしょうか、と。
でも福音を読むと、イエズス様は、地獄の話を何度も何度もされるのです。
世の終わりには、善人が片方に、悪人が別の方に分けられて、義人は天の喜びに入る。悪人たちは、消えることのない永遠の火に入るとか。
あるいは、金持ちと貧しいラザロの話には、金持ちは、死んだ時に地獄の火で焼かれて、非常に苦しんでいる。だから、ラザロが天国から指先に水を一滴やって、私の舌に浸して欲しい。そうしたら、少しでも涼むことができるとか。
もしも、あなたの片目が罪を犯すならば、片目を取って片目で天国に入った方が、両目で地獄に入るよりはましだとか。
イエズス様は、何度も何度も地獄の話をしていますし、それに、天主が、永遠の幸せから地上に降りて来て、十字架につけられて苦しみを受けられたその理由は、十分な理由はいったい何かというと、「地獄の火から私たちを救い出す、この最悪な事態から免れさせるためだったから」です。だからこそ、これほどの苦しみさえも喜んで受けたわけです。
では、なぜ地獄のような永遠の罰が待っているのか。何故かというと、罪がそれほど邪悪だからです。そこで、罪とは何かを見てみます。
【罪の邪悪さ】
私は、今まで主に何をしたかというと、それでも多くの罪を犯してきた。一日、もしかしたら何度も罪を犯してきた。たとえ大罪を犯したのではなかったとしても、しかし、イエズス様は邪魔だとか、イエズス様ではなくて、俺のやりたいことをしたい、などと言ってきたかもしれません。
【恩を下さる方に対する侮辱】
もしも、私たちに善をしてくださる恩人がいて、恩人が「さぁ、お前にこれを与えよう!」と言って、「邪魔だ、どっかに行け」と言ったら、「なんだ、お前」というようになるかもしれません。
もしもそのようなことを人間の友だちに言ったら、「そんなことを言うんだったら、絶交だ」などと言われるかもしれません。
でも、それと同じようなことを、私たちはイエズス様に何度もしてきました。
殴りつけたりとか、あるいは悪口を言ったりとか、あるいは、命を奪おうとさえしたかもしれません、大罪を犯して。
私たちは、命も健康も才能も食べ物もすべて、ただで頂いたにも関わらず、お礼の代わりに侮辱で返してきました。何回も何回も——。
ただ数ではなくて、この罪がいったいどれほど邪悪かということを見ると、それは、罪が天主を傷つけるからです。
天主は、私たちの最大の恩人です。恩を与える方です。
ですから、もしも、赤ちゃんが、お母さんから色々愛を受けて、ご飯も食べさせてもらって、服も着させてもらって、色々して、熱が出れば看病してあげて、その赤ちゃんが「ママ、ありがとう」と言えば、お母さんもうれしいでしょうし、かわいい赤ちゃんですけれども、しかし、その赤ちゃんが、その子供が、良い母の命を奪おうとするとか、母親を苦しめるようなことをするとか、そして、それを見て笑っているとか、お母さんが涙を流して苦しんでいるのに、この子はへらへらしている。もしも、人間のお母さんに対してそうだとしたら、私たちを愛して育んでくださる天主に対して逆らう罪は、どれほどの邪悪さを持っていることでしょうか。
私たちが、天主を主として崇めて感謝する代わりに罪を犯すと、悪魔の言うように、悪魔を王として、悪魔の指導に従って動いていることであって、そして、霊魂とその周りに害を為して、天主の創造の秩序を破壊する、害を与える、今までの電気を全部切って、窓を全部開けて、冷たい風を入れて、汚物を入れて、主の綺麗にしてくださった霊魂を汚す——。
【無に等しい私】
それで、そのような罪を犯す私は、いったい何者なのか、何様なのだろうかということを考えると、もしも、私たちが、親友同士が、友だち同士が、同じ同級生が何か悪いことをしたら「なんだ、この野郎」と喧嘩になるかもしれません。
もしも、私が先生に対して、そのようなことをしたら、「君、ちょっと態度が良くないんじゃないか」と。
あるいは、社員が、社長やあるいは会社のオーナーに対して何かをしたら、「君、明日から仕事に来なくてもいいよ」と、言われるかもしれません。
ところで、私がいったい何かというと、人間の中には、知性に優れている大学の教授とか、色々なことを知っている方々とか、博士のような人々がいますし、スポーツマンもたくさんいますし、軍人もいますし、能力の高い人がたくさんいます。そのような人たちを集めても、天使が一位いるだけで、天主の方が素晴らしいです。
それで、その天使たちが何千万いたとしても、そして天国にいるすべての聖人たちを合わせても、マリア様には敵いません。
マリア様と天国のすべての天使と、聖人たちと、そして、すべての地上の最高の人たちを合わせても、天主から見れば、塵のようです。
すると、なんでもないような私が天主を侮辱した、ものすごい御稜威の尊厳ある天主が、この取るに足りない私に、微力のような存在如きに侮辱を受けて、そして、ものすごい贈り物に対して、ものすごいお恵みに対して、愛に対して、それを軽蔑で返した、反抗で返した、暴力でお返しした、邪魔だ、来るな、退けと。
しかも、それを何十回も犯してきた。
——すると、いったい私はどのような存在なのか。
【天主の偉大さ】
その私から侮辱された天主は、いったいどのような御方なのでしょうか?
全知全能、この全宇宙を無から創造された方、憐れみの方、完全に幸せな方であって、すべてを持っておられる至福の方であって、ありとあらゆるところに存在されていて、私たちを在らしめて、生かしめておられて、永遠であって、すべてのものは主に依存している。
でも私は、まったく弱々しい、無知の無力の愚かな心のひん曲がった者で、それが主に対して「邪魔だ、黙れ、うるさい」と言ってきた。
聖アウグスティヌスはこう祈っています。
「主よ、御身がどなたであるか、どのような素晴らしい方であるか教えてください。そして、私が、どれほどみすぼらしい、無であるかを知らせてください。」
と、祈っていました。
それにも関わらず、そのような罪を犯してきた私たちにも関わらず、主は今日も、素晴らしい天気、大自然、美味しいご飯と、家族の笑顔と健康を与えてくれましたし、守護の天使もつけてくれて、平和に過ごすことができるようにしてくれました。
もしかしたら、もしも私が守護の天使だったら、「え、イエズス様にこんなに逆らっているんですよ? 一緒にいるんですか? こんなに冒瀆する奴を助けるんですか? こんなに御身のことを馬鹿にしていますよね?」と、言っているかもしれませんが、守護の天使は、主の命令に従って、私のことを保護して、守って、愛して、いつも祈って、天国に行くように、行くようにとしてくださっています。
私が犯したすべての愚かな罪にも関わらず、主は、何度も何度もお赦しになって、何度も何度も憐れみを垂れて、何度も何度もお恵みをくださって、更にお恵みをくださって、更にチャンスをくださって、更に更に、そして、私たちを幸せにと導いてくださいます。
私たちはこのまま、今年も一年、今までのように主を馬鹿にして罪を犯して、無視して、主があたかもいないかのように、主があたかもなんでもないかのように、虫けらのように生活することができるのでしょうか? この一年、今までの通りに、地獄へと直行するような生活をしてもいいのでしょうか?
この一年、最高の年の初めに聞いた、主のあわれみの呼びかけを、耳を澄まして聴いて、
ああ、主よ、主は、どれほど私を愛してくださったのでしょうか!
そのイエズス様のまぐさ桶、御聖体、十字架のすべては、イエズス様への愛を私たちに叫んでいます。
どれほど、私は今まで耳が聴こえなかったことでしょうか。
目が見えても見えなかったことでしょうか。
イエズス様の愛とあわれみと、イエズス様の招きに、今年こそ、応えるようにさせてください!
と、お祈りしましょう。
では、マリア様にお祈りしましょう。
マリア様が、私たちに、イエズス様のお恵みをくださいますように。マリア様は、罪を知らない、罪を一度も犯したことがない方ですから、マリア様が、私たちを罪から守ってくださいますように、お祈りしましょう。
今日はご清聴ありがとうございました。最後にお祈りをして、祝福を受けて、帰路にお着きになってください。