私が真理を知らせているのに、なぜ信じようとしないのか
2021年3月21日 御受難の第一主日
トマス小野田圭志神父 お説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年3月21日、受難の第一主日です。一緒に福音の黙想をいたしましょう。
1:今日の福音
今日、福音でイエズス・キリストはこう言っているかのようです。
「私は真理を知らせている。しかし、あなたたちは私を殺そうとしている。それは、私のうちに罪を見出したからではなく、あなたたちが真理の敵であるからだ。私に罪があると確認できる人が、あなたたちの中にあるか?私に罪があることを証明できないのにあなたたちは私を憎む。それは私が真理を知らせたからだ、私が天主の御子であると言ったからだ。あなたたちは、天主からの人ではないから、私のことばを聞こうとしないのだ。」
これに対するユダヤ人たちの反論は二つでした。「あなたはサマリア人で、悪魔につかれている」。
第一の点「あなたはサマリア人だ」については、主が安息日に病人を癒したので、律法を守らないからそういわれたのかもしれません。しかしサマリア人は霊魂の不滅と永遠の命を否定していました。ところでイエズス・キリストは繰り返し、復活また霊魂が永遠に死なないこと、また審判について教えてきました。ですからこの第一の点はあたりません。
第二の点「悪魔に憑かれている」については、イエズス・キリストの教えと行う奇跡が人間の力を超えていたからでしょう。主は人々の心の中に思うことを読み取ることができたからです。主は、なぜご自分の力が人間を超えているかを説明して、天主がご自分の御父であり、自分が天から下ったことを教えていました。
しかし反論を受けても、主は「私はサマリア人ではない」とは答えませんでした。「サマリア人」とは語源に「警備人」あるいは「番人」という意味があるからです。主は、私たちを守り、警備し、そして贖う方だからです。また、主は、憐れみ深い「良きサマリア人」だからです。ですから、サマリア人ではないとはおっしゃいませんでした。また聖パウロもこういうように「いくばかりかの人を救おうとして、皆に対してすべてとなった」と。聖パウロよりも更に、イエズス・キリストは、サマリア人を救うために、サマリア人とならなければなりませんでした。ですから、ご自分はサマリア人ではないとは反論しませんでした。主が答えうるのは「私は悪魔につかれてはいない」だけでした。そして最後の晩餐でも、主はこう断言しています。「この世のかしらが来る …つまり悪魔が来る… 彼は私にたいしてなにもできない」(ヨハネ14:30)と。
主は言葉を続けます。「私は、私の父を尊んでいる」「私は自分の光栄を求めていない」と。主は、御父からの教えをそのまま変えずに伝えているだけだからです。つまり主は「私は自分の義務を果たしている、あなたたちは私を軽蔑しているが私の関心はそこにはない、御父が私の光栄を求めており、あなたたちは御父が求めている私の光栄を軽蔑していることで裁かれるだろう、と言っておられるのです。実に最後の晩餐でも主はこう言われます。「私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らなければならない」(ヨハネ14:31)と。
イエズス・キリストはさらに、霊魂の破滅について、永遠の死について言及してこう言います。「私のことばを守るなら、永遠に死を見ないだろう」と。これは肉体の死を味わわないということではありませんでした。肉体の死については、主には御受難が待っていたからです。そうではなくて、主の話す「死」とは、永遠の地獄における霊魂の破滅のことです。すると、肉体の死のことだと誤解したユダヤ人たちは主にこう言います。「アブラハムも死に、預言者たちも死んだのに、あなたは自分をなにものだと思っているのですか?」と。
それに対してイエズスは答えます。「あなたたちは御父を知らないが、私は知っている。…私はそのお方を知り、そのみことばを守っている」と。
主は御父を知っていますが、何故ならば本性において、御父が天主であるように御子も天主だからです。イエズス・キリストは御子であるからです。かつてアブラハムは、イザアクに木を担がせて彼を犠牲としてささげようとしたときに、実は主の御受難の前兆を行っていました。
同じアブラハムは、天主の御言葉が人となって、そして十字架の受難の日が来た、ということを古聖所から見て、知り、喜んでいました。その事実をイエズス・キリストは天主としてご存知でした。ですからこう言われます。「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見たいと思って喜びにあふれ、そしてそれを見て喜んだ」と。
また主は続けて、肉体の観点からしか見ることができないユダヤ人たちに対してこう言います。「まことにまことに私はいう。アブラハムが創られた(fieret)以前に、私はある(sum)」と。
天主には過去も将来もありません。常に今です。永遠の今です。ですからイエズスは「私はいた」とはおっしゃらずに、「私はある」と現在形を使いました。ちょうど旧約時代に、ヤーウェがモーゼに対して、ご自分に固有の名前を「私は有りて在るである」と示したのとまったく同じ表現を使いました。イエズス・キリストは、始めであり、終わりであり、アルファでありオメガであり、永遠に変わらないお方です。主は永遠の昔から永遠の未来にわたって常に「私はある」というお方です。
石のように固い心を持っていたユダヤ人たちは、それを聞いて手に石を取って、主を石殺しにしようとします。主は、まだご受難の時が来ていなかったので石から離れ去ります。それと同時に天主は、彼らの石のような心から離れ去ります。主の御言葉を軽蔑する人から、真理は隠れます。傲慢な霊魂から真理は逃げ去っていきます。
2:ポンシオ・ピラトの前で
今日の福音のキーワードは、聖金曜日にも繰り返されます。つまり「主が無罪である」ということ、また「真理を聞く」ということ、また「あなたはなにものだ?」という問いです。
イエズス・キリストとローマ総督ポンシオ・ピラトの対話がなされるその場面をご覧ください。
縄目をうけて辱められているイエズス・キリストのお姿は、常に謙遜で、落ち着いておられます。威厳がある態度でまったく聖なる御姿です。ピラトは自分の事だけを考えていた弱い人でした。裁判官が持つべき高貴さはありませんでした。
このふたりの対話の内容を聞いてください。ユダヤ人たちが叫んでいるそして訴える声をピラトは耳にしていました。「(1)私たちはこの男がわが国民を乱し、(2)チェザルに貢を納めることを禁じ、また、(3)みずから王キリストだといっているのを見ました」(ルカ23:1)との告発です。最初の点は曖昧で、第二は嘘で、第三には真理が歪曲されていました。
そこでピラトは「あなたはいったい何をしたのか?何者なのだ?」とたずねます。イエズスは「私の国はこの世からのものではない」とお答えになるのですが、するとピラトが「するとあなたは王か?」ときいたので、イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である」(ヨハネ18:36-37)と答えられます。この答えで、主に対する疑惑はまったく全て答えがつきました。国民を乱すと言う告発が虚偽であるということが証明されます。
主はさらに言葉をつづけてこう言います。「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18:37)。
ここでまたキーワードが出ました。「真理」。
ピラトは問います。「真理とはなにか?」。しかし、答えを聞かずにその場を離れてしまいます。
もしもイエズス・キリストに答えるチャンスを与えていたら、主はピラトの良心に特別の光を与えて良心を照らして、永遠の救いを提供したことでしょう。主はピラトの良心を照らして悟らせたことでしょう。「私は、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。
答えを待たずしてピラトは、司祭長たちと群衆に宣言します。「私はこの男になんの罪もみとめない」と。
この後、実はイエズス様はヘロデのもとに送られて、ヘロデ王からあざけりを受けます。それからもう一度ピラトのもとに戻ってきます。ピラトは、司祭長たちとかしらたちと民をあつめてまた宣言します。
「あなたたちの前でしらべたが、あなたたちが訴えることについて、この人にはなにひとつとがめる所がなかった。そして、ヘロデもそう思ったから、この男をわれわれの前におくりかえしてきた。見るとおり、この男は死にあたることをなにひとつしなかった」(ルカ23:13-15)。
はい、イエズス・キリストは無罪でした。まったく罪がありませんでした。しかし臆病なピラトはこう付け加えます。「だから、こらしめてからゆるすことにする」と。「無罪だ、だから罰する」。これがピラトの論理でした。何という論理だったでしょうか!
この後に、不正に不正が重ねられます。無罪であるのにもかかわらず、鞭打ちの刑、茨の冠、そしてさらには強盗殺人犯との比較、そしてついには十字架での死刑が待っています。しかしイエズス様は、黙ったまま、それを全てうけいれます。主は何を思っておられたのでしょうか?主が思っておられたのは自分になされる不正のことではまったくなく、ひたすら主が思っていたのは、御父に対して正義を満足させること、罪を償うこと、私たちの代わりに罪を償うこと、私たちを極みまで愛すること、これだけでした。
イエズス様の至聖なる聖心に心から申し上げましょう。「主よ、御身の計り知れない巨大で深い愛を心から礼拝いたします。深い愛の絆で私を結び付けてください。御身の聖心に多くの霊魂たちを引き寄せてください。御身の真理を聞くことができるように、光を放ってください。御身の謙遜、犠牲の心を私たちに倣わせてください。柔和謙遜なるイエズスの聖心よ、私の心を御身の聖心のようにしてください。イエズスの聖心よ、御身は私が何をすることをお望みですか?私たちをここまで愛する天主のために、天主イエズス・キリストのために、主とともにわたしたちも苦しむことができないと言うことがありうるでしょうか?主が私たちのためにここまでの屈辱を苦しみ、そして柔和にそして謙遜に耐え忍べば耐え忍ぶほど、私たちもさらに深く主を深く礼拝させてください。主よ、私たちが御身に感謝を示すことができるようにしてください。私たちの弱さを助けてください。私たちが主を裏切ることがないように守ってください。罪を忌み憎む聖寵を与えてください。御身に倣う愛徳を与えてください」。
3:遷善の決心
では今日この黙想の終わりに選善の決心を立てましょう。
イエズス・キリストはわたしたちに真理を教えておられます。カトリック教会は2000年間主の教えた真理をそのまま伝えられたまま教え続けています。ベネディクト十六世もこう言っておられました。「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます」(ベネディクト十六世)。昨日真理だったことは、今日も真理であり、明日も真理でありつづけます。
カトリック教会がかつて聖ペトロの口を通して教えた真理は、そしてフランシスコ・ザビエルが日本に来てその時に、日本に来た時に繰り返して教えた真理は、どんなに時間を経たとしても、変わることはありえません。だんだん時間を経るにしたがって「あれ、やっぱりちがう」などと気がつくこともありえません。今まで2000年間の教えとは別のやり方で教会が考えるようになってくるということもありえません。真理は時を超えて場所を超えていつも同じであり続けるからです。
人間の生命について、堕胎や安楽死について、結婚について、同性愛について、また、カトリック教会の外に救いがないことについて、またその他の教会の教えてきた様々な真理について、時代が変わってだから真理が変わるということはありえません。キリストの教えはいつも同じです。カトリック教会は、命がけでこの真理を言い続けそして教え続けてきました。洗者聖ヨハネがそうでした。イギリスの聖フィッシャー司教がそうでした。ナチスに対して声を上げたミュンスターの福者クレメンス・グラーフ・フォン・ガーレン司教がそうでした。
私たちの主は、唯一のまことの天主、私たちを愛するがあまりに人間となった天主、私たちの罪を償うために全ての苦しみを受けて十字架の死をささげた天主です。この主は言われます。「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを」。結婚は男と女の両性が行うものです。
愛する兄弟姉妹の皆様、現代世界はいまや死の文化の真っ只中に突入しようとしています。マスメディアやソーシャルネットワークは、イエズス・キリストの声を教えを書き消そうとしています。教会の聖伝の教え・二千年間の教えを断罪して抹殺しようとしています。主のみことばを聞き、わたしたちがそれに従い続けることができるようにそのお恵みをこい求めましょう。
最後に聖母と聖ヨゼフに祈りましょう。教会の過去を取り消そうとする動きに対してたった一人で立ち上がったルフェーブル大司教のような勇気ある司教さまたちが私たちに与えられますように。今人類の過去を取り消そうとするキャンセル・カルチャーが広がっています。これに対して立ち上がる司教様がわたしたちに与えられますように。死の文化ではなく、命の文化を守る勇気ある司教様たちが与えられますようにお祈りいたしましょう。教会が2000年間教えた真理をそのまま、伝えられたまま伝える教会の指導者が与えられますように、祈りましょう。
「私に罪があると確認できる人が、あなたたちの中にあるか?私が真理を知らせているのに、なぜ信じようとしないのか?天主からの人は天主のみことばを聞くが、あなたたちは天主からの人ではないから、私のことばを聞こうとしないのだ」。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。