司教聖別と必要性の状態―ベルナール・ド・ラコスト神父
以下は、エコンの神学校校長であるベルナール・ド・ラコスト神父が、2026年2月8日に行った説教の翻訳です。
親愛なる神学生と信者の皆さま、
先週の月曜日、聖ピオ十世会総長は、7月1日(水)に司教聖別が行われると発表しました。聖別式はここエコンにある、1988年6月30日にルフェーブル大司教が4人の司教を聖別した、まさにその場所で行われます。歴史的な出来事となるでしょうが、その範囲と意味を明確に理解することが大切です。
この聖別式の特別なところは、現時点では、教皇レオ十四世の認可を受けていないことです。私たちは、教皇がこの聖別を許可してくださることを心から願っています。私たちは、その意向のために祈らなければなりません。通常なら、ペトロの後継者であるキリストの代理者の認可なしに司教を任命することは禁じられています。そのため、私たちの総長は、数か月前に教皇との謁見を要請しましたが、残念なことに、いまだに認められてはいません。総長は、教皇に数通の手紙を送っていますが、今のところ受け取った唯一の回答は、教理省からのものですが、否定的です。私たちは希望を持って祈り続けます。
来週木曜日(2月12日)、パリャラーニ神父はフェルナンデス枢機卿の招待に応じるためローマへ向かいます。しかし、この枢機卿は聖伝を重んじる方ではありません。だからこそ、人間的な観点からすれば、この面会にあまり期待すべきではありません。しかし、聖霊が息づいておられる限り、すべては可能です。だからこそ、私たちは信頼を持って祈らなければなりません。
教皇を嘲笑し、聖座を軽蔑し、レオ十四世が存在しないかのように生きている人々に、私たちは賛同しません。キリストは、聖ペトロとその後継者たちの上に教会を立てられました。教皇への愛と尊敬、ローマと聖座への愛、教会の教導権への服従は、ルフェーブル大司教が創立した聖ピオ十世会の精神の一部です。
しかし、60年間もの間、キリストから信仰によって司祭や信者を固めるという使命を受けていた人々が、自らの権威を使って信仰と道徳を攻撃してきました。60年間もの間、聖座は、混乱した、曖昧で、時には誤っていて、教会が常に教えてきた教えとは根本的に相反する教えを広めてきました。天国に行くために信仰と成聖の恩寵の状態を保ちたいのであれば、私たちはこれらの権威に抵抗し、真理と善から私たちを遠ざけるような権威に従わないようにせざるを得ません。
ローマから来た教えの中で、カトリックに留まるために拒否すべきものをいくつか挙げます。
◇カトリックでないキリスト教共同体は救いの手段となり得る。――これは間違っています。
◇キリストは社会において公的に君臨してはならない。――これは間違っています。
◇離婚して再婚した人にも聖体拝領をする権利がある。――これは間違っています。
◇同性カップルは司祭から祝福を受けることができる。――これは間違っています。
◇旧約は今も有効であり、廃止されていない。――これは間違っています。
◇童貞聖マリアを共贖者と呼ぶべきではない。――これは間違っています。
◇教皇は教会において唯一の最高の権力を持つ者ではない。――これは間違っています。
◇気候問題への配慮と地球の保護は、教会にとって最優先事項でなければならない。――これは間違っています。
◇宗教間対話は有益で実り多い。――これは間違っています。
◇聖伝のミサは時代遅れで、廃れ、廃止され、禁止され、古臭く、旧式であり、もう21世紀のキリスト教徒の願望に合致していない。――これは間違っています。
◇たとえ良心が誤っていたとしても、すべての人は良心に従って生きる権利を持っている。――これは間違っています。
残念なことに、他にも多くの例があります。
ラッツィンガー枢機卿は、教皇ベネディクト十六世になる数週間前、教会をあらゆる方向から浸水する舟に例えました。この例え話に倣い、皆さまに一つお話したいと思います。
大西洋の真ん中での出来事です。船に穴が開き、水が浸入し始めました。すると、元気いっぱいの船員が急いで穴を塞ごうとします。しかし、船長が口を挟みます。「いや、落ち着け。穴を塞ぐのは禁じる!」。驚いた船員はこう反論します。「しかし、船長、何もしなければ沈没してしまいます!」。それでも船長は頑なにこう言います。「乗組員全員に、わずかな裂け目も塞ぐことを禁じる」。
船員は驚き、なぜ船長がこのような不合理で理不尽な命令を下したのか理解できず、少し考えた後、命令に従わないことにしました。そして、他の二人の仲間と共に、船が沈没しないように修理に奔走します。これは、聖ピオ十世会とその友好的共同体が極めて慎み深く試みていること象徴的に説明したものです。
今日、聖なる教会が直面している恐ろしい危機において、すべてのカトリック信者は信仰を守るために行動しなければなりませんし、聖職者たちは宣教の愛をもって、信仰の教理上の純粋さのすべてを伝えるために行動しなければなりません。
さて、忠実な司祭が存在するためには、忠実な司教が存在しなければなりません。だからこそ、司教聖別が必要なのです。
教皇は新しい司教たちを罰するのでしょうか? 教会法上の罰を与えるのでしょうか? 聖ピオ十世会の会員と信者たちは、離教の罪で告発されるのでしょうか? それはあり得ます。
しかし私たちは離教者になるくらいなら、死んだ方がましです。ローマ教会の外で生きるくらいなら、死んだ方がましです。
そしてもし私たちが教会の中で、そして聖職者たちの手によって苦しまなければならないとしても、使徒たちもまた、聖霊降臨の後、当時の宗教指導者たちの手によって苦しんだことを忘れてはなりません。聖書は、彼らがイエズスの御名のために苦しむにふさわしいと判断されたことを喜んだと記しています。私たちも、王たるキリストとその不変の教えのために苦しむにふさわしいと判断されたことをうれしく思います。聖パウロは私たちに、こう警告しました。「キリスト・イエズスにあって敬虔に生きたいと願う者は皆、迫害を受けるでしょう」。
7月1日の聖別式は離教行為に当たると考える人々がいます。聖ピオ十世会が新しい司教たちに裁治権と呼ばれる統治する権利を与えると主張するならば、これは正しいでしょう。しかし、7月1日の聖別式で新しい司教に与えられるのは叙階の権能のみであり、これにより司教たちは堅振の秘跡を執行し、司祭叙階を行い、教会とカリスを聖別することができます。彼らに裁治権はなく、教区長に任命されることもありません。聖ピオ十世会はこれまで、並行教会の設立を決して望んできませんでした。司教に対して、「あなたをパリ、ニューヨーク、北京の司教に任命します」と言えるのは教皇だけです。パリャラーニ神父は、決して教皇の権力を奪取しようと主張していません。
聖座が私たちにこう言うかもしれません。「分かりました、司教の聖別を許可します。ただし、第二バチカン公会議と新しいミサという二つのものを受け入れるという条件のもとでです」と。私たちはどう対応すべきでしょうか? 単純なことです。近代主義者になるくらいなら、死んだ方がましです。完全なカトリックの信仰を放棄するくらいなら、死んだ方がましです。聖ピオ五世のミサをパウロ六世のミサに置き換えるくらいなら、死んだ方がましです。
この議論の背後には、永遠の救いという問題があります。私たちは天国に行くために地上にいます。天国に行くためには、成聖の恩寵の状態にいなければなりません。そして、成聖の恩寵の状態にいるためには、信仰を持たなければなりません。聖パウロは、信仰がなければ天主を嘉することはできない、と言っています。ですから、地上の人生の終わりに至福の天国に行きたいと思うなら、近代主義を拒絶しなければなりません。聖ピオ十世は、近代主義はあらゆる異端の合流点、あるいは異端の肥溜めであると述べています。ですから、この困難な時代に私たちの霊魂を救う最も確実な方法は、聖伝のカテキズムを知り、それに従って生きることです。
私たちが微妙な状況に陥り、進むべき道に迷っているとき、私たちの主は福音の中で識別の基準を与えてくださいます。人は木をその実で判断する、とイエズスは言われます。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
では、新しい神学と新しいミサの実は何でしょうか? 現代の神学校は空っぽになり、主日の教会にいるのはほとんど高齢者であり、修道会の数は激減し、道徳はもはや尊重されなくなっています。それとは対照的に、聖伝のミサは人々を引きつけ、今日、召命を引きつける修道会は聖伝を守っているところだけです。信者たちの実も見てみましょう。大家族はどこにいるでしょうか? 互いに忠実で、結婚の道徳を尊重する夫婦はどこにいるでしょうか? いるのは、特に聖伝が守られている共同体です。
例えば、このエコンの教会では、主日のミサに小さな子供たちが大勢いて、子供たちの声が出席者の邪魔になり、司祭が集中できないこともあります。これは聖伝の力強さを証明しています。
最後に一言付け加えましょう。今日、聖伝のミサとカテキズムを守りながら、見かけ上は教皇の教えに従っている共同体があります。なぜ聖ピオ十世会はそうしないのでしょうか?理由は簡単です。私自身、例えば聖ペトロ兄弟会の、こうした司祭たちに何人か会って質問したことがあります。このような司祭らは皆、説教で自分が何を説くかについて非常に注意しなければならないと認めました。司教は彼らを監視しています。彼らは私にこう言いました。「もし私が近代主義の誤謬を批判する説教をしたら、翌日には教区から追放されます」と。しかも、実際にそのようなことが何度も起こっているのです。善意に満ちたこれらのかわいそうな司祭たちは、口封じされているのです。彼らには真理を教える権利がありません。このような立場は到底容認できません。
だからこそ、パリャラーニ神父の決断は理にかなっているのです。例外的な状況に直面した時には、例外的な解決策を講じなければなりません。
7月1日を待ちながら、私たちは祈らなければなりません。教皇レオ十四世のために、私たちは熱心に祈り、犠牲を払わなければなりません。教皇の重荷は非常に重いものです。カトリック信者の中には、彼を批判するだけで満足する人もいます。それは建設的ではありません。教皇が聖霊の助けによって、ペトロの舟を救いの港へと導くことができるよう、教皇のために祈り、犠牲を捧げましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。